詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋秀明「診察室」

2014-08-12 11:30:34 | 
高橋秀明「診察室」(「LEIDEN雷電」6、2014年07月25日発行)

 高橋秀明「診察室」は何だかいかがわしい。いや「診察室」ということばから「いかがわしい」ことを想像するというのは「流通妄想」に過ぎないのだけれど。そんなものに飲み込まれてはいけない、と無理をしてあらがってもいけない、ええい、どっちなんだ、という気持ちになるが……。
 医師は「私」に対してカルテをみせる。そこにはサンズイに「亥」という文字が書かれている。

医師は私に確かめるように「さんずいはまちがいだよね?」と同意を求め「ごんべんがただしいのじゃないだろうか?」と訊いてきた。「先生、これはセキの字のつもりですよ。ゴンベンじゃなくてクチです。クチにこのイで『咳』が本当でしょう」と私は答えたのだが、医師は「そうかセキか」と言いながらもなおがってんがいかない様子で「セキってどう書いたっけかな?」と照れくさそうにあらためて尋ねてきた。

私は件の書類を「それ、よろしいですか?」と引き寄せると、「●」に「亥」と書かれた横にボールペンで「呟」としっかり書き付けながら、「クチにゲンで『呟(セキ』」ですと断言したのだった。しかし、書き上げた「呟」の字はいつもの字と異なっているようにも見え、すっきりしない感じがこみあげてきたがこんなことを間違える筈はないと思ったから、「前後の流れから言ってもこれは『呟(セキ)』で間違いないと思いますが…」と畳みかけて、医師も深く頷いたのだった。その石の頸の動きが正解を押し出す仕掛けであったのか、「呟」はツブヤキでありセキではないと私が思い当たったそのとき、
                  (注 ●はサンズイ、(セキ)も本文はルビ)

 「咳」を巡る漢字の勘違いのことを書いているのだが、その漢字の半分正解で半分間違いの揺れ動きが、なんとも「いかがわしい」。というか、あ、そうか「いかがわしい」というのはこういうことなんだなあ。
 ある状況を見て、ひとは、その前後を適当に考える。
 この詩のはじまりは、

「お楽しみですか?」と皮肉の意図もなしに思わず口にして、私は広い診察室に入った。一坪ほどの広さのガラスケースの中で四つん這いになった白い裸体を見た気がしたのである。だが実際には、私の前の患者と思われる女装男性が、下半身はパンティストッキングを穿いたそのままの姿で回転椅子に腰かけ、医師に背を向けてブラジャーのホックを後ろ手に留めようとしているところであった。

 である。見たもの(そこにあるもの)の「前」を妄想し、いかがわしいことを思う。実際は知らないのに、「過去」を「状況」から捏造する。「流れ」を捏造する。
 そういうこととは別のことも起きる。
 最初に引用した部分では、読めない漢字がある。その漢字をなんと読むか。わかっている「前」と「あと」をひとつの「流れ」と信じ込み、そこにあてはまることを「妄想」する。
 その「妄想」(想像といった方がいいのかもしれないけれど)は、「正解」のときもあれば、「誤解」のときもある。さらには「誤解」とどこかで気がついても、そのまま「誤解」を「正解」と言い張って暴走するときもある。
 これは、いったいどうしてなのかなあ。
 --ということは、ちょっと口で言ってみただけで、私は本気で考えていない。
 そんなことは、どうでもよくて。
 こんなことを、「論理的」な文脈の中で書きつづけることばの運動がおもしろいなあ、と思う。書き方が「誤解」を与えないように、ことばが暴走しないように、丁寧に丁寧に動いていく。
 そうか、妄想(いかがわしさ)というのは、乱暴な暴走ではなく、ねちねちと丁寧であることなんだなあ。丁寧なひとの接近というのは、なんだか、肌をぞくっとさせる。皮膚感覚を刺戟するが、そんなことを思ったりした。

 丁寧な「論理」のいかがわしさ、次の部分にもある。

間違いというのはそれが間違いであるかどうかはあらかじめ判りません。間違いは事後にしか判明せず、だから間違いに対しては予防することはできず償うことしかできないのです。あらかじめ判って避けることはできなくて、事後に取り消したいと念ずることだけが間違いを償う道であります。

 その通りなんだけれど、同じことを繰り返し違うことばで言いなおされると、そのしつこさに、なんだか吸い込まれてゆきそうな感じになる。そして、そのべたべたが、うーん、いかがわしい。こんなにしつこいのは「正しい」何かとは違うぞ……。

 まあ、私の感想なんか、どうでもいい。
 高橋の、この丁寧な文体の、丁寧さに「いかがわしい」と感じた、「いかがわしさ」の魅力を感じた、とだけ、「短く」言っておこう。「正しさ」を丁寧に追い求めると、変にいかがわしいものになるなあ、感じた。
 あ、これは、いい意味、評価して書いてるんだけれど。
 あとは、作品の全文を読んでください。

捨児のウロボロス
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書肆山田
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(143)

2014-08-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(143)        

 「ミリス、アレクサンドリアびと、紀元三四〇年」は、恋人か、友人か、遊び仲間のミリスが死んで、その葬式に出掛けたときのことを書いている。キリスト教の家にははいらないと決心していたのだが、そんなことをいっていられない。出掛けてみると、親類の人が「私」のことを呆れ、不機嫌な目で見つめる。ミリスの死の原因が、その遊び仲間に原因があるからなのだろう。あるいは「私」が異教徒だからか。
 そういうことを簡潔なことばで書き進めたあと、さらに簡潔に、「大広間に死体を安置。/この隅からちらりと見える。/高価な絨毯、/金銀の器。」と周辺の様子が描かれたあと、ことばの調子が変わる。ミリスはキリスト者であってギリシャの神を信じているわけではないという思い出が語られる。生きている間は、それでも同じ生き方が二人を結びつけていた。しかし、葬儀がはじまると……。

突然、不思議な感じが襲ってきた。
ぼんやりそんな気がしたのだ、
ミリスが離れてゆくと。
あいつはキリスト者。あいつの民と合体して
私とは無縁な人になって行く。赤の他人に、そういう感じだ。
いや待て。あるいは
もともと情熱にだまされただけか。
元来無縁の人だったか。
連中のおぞましい家からとびでた。
逃げろ。私のミリスの思い出まで
キリスト教につかまって くつがえされるかも。

 ギリシャには複雑な歴史、激動の歴史があるのだと、あらためて気づかされる。宗教の対立、それは国家の対立でもあり、戦争の要因にもなっただろう。
 愛は、あるいは肉欲はといえばいいのかもしれないが、そういう精神的な対立とは無縁のところで生きている。だから宗教に関係なく、ひとは「恋人」になるが、死んでしまえば「恋」よりも宗教の方が人間を支配してしまう。「恋」は本人の意思だけで動くが、宗教はときに個人を否定して団結する。
 この詩では「ミリスの思い出まで/キリスト教につかまって くつがえされるかも」という形で、その「個人」と宗教のことが書かれているのだが、その「ミリスの思い出」ということばに、「私の」という強い限定があるところが、この詩の重要なところだ。
 ミリスに対しては誰もがそれぞれ思い出を持っている。親類はもちろんミリスをキリスト者としておぼえている。ところが「私」は違うのだ。世間一般のキリスト者とは違う生き方をしているミリスのことをおぼえている。その「私だけの」ミリスの思い出を、キリスト教の葬儀から「私」は救いだす。
 古代を題材にとりながら、カヴァフィスは、ここでも「現代」のことを書いているのだろう。複雑な国際環境のなかにあるギリシャに生きる理不尽を書いているのだろう。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
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