詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(2)

2014-08-19 09:53:12 | 詩集
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(2)(思潮社、2014年08月12日発行)

 ことばの「意味」を裏切ると詩になるのか。詩が生まれるのか。「意味」を破壊する自由、暴力が輝くのか。
 逆かもしれない。
 それは単に、ことばの「意味」を共有していたということの確認にすぎないかもしれない。「意味」をひっくりかえす、「意味」という権力をひっくりかえすことができたとき、詩は反権力になり、暴力になるというのは、悪質なデマかもしれない。
 「意味」をひっくりかえすとき、「意味」をつかっていない? 人が無意識に「共有」している「意味」や「方法」や「論理」をつかっていない? それは「意味」から「意味」への渡り歩きになっていないだろうか。
 こんな例を出すのが適切かどうかわからないけれど、最近、世間にあふれている安倍首相の「集団的自衛権」の前提としている論理。「もしどこかで戦争が起きて、アメリカ海軍の船が日本人を救出しているのに、日本の自衛隊がその支援・応援をできないのはおかしい。」これは何人もの人が指摘しているように、「意味」の「前提」がおかしい。不自然。戦争が起きたらアメリカ軍はアメリカ人を救出することを優先する。日本人なんか、アメリカ人の救出が終わるまでするはずがない。考えてみるべきは、そういうとき「救出しなければならない人数はアメリカ人の方が多い。アメリカ人の方が経済的に世界を動かしている。まずアメリカ人を救出するために、日本の自衛隊も参加すべきである。それが集団的自衛権、世界の平和を確立するための優先順位である」とアメリカが言って来ないかどうかである。
 「意味」は、いつでも、どういう具合に人を動かしたいか、という意思といっしょにある。「意味」は人を説得させ、動かすためにある。人を支配するためにある。
 だからこそ、まあ、秋亜綺羅は、その「意味」を簡単にひっくりかえして、ほら、こんなふうに暴力的になってみよう、自由を手に入れてみようというのだろうけれど。(それだけではない、と秋亜綺羅は言うだろうけれど。)

 私は、ことばに「意味」がなくてもいいと思う。ことばは「無意味」であっていいと思う。「無意味」こそが「詩」なのだと思う。「意味」を放棄して、ただ、そこにある「ことば」。そこにある石や木や、そこに立っているだけの見知らぬ人のように、ある瞬間、自分とはまったく無関係に、そこに、それがそうしてあるということが、もしかしたら詩というものではないだろうかと思う。
 どこからやってきたのかわからない。でも、そこにある。何の関係もないのだけれど、というか、関係は、そこからつくっていくしかない。そういう存在が「詩」であると感じている。
 --こんな抽象的なことは、いくら書いてもしようがないのだが。



鳥が鳥かごに飼われるのは
鳥は空を飛べるからだ             (「ひよこの空想力飛行ゲーム」)

 この「言い回し」。
 ふつうは、こういう言い方をしない。「鳥を取りかごで飼うのは、そうしないと鳥は飛んで逃げるからだ。」補足すれば、「鳥は空を飛べるからだ」ということになるのかもしれないが、いちばんの違いはどこ?
 秋亜綺羅は「鳥を飼う」というときの「主語」について語っていない。鳥は鳥かごで「飼われる」ものではない。「鳥かごで(人間が)飼う」ものである。「飼う」というのは「逃げないようにする」ということでもある。そういう「主語」の問題を放り出しておいて、鳥と鳥かご、空と飛ぶを持ち出してきたって、「意味ごっこ」にすぎなくなる。
 鳥との信頼関係(?)ができたとき、ひとは鳥を鳥かごに入れずに飼うこともできる。鳥が空を飛べても、かごにいれずに飼うことができる。
 鳥は空を飛ぶ、鳥は飛んで逃げていく--その「逃げていく」を「共通の認識」として前提にしておいて、秋亜綺羅はことばを動かしている。
 そういう感じがどうしてもしてしまう。

鳥が飛ぶことをやめてしまえば
だれも鳥かごに閉じ込めたりはしない

飛ぶことをあきらめてしまえば
そこには、自由が待っている!

 鳥が飛ぶことをやめなくたって、鳥かごを必要としないときもある。また、鳥かごは鳥を逃がさないというだけではなく、鳥を猫が襲わないようにするためということもある。鳥かごは鳥の安全を守る。安全があってこそ、鳥は自由だ、ということもできる。
 「意味」なんて、みんな、嘘である。自分の欲望を貫くために考え出した「方便」である。
 そう知っていて、それでも「意味」をひっくりかえしてみせる。こんな具合に「共有認識」にしばられているのが現実なんだと言ってみせる--ということなのかもしれないけれど。

きみとぼくが息を殺して
殺していたのはなんだったろう     (「来やしない遊び友だちを待ちながら」)

 ここでは「息を殺す」という常套句が取り上げられている。そのとき「共有」ものはなんだろう。すぐには言えないね。難しいね。「鳥を鳥かごで飼うのは、鳥が飛んで逃げると困るから」という具合には簡単に言えない。
 そういうふうに簡単に言えないものがあるということを、この2行は教えてくれるが、秋亜綺羅はその「なんだったんだろう」を「何」と考えているのかな? 詩は「答え」を出す必要はないが、そうだったら

オモテは裏にとってみれば
裏なのかな                     (「ひとは嘘をつけない」)

 では、なぜ「答え」を暗示するようにことばを動かしてみたのだろう。

 あ、また、変な具合にことばが動いていってしまうなあ。
 あしたは違うことが書けるかな?



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(150)

2014-08-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(150)        2014年08月19日(火曜日)

 「世話をやいてくださっていたら」には下卑た「声」が満ちている。

しかし私は若くて健康。
ギリシャ語はペラペラ。
アリストテレスとプラトンを読みに読んだ。
詩人、雄弁家、いや何でも濫読さ。
軍事も少しわかる。
傭兵将校に友だちがいる。
行政の世界にも足がかり。

 ここには、いろいろな自慢が書かれているが、自己というものがない。「傭兵将校」「政治の世界」に、友だち(顔見知り)がいる。接近の方法がある。それは「私」自身で道を切り開いていくというよりも、誰かのひきあいで、その世界へ入っていくということだろう。「下卑た」感じがしてしまうのは、「他者頼み」の印象が強いからだろう。

まずザビナスに接近だ。
あのアウホが私を高く買わぬなら、
あいつの敵のグリュポスだ。
あの鈍物がおれに地位をくれぬなら、
その足でヒュルカノスさ。

 この詩の登場人物は、彼自身の「理想」をもっているわけではない。何かがしたいわけではない。--いや、したいことはある。「地位」を手に入れたい。「地位」が手に入るなら、何をしてもいい。
 「あのアホウ」「あの鈍物」という評価をしながら、「地位」だけを欲しがっている。こういう「欲望」が「下卑ている」。
 だが、それがどんなに下卑ていようとも、そういう「声」はたしかにある。そういう「声」もカヴァフィスにはしっかり聞こえた。そして、聞こえただけではなく、何かしらの魅力も感じていたのだと思う。その場限りの欲望がむき出しになった「声」。その「声」を発するものの「肉体」。それが見えたのだろう。

誰を選ぶか、気にしない。
おれの良心は痛まぬよ。
三人ともシリアの害虫。同等さ。

 「良心は痛まぬ」、なぜなら「三人とも害虫」だから。--そのあとの「同等」がなまなましい。三人が「同等」なら、そのときの「私」もまた「同等」である。この「同」は「同性愛」の「同」と同じである。「同じ」ものが互いを呼びあい、必要としている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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