詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ゲイリー・フレダー監督「バトルフロント」(★★★)

2014-08-13 23:02:02 | 映画
監督 ゲイリー・フレダー 脚本 シルベスター・スタローン 出演 ジェイソン・ステイサム、ジェームズ・フランコ、ウィノナ・ライダー、ケイト・ボスワース



 B級映画のごくごく普通のできの作品なのだが。
 ちょっと書きたいことがある。脚本の細部が意外と丁寧なのだ。
 冒頭、橋のシーンが出てくる。バイクでいかつい男が走ってくる。何でもないのだが、この目立った登場の仕方が、「伏線」になっている。
 ラストの方、ジェイソン・ステイサムを殺しにマフィア(?)が小さな街へやってくる。とても目立つ。ジェームズ・フランコが「何で何人もでやってきた。これじゃ、目立ってしまう」とウィノナ・ライダーを苦情を言う。(ウィノナ・ライダーせ「知らない、私のせいじゃない」というようなことを言うんだけれど。)
 もちろん道路を、つまり街中をとおって彼らが動けば目立ってしようがないのだけれど、彼らは移動にボートをつかう。木々のなかの川を(沼を)動くので目立たない。土地(風土)を利用する。これが、ちょっとにくい。犯罪者はバカではない、というか、バカだと犯罪もできない。
 アクション映画なのだけれど、アクション一辺倒ではなく「頭脳戦」の様相も含まれている。これが、なかなかにくい。
 少し脱線したけれど、橋にもどろう。最初の橋とは違うのだけれど、ラストのクライマックスに橋が出てくる。ここで橋に「意味」をもたせることもできるけれど、まあ、そんなことはしない。ただ、あ、橋か、うまいなあ。最初のシーンを思い出させて、映画の最初と最後が円になってつながるようで、「完結感」が生まれる。
 さらに、この「完結感」に、ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコを殺そうとする瞬間を娘が見つめ、さすがに娘の前では人を銃殺もできず……というシーンがあり、それがこのストーリーの麻薬マフィアのボスの目の前で息子が殺されるシーンとも重なって、お、よくできているね。最初のシーンが伏線になって甦るなあ、と感心させる。アクションなのに情感がにじむ。
 で、伏線の話をすると、ひとつ、非常にこころにくい伏線がある。
 ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコの麻薬工場を見つけ、そこで作業をしようと電気のスイッチを入れたら工場が火災、さらに爆発するという工作をする。その工場にジェイソン・ステイサムの娘が誘拐され、ジェームズ・フランコの妹役のケイト・ボスワースがあらわれ……説明すると面倒なので端折るが、無意識に工場の電気のスイッチを入れる。火災、爆発が起きる。それはジェイソン・ステイサムの想定したことと半分合致し、半分違っている。ジェイソン・ステイサムは麻薬製造中に爆発が起きることを想定していた。だから、これは一種の伏線外しになるのだが、ここが、うまい。脚本(シルベスター・スタローン)の華とでも言えるシーンだ。
 映画を見ている観客は何が起きたかわかるが、ケイト・ボスワースには何が起きたのかわからない。(ジェームズ・フランコは、何となく想像できる。)そこにいる登場人物が何が起きているかわからないと感じるその一瞬のリアリティーが、すごい。あ、こんなところで爆発が起きてしまう、想像していたのと違うと観客自身が、自分の想像力を裏切られたために、影像に引き込まれていく。想像したいた通りのことが起きたときも影像に引き込まれるが、想像を裏切られたときの方が強く引き込まれる。映画であることを一瞬忘れる。
 (ケイト・ボスワースは美人だし、うまい役者なのに、最初はとても嫌な女として登場するので、うーん、残念だなと思っていたのだが、そうか、このシーンのために彼女が起用されたのだとわかる。--まあ、これは感覚の鋭い観客なら何かあるぞと見通していたことかもしれないけれど、私はぼんくらなので、そこまでは想像しなかった。)

 で。結論。
 この映画は、シルベスター・スタローンの脚本がいい。途中で銃で撃たれたはずのジェイソン・ステイサムがまるで撃たれなかったかのように暴れ回るのは変ではあるのだが、アクションシーンがしつこくないのもいい。ジェイソン・ステイサムのクール路線を生かすためにそうしたのかもしれないが。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 )

2014-08-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 )        

 「アレクサンドロス・ヤナイオスとアレクサンドラ」は次のようにはじまる。

成功に陶酔し、しんそこ満足して
王アレクサンドロス・ヤナイオスと
その妻・王妃アレクサンドラは
イェルサレムの通りを闊歩する。

 この詩にかぎったことではないがカヴァフィスのことばそのものには「詩的」という印象が少ない。いや、まったく詩的な印象を欠いている。一行目の「成功に陶酔し」という書き出しは説明的な散文の響きである。「しんそこ満足して」も単なる説明に過ぎない。どこに詩人の工夫(詩人にしか書けないことばの奥深さ、ひと目をひく美しさ)があるのかわからない。二行目、三行目は「固有名詞」なので、手の加えようがない。四行目も味気ない。「闊歩する」を何か他のことばで言い換えないと詩とは言えない。
 さらに、この詩は、

楽隊を先頭にして
あらゆる贅を尽くしてきらびやかに--。

 とつづくのだが「贅」の具体的な描写がない。「きらびやか」の具体的な描写もない。つまり、個性的なことばというのもが完全に欠けている。簡便な歴史の教科書にさえ、贅のひとつやふたつの具体例が書いてあるだろうに、カヴァフィスはそれを書かない。
 なぜだろう。
 カヴァフィスは、「贅を尽くしてきらびやかに」と書けば、それで通じると思っている。つまり、この詩を読むひとは「贅を尽くす」ことがどんなことか、「きらびやか」とはどんな様子かを知っていると確信している。「成功に陶酔し」も、どういうことかわかっている。「しんそこ満足して」というのも、わかりきっている。
 そういうことを前提としている。
 だから余分な修飾語や、個性的な表現をしない。
 これは、詩人の側からではなく、読者の側から、つまり「時代」(状況)の側からいえばどういうことになるだろうか。
 「時代」は「成長期」ではない。言い換えると、次々に新しいものが生まれ、「いま」を活性化させるという状況にはない。生まれるべくものはすべて生まれてしまった。新しいものは何もなく、周知のものが「熟していく」。熟すを通り越して下り坂に向かおうとしている。
 花にたとえるなら散る寸前。太陽にたとえるなら沈む寸前。まだ、そこにある。そして、それは「盛り」とは別の、不思議な疲労感、けだるさをまとっている。成熟へ駆け上った「時代」を生きてきたひとは、それを説明しなくても予感のように感じる。そういう読者を想定して書かれている詩だ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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