監督 ゲイリー・フレダー 脚本 シルベスター・スタローン 出演 ジェイソン・ステイサム、ジェームズ・フランコ、ウィノナ・ライダー、ケイト・ボスワース
B級映画のごくごく普通のできの作品なのだが。
ちょっと書きたいことがある。脚本の細部が意外と丁寧なのだ。
冒頭、橋のシーンが出てくる。バイクでいかつい男が走ってくる。何でもないのだが、この目立った登場の仕方が、「伏線」になっている。
ラストの方、ジェイソン・ステイサムを殺しにマフィア(?)が小さな街へやってくる。とても目立つ。ジェームズ・フランコが「何で何人もでやってきた。これじゃ、目立ってしまう」とウィノナ・ライダーを苦情を言う。(ウィノナ・ライダーせ「知らない、私のせいじゃない」というようなことを言うんだけれど。)
もちろん道路を、つまり街中をとおって彼らが動けば目立ってしようがないのだけれど、彼らは移動にボートをつかう。木々のなかの川を(沼を)動くので目立たない。土地(風土)を利用する。これが、ちょっとにくい。犯罪者はバカではない、というか、バカだと犯罪もできない。
アクション映画なのだけれど、アクション一辺倒ではなく「頭脳戦」の様相も含まれている。これが、なかなかにくい。
少し脱線したけれど、橋にもどろう。最初の橋とは違うのだけれど、ラストのクライマックスに橋が出てくる。ここで橋に「意味」をもたせることもできるけれど、まあ、そんなことはしない。ただ、あ、橋か、うまいなあ。最初のシーンを思い出させて、映画の最初と最後が円になってつながるようで、「完結感」が生まれる。
さらに、この「完結感」に、ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコを殺そうとする瞬間を娘が見つめ、さすがに娘の前では人を銃殺もできず……というシーンがあり、それがこのストーリーの麻薬マフィアのボスの目の前で息子が殺されるシーンとも重なって、お、よくできているね。最初のシーンが伏線になって甦るなあ、と感心させる。アクションなのに情感がにじむ。
で、伏線の話をすると、ひとつ、非常にこころにくい伏線がある。
ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコの麻薬工場を見つけ、そこで作業をしようと電気のスイッチを入れたら工場が火災、さらに爆発するという工作をする。その工場にジェイソン・ステイサムの娘が誘拐され、ジェームズ・フランコの妹役のケイト・ボスワースがあらわれ……説明すると面倒なので端折るが、無意識に工場の電気のスイッチを入れる。火災、爆発が起きる。それはジェイソン・ステイサムの想定したことと半分合致し、半分違っている。ジェイソン・ステイサムは麻薬製造中に爆発が起きることを想定していた。だから、これは一種の伏線外しになるのだが、ここが、うまい。脚本(シルベスター・スタローン)の華とでも言えるシーンだ。
映画を見ている観客は何が起きたかわかるが、ケイト・ボスワースには何が起きたのかわからない。(ジェームズ・フランコは、何となく想像できる。)そこにいる登場人物が何が起きているかわからないと感じるその一瞬のリアリティーが、すごい。あ、こんなところで爆発が起きてしまう、想像していたのと違うと観客自身が、自分の想像力を裏切られたために、影像に引き込まれていく。想像したいた通りのことが起きたときも影像に引き込まれるが、想像を裏切られたときの方が強く引き込まれる。映画であることを一瞬忘れる。
(ケイト・ボスワースは美人だし、うまい役者なのに、最初はとても嫌な女として登場するので、うーん、残念だなと思っていたのだが、そうか、このシーンのために彼女が起用されたのだとわかる。--まあ、これは感覚の鋭い観客なら何かあるぞと見通していたことかもしれないけれど、私はぼんくらなので、そこまでは想像しなかった。)
で。結論。
この映画は、シルベスター・スタローンの脚本がいい。途中で銃で撃たれたはずのジェイソン・ステイサムがまるで撃たれなかったかのように暴れ回るのは変ではあるのだが、アクションシーンがしつこくないのもいい。ジェイソン・ステイサムのクール路線を生かすためにそうしたのかもしれないが。
B級映画のごくごく普通のできの作品なのだが。
ちょっと書きたいことがある。脚本の細部が意外と丁寧なのだ。
冒頭、橋のシーンが出てくる。バイクでいかつい男が走ってくる。何でもないのだが、この目立った登場の仕方が、「伏線」になっている。
ラストの方、ジェイソン・ステイサムを殺しにマフィア(?)が小さな街へやってくる。とても目立つ。ジェームズ・フランコが「何で何人もでやってきた。これじゃ、目立ってしまう」とウィノナ・ライダーを苦情を言う。(ウィノナ・ライダーせ「知らない、私のせいじゃない」というようなことを言うんだけれど。)
もちろん道路を、つまり街中をとおって彼らが動けば目立ってしようがないのだけれど、彼らは移動にボートをつかう。木々のなかの川を(沼を)動くので目立たない。土地(風土)を利用する。これが、ちょっとにくい。犯罪者はバカではない、というか、バカだと犯罪もできない。
アクション映画なのだけれど、アクション一辺倒ではなく「頭脳戦」の様相も含まれている。これが、なかなかにくい。
少し脱線したけれど、橋にもどろう。最初の橋とは違うのだけれど、ラストのクライマックスに橋が出てくる。ここで橋に「意味」をもたせることもできるけれど、まあ、そんなことはしない。ただ、あ、橋か、うまいなあ。最初のシーンを思い出させて、映画の最初と最後が円になってつながるようで、「完結感」が生まれる。
さらに、この「完結感」に、ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコを殺そうとする瞬間を娘が見つめ、さすがに娘の前では人を銃殺もできず……というシーンがあり、それがこのストーリーの麻薬マフィアのボスの目の前で息子が殺されるシーンとも重なって、お、よくできているね。最初のシーンが伏線になって甦るなあ、と感心させる。アクションなのに情感がにじむ。
で、伏線の話をすると、ひとつ、非常にこころにくい伏線がある。
ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコの麻薬工場を見つけ、そこで作業をしようと電気のスイッチを入れたら工場が火災、さらに爆発するという工作をする。その工場にジェイソン・ステイサムの娘が誘拐され、ジェームズ・フランコの妹役のケイト・ボスワースがあらわれ……説明すると面倒なので端折るが、無意識に工場の電気のスイッチを入れる。火災、爆発が起きる。それはジェイソン・ステイサムの想定したことと半分合致し、半分違っている。ジェイソン・ステイサムは麻薬製造中に爆発が起きることを想定していた。だから、これは一種の伏線外しになるのだが、ここが、うまい。脚本(シルベスター・スタローン)の華とでも言えるシーンだ。
映画を見ている観客は何が起きたかわかるが、ケイト・ボスワースには何が起きたのかわからない。(ジェームズ・フランコは、何となく想像できる。)そこにいる登場人物が何が起きているかわからないと感じるその一瞬のリアリティーが、すごい。あ、こんなところで爆発が起きてしまう、想像していたのと違うと観客自身が、自分の想像力を裏切られたために、影像に引き込まれていく。想像したいた通りのことが起きたときも影像に引き込まれるが、想像を裏切られたときの方が強く引き込まれる。映画であることを一瞬忘れる。
(ケイト・ボスワースは美人だし、うまい役者なのに、最初はとても嫌な女として登場するので、うーん、残念だなと思っていたのだが、そうか、このシーンのために彼女が起用されたのだとわかる。--まあ、これは感覚の鋭い観客なら何かあるぞと見通していたことかもしれないけれど、私はぼんくらなので、そこまでは想像しなかった。)
で。結論。
この映画は、シルベスター・スタローンの脚本がいい。途中で銃で撃たれたはずのジェイソン・ステイサムがまるで撃たれなかったかのように暴れ回るのは変ではあるのだが、アクションシーンがしつこくないのもいい。ジェイソン・ステイサムのクール路線を生かすためにそうしたのかもしれないが。
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