詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井好子『揺れる家』

2014-08-14 10:08:08 | 詩集
今井好子『揺れる家』(土曜美術社出版販売、2014年07月07日発行)

 今井好子『揺れる家』は現実と気持ちのずれ(ゆらぎ)のようなものがあって、その「ずれ」から今井が見えるようで興味深い。
 「ずっと気になっていることがあって」と「ウェットスーツのある部屋」が特におもしろいが、「ウェットスーツ……」の方を引用しよう。

預かりものの中身が気になり そっとのぞくと
飛び出したのはウェットスーツだった
男物の黒色の合成ゴム
それは人の形にひろがりだらりと所在なくて
海から離れた小さな私の部屋を埋めた

持ち主は一向に取りに来る気配がない
いや預かって以来全く連絡がない とれない
ウェットスーツはクローゼットの端でしずまっている

 預かり物がかなりかわっている。ほんとうにあったことなのか、ことばだけの世界なのかわからないが「それは人の形にひろがりだらりと所在なくて/海から離れた小さな私の部屋を埋めた」がリアルだ。「だらり」はウェットスーツの質感のようなものなのだが、まるでだらしない人間を見るような不気味さとなつかしさのようなものがある。ウェットスーツを見ながら、それをあずけた人を思い出しているのか。「海から離れた部屋」に「海」はないのだが、「海」とウェットスーツのつながりから、まるで部屋が海になったような気もしてくる。ウェットスーツを着れば、部屋中が海面下(海の底)になってしまいそうだ。「だらり」としたウェットスーツをみながら、それが生き生きと動いているシーンを連想したりしているのかもしれない。ほんとうは、ここにあってはいけない--そう感じているのかもしれない。
 だから、最終連、

床でクローゼットのウェットスーツを抱きしめると
強く抱くと柔らかな体は腰のあたりからそり返り
長い腕がますますたれさがる
ウェットスーツと一対になって夜の底へ
底から底へ 落ちていく

 なんだか忘れてしまった男とセックスをしているような感じ、セックスを思い出しているような感じだ。セックスは海を感じさせるのだろう。「長い腕がますますたれさがる」には、一種の無気力、倦怠感のようなものがあって、それがさらにセックスを感じさせる。エクスタシーを追い求め、つかみきれず、どんと深みへ落ちていく感じ。あ、男は「ひと」ではなくて、ウエットスーツの「人の形」になってしまったのか。
 と勝手に妄想、誤読するのだが。
 私が、これはおもしろい、と思ったのは実はそういう部分ではなくて。省略してきた4連目。

バケツを買いに行った日
あの日も海とは無縁だった
同じ形のバケツが積み重なり
それなのにしばし迷って
バケツの底に底があり 底に底がつらなってた
ようやく上から三番目を買い求めたのだった

 ウェットスーツとは関係がない。「海とは無縁だった」と「海」が出てくるが、そういうふうに思い出す「海」とは関係があっても、直接的ではない。ウェットスーツが少し気になっていて「海」が姿をあらわしたのだろう。
 そのあとのバケツ選びは、もっと海とは関係がない。バケツ-水(海)-ウェットスーツというつながりはあるかもしれないが、まあ、これは強引な後出しじゃんけんのようなつながり(意味)である。
 それよりも。
 同じ形のバケツ。あたりまえだが、それは積み重ねて売っている。どこの日用雑貨品売り場でも見かける光景なのだが。そこでバケツを買うのに、

バケツの底に底があり 底に底がつらなってた
ようやく上から三番目を買い求めたのだった

 この「バケツの底に底があり 底に底がつらなってた」という余分な描写と「ようやく上から三番目を買い求めた」という実際の行動の関係が、
 あ、これはいいなあ、
 と思わず声が漏れてしまう。
 だれもが感じていて、だれもが無意識にそうしてしまうようなこと(書店でなら積み重なった本の上から三冊目を買うというようなこと)が、リアルに書かれている。
 このリアルさは、まるで「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」である。
 突然、何かが活性化する。
 ウェットスーツを預かるというのはだれもがするようなことではない。そういう非日常とバケツを買う(上から三番目を選んで買う)という日常が出会うことで、ウェットスーツの非日常の中に日常が入り込んでいく感じがする。単にバケツを買うではなく「上から三番目」を選んで、自分でバケツを持ち上げて、一個取り出して、また積み重ねるという「肉体の運動」が、それまで起きたことを全部「リアル」そのものに引き寄せてしまう。この力はすごい。
 で、このあとに先に引用したセックスを連想させる最終連がくるのだが、いま感じたばかりの「リアル」があるので、最終連の「底から底へ」がごくごくありふれた「日常」の強さ、たしかさで迫ってくる。

 「小さなあしかショー」も、芸をしているあしかと見ている「私」がいれかわる、さらに「あしたになった私」と「中年男」がいれかわるという非日常を描いているのだが、そしてそれなりにおもしろいのだが、「バケツ」のような「リアル」な現実描写がない。だれもが知っているのに、だれもかかなかったような「日常の肉体」というものがない。それがこの詩を「現実」ではなく「空想」にしてしまっている。「中年男」の描写が「血色悪し ズボンの裾にほつれあり」というくらいでは「流通概念」の「中年男」にすぎない。
 掘り起こされた日常こそが詩なのだ。掘り起こすという行為が詩なのだ。

揺れる家
今井好子
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(145) 

2014-08-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(145)        

 「美しい白い花」は男色の三角関係を描いている。

彼は、ふたりがよくいっしょにすわったカフェに行った。
ここだ。三月前だ。あの子は宣言した。
「ぼくらのあいだはもうおしまい。ふたりで
いちばん安い宿から宿へとさまようばかり。もういけない。
ウソを吐いても始まらぬ。あなたの相手はもうできぬ。
言ってしまえば、世話をしてくれるひとが別にできたの」
だれかさんはその子に約束していた。スーツを二着。絹ハンカチを何枚か。

 恋人を結びつけるのは、愛情か。肉欲か。あるいは金銭か。--そのことを詮索しても、あまりおもしろくはない。それは、たぶん、詩にとってはどうでもいいことである。
 詩にとって重要なのは、そういう「事実(こと)」が「ことばになる」ということである。三角関係と金銭。金のある男が恋人を奪う--というのは「愛」(感情)を基本に考えると美しいことではないが、それが美しかろうがなかろうが、人間はそういう具合に動いてしまうということがある。
 それをことばにするか、しない。
 男色の詩は、カヴァフィス以外にも書いているだろう。カヴァフィスが独特なのは男色を描くのに「美辞麗句」を使わないことだ。男色家のだれもが持っている「現実」をそのまま書いている。隠したい「現実」をさらけだしている。
 「事実」が書かれている。「事実」は書かれてしまうと「真実」になる。「真実」になってしまうと、それが人間のどんなに醜い部分を描いていたとしても、それは「詩」になる。だれも書かなかった、誰かに書いてほしいと思っていた「詩=絶対的なことば」になる。
 この詩には、ストーリーがある。「あの子」は三角関係の成れの果てなのかどうかわからないが、殺されて死んでしまう。「あの子はもうスーツを欲しがらない。絹のハンカチも全然。」という具合になってしまうのだが、そういう劇的なストーリーよりも、その前に書かれる「超リアルな現実」のことばの方がはるかにおもしろい。

彼は自力でその子を奪い返した、
口には出せぬ手段で巻き上げた二十リラで。
(略)
だれかさんはウソ吐き。まったくイカサヌ男だ。
仕立てのスーツはけっきょく一着。
それもねだって、さんざん拝み倒してだ。

 何も「美化」しようとはしていない。ただ「現実」を「現実」のまま書こうとしている。「現実」からしか「真実」が生まれないことをカヴァフィスは知っている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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