柴崎友香「春の庭」(「文藝春秋」2014年09月号)
柴崎友香「春の庭」は第 151回芥川賞受賞作。
一読して、長すぎると思った。長く感じるのは、小説のなかで登場人物が変化していかないからである。最初と終わりでは人間がかわってしまうというのが小説にかぎらず、あらゆる読み物(ことばでできた作品)の醍醐味なのだが、この小説では人間はまったくかわらない。だから、これは小説ではない。
悪いことに、柴崎友香は、これを小手先の「手法」でごまかしている。「変化」がないのに「変化」を装っている。
方法はふたつある。
ひとつは、登場人物を複数登場させ、瞬間瞬間に「視線」を変えてみせる。「太郎」が見ている世界、女が見ている世界、「太郎」の姉(わたし)の見ている世界、という具合である。
ふたつめは、「女」を「辰」に、さらに「西」へと「呼び方」を変えていくこと。「呼び方」を変えずに、その人間がどんなふうに見え方が変わってきたかを書くのが小説(太郎にとって女がどんなふうにかわり、その結果として自分がどんなふうに変わったかを書くのが小説)なのに、柴崎は呼び名(認識)が女→辰→西と変わっていくことが「太郎」の変化(女との関係の変化)と簡便に語ってしまう。(食べられなかった手作りの菓子を食べられるようになったという具体的変化のようなものもあるが、それは「女」の力によるものではなく、別の登場人物の登場による変化である。)
女→辰→西というのは「記号」の変化に過ぎない。「記号」に頼って本質を書かないというところに、この作品のつまらなさが象徴的にあらわれている。
柴崎が「記号」頼みで作品を動かしている欠点は、書き出しの3段落目で象徴的な形であらわれている。
だれが上から見たのか--ということは、それはそれで別の問題なのだが、このカギ括弧(話括弧)を「記号」の「形」のまま使っているのは、ことばの経済学からいうと合理的だが、これでは「文学」ではない。ことばになりにくい(ことばにしてこなかった)ものを、ことばで書くというのが文学の仕事を放棄している。(村上龍がこの問題を選評で指摘している。)
アパートは二階建てで、それぞれの階に四室ずつある。三室は横に並んでいるが端の一室は直角にまがる形ではみ出している、など、いくらでも言い方はありそうだ。それをしないで”「”の形と省略している。文学は「意味」がわかればいい、というものではない。
「女」の「呼称」の変化も、この「記号」と同じ性質なのである。
「太郎」と「女」が交流を続けていくうちに、「女」は「女」から「辰」へ、「辰」から「西」へと個人の名前に変化していくように、印象が変わっていくと言えば、それで小説の「説明」、ストーリーの概略を語る補助線ができたような気持ちにさせるところが、小説としてはとてもくだらない。「太郎」にとって「女」がどんなふうに見え、その結果どんなふうに「太郎」が代わっていったのか、語りたくてしようがなくなる--というのがすぐれた小説である。私はそういう気持ちにはなれない。呼称が変わったと要約してしまえば、すべてが終わる。
この小説は「人間」を描いているのではなく、「街」の変化を描いている。「街(家)」と人間の関係の変化である--という見方もあるかもしれない。たしかに、この小説のテーマは、次の部分に要約されている。
空き家があるときは停止していた時間が、動いていた。家の中に誰もいなかった一週間前と、建物自体はまったく同じなのに、その場所の気配や色合いが一変していた。人がその中で生活しているというだけで、急に、家自体が生き返ったみたいだった。
( 400ページ)
これは女(西)の感想なのだが、「場所の気配や色合いが一変していた」では、「記号」にすぎない。「気配」がどう変わったか、「色合い」がどう変わったか、変わったということばを使わずに、具体的に比較してみせないと小説にはならない。いちばん肝心なところを「気配」「色合い」という「流通言語(記号)」で代用している。
柴崎は、「気配」「色合い」の前にカーテンや自転車、三輪車などを書くことで変化を書いていると主張するかもしれないが、それを「気配」「色合い」という「抽象的言語」で要約し直してしまえば、何の意味も持たないだろう。
だいたい、流し読みしただけで、ここが小説のハイライト、柴崎の「思想」のあらわれているところと、指摘できるようなものは「小説」ではなく、「概略」というものだろう。味もそっけもない。
家の変化も過去に出版された写真集との比較という図式的で、それがわかりやすいといえばいえるが、なんとも図式的でばかばかしい。「過去(しかも、その過去にはだれも関与してこない不動のもの)」と「いま」の比較すれば違いがあるのはあたりまえ。「いま」の刻々と変わっていくもの、まだことばになりきれないもの、ことばになろうとするものを書いていくのが小説というものだろう。書きにくい部分を柴崎は全部省略し、「記号」化できるものを「記号」にしているだけである。
小説というより、小説の「設計図」だね。
ところで。
この小説は、そういう欠点とは別に、非常に「巧み」な部分を持っている。ところどころに空白があって、その空白をはさんで「場面」が転換するのだが、その空白の直前の行が、とてもうまい。
具体的な事実があって、それが「余韻」となって作品をふくらませる。こういう文章を、それぞれの断章(?)の終わりにではなく、真ん中に書いていけば、「気配」とか「色合い」という「記号」で要約する必要がなくなるのだが。
柴崎は、しかし、そういうことをしないで、かならず「最後」でそういう「余韻」の見得を切る。
これは、私の印象では、長篇小説の手法である。たとえば「ボバリー夫人」(岩波文庫、伊吹武彦訳)から、少し引用すると、
その「つづき」があるはずなのに、つづきを書かずに中断する。そして別の場面へ変わっていく。「中断」された何事かを読者は自分で引き受けて、いつ終わるかわからない「物語」の中を動きつづける。長篇小説は、そういう「中断」があるからこそ、読みつづけられる。「中断」がないと、息が続かない。
けれど短編は一気に読ませるものである。途中途中の「中断」に、書き切れなかった「変化」をこめてはいけない。
なんだか、とても「ずるい」小説を読んだ気持ちになる。
しかし、こんな、誰が(どの選考委員)が積極的に押したのかわからないような作品が「芥川賞」でいいのだろうか。(高樹のぶ子がいちばん押しているのかな?)私は眼が悪いので、最近は「芥川賞」受賞作くらいしか小説を読んでいないが、何かくらい気持ちになってしまう。
柴崎友香「春の庭」は第 151回芥川賞受賞作。
一読して、長すぎると思った。長く感じるのは、小説のなかで登場人物が変化していかないからである。最初と終わりでは人間がかわってしまうというのが小説にかぎらず、あらゆる読み物(ことばでできた作品)の醍醐味なのだが、この小説では人間はまったくかわらない。だから、これは小説ではない。
悪いことに、柴崎友香は、これを小手先の「手法」でごまかしている。「変化」がないのに「変化」を装っている。
方法はふたつある。
ひとつは、登場人物を複数登場させ、瞬間瞬間に「視線」を変えてみせる。「太郎」が見ている世界、女が見ている世界、「太郎」の姉(わたし)の見ている世界、という具合である。
ふたつめは、「女」を「辰」に、さらに「西」へと「呼び方」を変えていくこと。「呼び方」を変えずに、その人間がどんなふうに見え方が変わってきたかを書くのが小説(太郎にとって女がどんなふうにかわり、その結果として自分がどんなふうに変わったかを書くのが小説)なのに、柴崎は呼び名(認識)が女→辰→西と変わっていくことが「太郎」の変化(女との関係の変化)と簡便に語ってしまう。(食べられなかった手作りの菓子を食べられるようになったという具体的変化のようなものもあるが、それは「女」の力によるものではなく、別の登場人物の登場による変化である。)
女→辰→西というのは「記号」の変化に過ぎない。「記号」に頼って本質を書かないというところに、この作品のつまらなさが象徴的にあらわれている。
柴崎が「記号」頼みで作品を動かしている欠点は、書き出しの3段落目で象徴的な形であらわれている。
アパートは、上からみると”「”の形になっている。
だれが上から見たのか--ということは、それはそれで別の問題なのだが、このカギ括弧(話括弧)を「記号」の「形」のまま使っているのは、ことばの経済学からいうと合理的だが、これでは「文学」ではない。ことばになりにくい(ことばにしてこなかった)ものを、ことばで書くというのが文学の仕事を放棄している。(村上龍がこの問題を選評で指摘している。)
アパートは二階建てで、それぞれの階に四室ずつある。三室は横に並んでいるが端の一室は直角にまがる形ではみ出している、など、いくらでも言い方はありそうだ。それをしないで”「”の形と省略している。文学は「意味」がわかればいい、というものではない。
「女」の「呼称」の変化も、この「記号」と同じ性質なのである。
「太郎」と「女」が交流を続けていくうちに、「女」は「女」から「辰」へ、「辰」から「西」へと個人の名前に変化していくように、印象が変わっていくと言えば、それで小説の「説明」、ストーリーの概略を語る補助線ができたような気持ちにさせるところが、小説としてはとてもくだらない。「太郎」にとって「女」がどんなふうに見え、その結果どんなふうに「太郎」が代わっていったのか、語りたくてしようがなくなる--というのがすぐれた小説である。私はそういう気持ちにはなれない。呼称が変わったと要約してしまえば、すべてが終わる。
この小説は「人間」を描いているのではなく、「街」の変化を描いている。「街(家)」と人間の関係の変化である--という見方もあるかもしれない。たしかに、この小説のテーマは、次の部分に要約されている。
空き家があるときは停止していた時間が、動いていた。家の中に誰もいなかった一週間前と、建物自体はまったく同じなのに、その場所の気配や色合いが一変していた。人がその中で生活しているというだけで、急に、家自体が生き返ったみたいだった。
( 400ページ)
これは女(西)の感想なのだが、「場所の気配や色合いが一変していた」では、「記号」にすぎない。「気配」がどう変わったか、「色合い」がどう変わったか、変わったということばを使わずに、具体的に比較してみせないと小説にはならない。いちばん肝心なところを「気配」「色合い」という「流通言語(記号)」で代用している。
柴崎は、「気配」「色合い」の前にカーテンや自転車、三輪車などを書くことで変化を書いていると主張するかもしれないが、それを「気配」「色合い」という「抽象的言語」で要約し直してしまえば、何の意味も持たないだろう。
だいたい、流し読みしただけで、ここが小説のハイライト、柴崎の「思想」のあらわれているところと、指摘できるようなものは「小説」ではなく、「概略」というものだろう。味もそっけもない。
家の変化も過去に出版された写真集との比較という図式的で、それがわかりやすいといえばいえるが、なんとも図式的でばかばかしい。「過去(しかも、その過去にはだれも関与してこない不動のもの)」と「いま」の比較すれば違いがあるのはあたりまえ。「いま」の刻々と変わっていくもの、まだことばになりきれないもの、ことばになろうとするものを書いていくのが小説というものだろう。書きにくい部分を柴崎は全部省略し、「記号」化できるものを「記号」にしているだけである。
小説というより、小説の「設計図」だね。
ところで。
この小説は、そういう欠点とは別に、非常に「巧み」な部分を持っている。ところどころに空白があって、その空白をはさんで「場面」が転換するのだが、その空白の直前の行が、とてもうまい。
太郎は、足のかゆみに気づいた。この夏はじめて蚊に刺された。
(407 ページ)
部屋に戻ると冷蔵庫が、どるるん、と音を立てた。
(412 ページ)
具体的な事実があって、それが「余韻」となって作品をふくらませる。こういう文章を、それぞれの断章(?)の終わりにではなく、真ん中に書いていけば、「気配」とか「色合い」という「記号」で要約する必要がなくなるのだが。
柴崎は、しかし、そういうことをしないで、かならず「最後」でそういう「余韻」の見得を切る。
これは、私の印象では、長篇小説の手法である。たとえば「ボバリー夫人」(岩波文庫、伊吹武彦訳)から、少し引用すると、
年寄りの女中が出て挨拶し、夕食の支度のできていない詫びをいった。そして支度ができるまで、奥様はお家のなかをご見分なさいましとすすめた。
(50ページ)
そしてエンマは「至福」とか「陶酔」とか、物の本で読んだ時あれほど美しく思われた言葉を、世間のひとはどんな意味に使っているのかを知ろうとした。
(55ページ)
その「つづき」があるはずなのに、つづきを書かずに中断する。そして別の場面へ変わっていく。「中断」された何事かを読者は自分で引き受けて、いつ終わるかわからない「物語」の中を動きつづける。長篇小説は、そういう「中断」があるからこそ、読みつづけられる。「中断」がないと、息が続かない。
けれど短編は一気に読ませるものである。途中途中の「中断」に、書き切れなかった「変化」をこめてはいけない。
なんだか、とても「ずるい」小説を読んだ気持ちになる。
しかし、こんな、誰が(どの選考委員)が積極的に押したのかわからないような作品が「芥川賞」でいいのだろうか。(高樹のぶ子がいちばん押しているのかな?)私は眼が悪いので、最近は「芥川賞」受賞作くらいしか小説を読んでいないが、何かくらい気持ちになってしまう。
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