詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(3)

2014-08-20 10:53:19 | 詩集
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(3)(思潮社、2014年08月12日発行)

 この詩集には「エッセイ」が2篇含まれている。「エッセイ」として書いたのだけれど、知人が

--秋亜綺羅さん、あれ、詩だよ
とつぶやいてくれたので、詩になりました。

 と「あとがき」に書いている。
 まあ、そうですね。
 読んだ人が「詩」と呼べば、それは詩に「なる」。だから、逆も起りうる。「詩ではない」と呼べば詩では「なくなる」。
 これは、何を詩に「したい」かという欲望と関係している。

 などというのは、いい加減な、いつもの私の「感覚の意見」。

 なかなか、書き進むことができないが……。その「エッセイ」か「詩」か、どっちでもいいけれど、「秋葉和夫校長の漂流教室」ということば。そのなかに、とても気に入っている部分がある。私が「詩」を感じるのは、

「大学へなぜ行くのか、ぼくにはわからない」と切り出したのは、わたし。
「行きたくないのか?」
「勉強は好きじゃないし、大学出たヤツが偉いとも思わない。大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」
「行きたくなければ行かなくていいぞ。でもな、大学行かないヤツが、大学は必要ないなんて偉そうなこと言っても、な。行けないから負け惜しみで言ってる、くらいにしかおもわれないだろ。大学をちゃんと卒業して、それで大学は必要ないと言えば、みんな納得するだろ」
 うーむ。詭弁だ、明らかに。

 この引用部分の最後の「うーむ。詭弁だ、明らかに。」の、この1行が私はとても好きだ。そこに詩を感じる。そこが詩に「なっている」と感じる。
 どうしてか。
 この「説明」は難しい。
 強引に言ってしまえば、そこには「リズム」がある。ことばが、スピードにのってはじけている。勝手に動いている。
 私が秋亜綺羅の詩に共感するのは、いつもその「リズム」である。書かれている「想像力の暴力」ではない。「意味の否定ごっこ」ではない。
 で、この「リズム」は、つぎに、

 だけどこの父の詭弁をこそ、わたしは待っていたのかもしれなかった。

 という具合に、ぱっと飛躍する。
 この身軽な変化--ほんとうに「大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」と信じているのだったら、「詭弁」に反論できる。反論できないのは、ほんとうに思っていないからである。考え抜いたことばではないからである。
 それなのに、それを「うーむ。詭弁だ、明らかに。」ということばの軽さで、ごまかしている。好きだなあ、この軽さ。

 秋亜綺羅は、簡単に言えば、自分の考えを否定されたかった。それだけのことである。「大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」を否定する「ことば」がほしかっただけなのである。だから「詭弁」であると一種の「否定的な批評」をつけくわえながら、そのことばに乗ってしまう。「否定的な批評」をつけくわえれば、自分の「正当性」が担保できたと人に証明できると思い込んでいる。
 この嘘つきめ。
 で、私は、その秋亜綺羅の「嘘つき」の部分が好きなのである。

 だいたいねえ……。
 「大学へ行かなければならない」というごくふつうの「意味(親のものの見方)」があって、それに対して「大学出たヤツが偉いとも思わない。大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」という「大学の否定(意味の否定)」そのものが「詭弁」である。
 「詭弁」の定義は難しいが。
 簡単に「こじつけ(論理のねじまげ)」と思って、私は言うのだが、何の根拠も挙げずに「社会に流通している事実」とは違うことを「思う」だけで、「社会に流通している言説」とは違うことばを「言う」だけで、それが「事実」になるということが「詭弁」なのである。
 ことばにすれば、そのことばが「事実」に「なる」と言うのが「詭弁」なのである。

 と、書くと、そこにふいに「詩」がまぎれこむ。
 何か、そこに存在しないものをことばにする。そうすると、そのことばが「事実」になる。この、ことばのなかにしか存在しな「事実」を「詩」と呼ぶとき、「詩」は存在になる。--こういう「論理(?)」を秋亜綺羅は「詭弁」とは呼ばないだろうが、私に言わせれば、そんなものは存在したように「頭」に思い込ませているだけのことである。自己陶酔の一種だ。誰かに「わからないよ」と否定されれば、ただのことばの「くず」になりさがる。そういう危険をもっている。詭弁ではなく、危険、ね。

 あ、書いていることがだんだんめんどうな領域に入ってきた。
 丁寧に書かなければいけないのだけれど、丁寧に書こうとすれば、どこまで書いていいかわからない。
 秋亜綺羅のことばに戻って言いなおそう。

 うーむ。詭弁だ、明らかに。
 だけどこの父の詭弁をこそ、わたしは待っていたのかもしれなかった。

 軽い軽いことば、スピード感あふれることばのあと、「改行」して「だけど」と「理由(論理)」をかたることばを利用して、ことばを動かしていく。--「論理」の偽装なのか、「論理」そのものへの信頼なのか、どう呼べばいいのかわからないが、この「論理依存」とことばの軽さ、リズム、論理のリズム化という部分に秋亜綺羅の詩の本質があると私は感じている。
 「論理のポップミュージック」という感じでもあるなあ。そして、その「論理音楽」にはかならず、逆説というか、否定の構造が隠れている。「……である、だけど」の「だけど」のようなものが。

 奇妙な奇妙な「逆説論理」嗜好は、秋亜綺羅がアパート火事を起こし、警察に連れて行かれたときのことを書いた部分にもある。秋を父親が引き取りに来た。

 身元引受けのサインをする父の右腕が、とんでもなく震えていた。サインができず、父は右手を左手で押さえた。わたしは、涙が止まらなかった。悲しいとか、悔しいとかじゃなくて、父の顔を見たことの、うれし涙ではなかったろうか。いや。豪傑なはずの教師が、息子の起こした事件のために、腕の震えが止まらない。その姿を見たわたしの脳が、勝手に涙を作ったのだ。

 前半のリアルな父親の肉体の描写。そのあとの秋亜綺羅の感情分析(?)。そして、そのあと、「いや。」という「否定」のことばをはさんで秋亜綺羅のことばは加速する。「論理」を暴走させる。

わたしの脳が、勝手に涙を作ったのだ。

 私は、わっと叫んで、笑いだしていいのか、感動していいのかわからなくなった。「涙」をわざわざ「脳」なんてもので説明するなよ。
 傑作でしょ?
 脳で説明できないもの、説明を突き破って、説明より先にあふれてくるものが涙でしょ? 泣いたあとで、涙の説明をして何になるんだろう。だれを慰めているんだろう。だれに同情しているんだろう。
 この傑作なことばの動きを「詩」と呼ばないで、いったい何と呼べばいいのかわからない。
 詩はその瞬間を否定する絶対的な無意味である。
 「絶対的に無意味な何か」がここにある。「絶対的に無意味な論理」、ことばの勝手な暴走--何の役にも立たない、笑うしかない新しい運動がある。この運動が、いつ「事実」や「真実」に「なる」のかわからないけれど。
 私以外の人にとっては「真実」(普遍にたどりついた論理)かもしれないけれど。

 何と言っていいのかわからないのだが、「否定(逆説)」を利用した、この絶対的な「軽さ」「軽いリズム」は、秋亜綺羅のことばの力だ。秋亜綺羅のつくりだす「逆説の意味」には私は関心がないが、その「リズム」には関心がある。
 変かな?

 で、この「リズム」だけれど。
 こういうものは、もって生まれたことばの感覚、「肉体の性質」のようなものなのだが、それ以外のものもある。
 それは何かと考えたとき(つらつらと、秋亜綺羅の詩を読み返したとき)、もうひとつのエッセイ「かわいいものほど、おいしいぞ」の、次の発見が手がかりになる。スズメをつかまえるのに焼酎をしみ込ませたコメを食べさせて酔っぱらわせる--そういう工夫をしたおじいちゃんのことを書いていて……。

 あ! わたしは気づく。一か月! じっちゃんは無毒のコメをスズメたちに一か月ものあいだ与えつづけている。それと同じ一か月という時間だけ、台所の戸棚でコメは焼酎に漬けられていたのである。

 「時間」をかけている。秋亜綺羅は何かをするときに「時間」をおしまない。手間隙をかけるのである。たとえば詩集の扉の色をきめるにも、一度塗りではなく二度塗りをする。時間(手間)をかけることで生まれる変化をみせる。このときのポイントは「同じ」ということ。(「それと同じ」と秋亜綺羅が書いている「同じ」がポイント。)二度塗りをするのは「同じ色」。じいちゃんがついやしたのは「同じ一か月という時間」。何かをするための準備を「同じ」ということばでくくってしまう感覚のなかに、秋亜綺羅の「肉体/思想」がある。
 あ、説明が変? 非論理的?
 うーん、これは、なかなか説明ができないぞ。でも、私は強引に説明してみる。
 何かをするときに「準備」する時間は、たいていの場合実際の行動の時間に比べると短いのだが、それを秋亜綺羅は「同じ」と考えている。実際にスズメをつかまえるのは一分か二分くらいの時間だが、その背後には「一か月」の準備があって、それは別の行動と「同じ」時間であり、それは「時間の表/裏」なのだ。
 うーむ。これでは、変か。
 秋亜綺羅は、ある「時間」の裏に「同じだけの裏の時間」を見ていて、そういう「二重の時間」をかけるということをおしまない。「二重の時間」をかけながら、「準備」をみせない。そういうことをしている。
 何かと「同じ時間」だけ準備していて、その蓄積が「リズム」を鍛えている。
 おじいちゃんがスズメを軽々とつかまえることができたのは、そのつかまえ方が軽々としていたのは「時間」のなかで「時間」にならないものを鍛えてきたからなのだ。それがあって、はじめて「軽々としたリズム」になる。
 こういうことを秋亜綺羅は「暮らし」のなかで、「肉体」として、つかみ取っている。ここには、秋亜綺羅の「頭」が入り込んでいない。「リズム」は「頭」では作ることができない。「論理」ではないのだから。

 別な言い方をしてみようか。
 秋亜綺羅は寺山修司の天井桟敷にいた。芝居というのは公演の前に長い準備(練習)がある。その練習の「長い時間」と上演の「短い時間(1時間-2時間)を「同じ」にする。「長い時間」が「短い時間」のなかで「同じ」になるとき、そこに「軽快なリズム」が生まれる。
 この変な「理屈」は「詭弁」ではなく「矛盾」というものだが、秋亜綺羅はそういう「矛盾」を私たちの知らないところでやっている。やっていることが、私には感じられる。「リズム」の背後に、素早くも軽くもない「しつこさ」があって、その持続が、秋亜綺羅のことばを軽くしている。
 「勉強は好きじゃない」と秋亜綺羅は書いているが、「嫌い」とは書いていない。「好きじゃない」が「する」のである。私なんかは勉強は嫌いだから、しない。しないから、「好きじゃない勉強をしてしまう」秋亜綺羅を、こうやってからかって、いじめている。ガリ勉をからかっている意地悪な子供みたいだけれど、「勉強しない」私には、秋亜綺羅と向き合うには、それくらいしか方法がない。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(151)

2014-08-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(151)        2014年08月20日(水曜日)

 「古代ギリシャ系シリア人魔術師の処方によって」は奇妙な詩である。薬草を蒸留したエキスを飲むと過去が呼び戻せるのだという。ドラッグの類のことだろう。
 では、どんな「過去」を呼び出すのか。

そう、返ってくるのだ、二十三歳の日が。
当時二十二歳だった友も、
その美も、その愛も。

 若い時代の愛の記憶。そのエロスの美の記憶。おもしろいのは単に過去とは言わないところだ。私(カヴァフィス?)が二十三歳、そのとき相手は二十二歳だった。「その美」「その愛」よりも、この明確な「年齢」こそ、カヴァフィするの呼び出したいものだったのだろう。美も愛も抽象的なことばだが年齢は具体的である。
 自分の年齢を言ったあと、「当時二十二歳だった友も、」と書いているのは、いまカヴァフィスが二十三歳ではないのと同様に、友も二十二歳ではないからだが、わざわざそう書いているのは、その友といっしょにドラッグをやろうとしているということかもしれない。「きみも二十二歳の日に返れるんだよ」と、いうわけである

何とすてきなエキスの発見。
古代ギリシャ系シリア人魔術師の処方だ。
返ってくるのだ、過去への回帰の一部として
私たちがふたりきりで過ごしたあの小部屋までが--」

 こでも書かれていることは相変わらず抽象的に見えるが、少し違う。ふたりで過ごした部屋を「あの部屋」と呼んでいる。「あの」には意味がある。「あの」がわかる相手がいる。カヴァフィスは「あの」友にドラッグをやろうと誘っている。「あの」部屋と言えるのは、ふたりは「その」部屋だけをつかったのだろう。あちこちの部屋を、その日そのときでつかったのではなく、愛を交わすなら「あの」部屋と決めていたのだろう。
 ふたりの思い出はいろいろいあるだろう。ふたりの過去はいろいろあるだろう。しかし、カヴァフィスは「あの部屋」こそ「過去」だと感じている。「過去への回帰の一部として」というもってまわった複雑な表現が、カヴァフィスのこだわりを明確にしている。「あの」思い出、というわけだ。
 そして、この詩が、

さる通人の話です。

 という一行ではじまるのも、とてもおもしろいと思う。自分のことだからこそなのか、それともドラッグを書いているからなのか、自分のことではないように装っている。よほどの思い入れがあるのだろう。二十三歳の日々に。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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