詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』

2014-08-22 11:43:21 | 詩集
渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』(思潮社、2014年07月25日発行)

 渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』を読みながら、ことばを統一する音楽を感じた。ことばが「意味」というよりも「音楽」で結ばれている。ことばが呼びあって、生まれる前の「音」のまま互いの「音」を発し、そして聞いている。
 「冬 ひらく」の書き出し。

約束が剥がれてゆくときの
燃える痛みをこらえて
空が青い

 「意味(ストーリー)」を探そうと思えば探せる。あるいは、捏造できる。誰かと会う約束をしている。けれど、その約束は果たされない。約束したという「記憶」だけが残って、「会う約束」は渡辺の肉体を剥がれていく。肉体の、たとえば爪を剥がされるときの燃えるような痛み、肌を傷つけられ剥がされるような燃えるような痛み--「会う約束」は渡辺にとっては「肉体」そのものだったのだ。その痛みに耐えて、来ない人を、それでももう少し待ってみる。もうあきらめようと言ってみる。そのとき、冬の空のなんと青いことか……。
 だが「意味」よりも、私はそのときの空気の冷たさ(冷たいがゆえに燃えるような感じさえする風の鋭さ)、冬晴れの青と、その青から青が剥がれて、雪にでもなりそうな、透き通った何かを感じる。雪の結晶以前の結晶のようなものを。そして、それが動くときの沈黙の音楽を感じる。
 渡辺のことばには「余分」というものがない。「流通言語」の「余分」を削ぎ落とし、ことばのなかの「沈黙」を聞き取り、それを差し出す。ただ「ことば」を捨てるために、ことばを書く。ことばを捨てたあとの「沈黙」が、「音」として聞こえてくる。「音」はないのに、「音」のように感じてしまう。
 そうすると、その「沈黙」のなかに私のなかの何かが誘い出されていく。そうして「沈黙」が私のなかからあらわれてくる。「沈黙」を聞く--とは自分のなかにあるうるさいものを捨て去って、自分のなかから「沈黙」があらわれてくるのを待つことなのだと気づかされる。
 こういう状態のとき、私は、渡辺と私が「一体」になっているのだと錯覚する。
 渡辺は渡辺のことばを書き、渡辺の「沈黙」を凝視しているのだが、その動きのなかに私が飲み込まれていく。そのために、たとえば書き出しに私自身の過去を重ねてストーリーにしてしまう。ストーリーのなかで「沈黙」はかすかな旋律になる。
 存在しない「音楽」が、「存在しない音楽」になる。「音が存在しないことが生み出す音楽(沈黙の音楽)」になる。ただし、その「沈黙」には旋律がある。--こんなことを書くと、まるで「矛盾」にしかならないが、そういう感じがするのだ。あ、この「沈黙の音楽」をもっともっと聞きたい、その「沈黙の音楽」と一体になりたいと思う。

 これでは、あまりにも抽象的だなあ……。

 渡辺の「沈黙の音楽」について書きたい--でも書けない。私のことばではたどりつけない。

寒かった ただ寒かった
あの日々の
非常口を開けておく
行き交う車も歩行者も
つながれた犬でさえ
見上げることを忘れていた雲の果て

 その「雲の果て」で「約束」が剥がれていく。「約束のひと」は「雲の果て」にいる。遠いところで「約束」は剥がれていくかもしれない。けれど、渡辺は「約束」がふいにやってくるかもしれないと願い、「約束」のために「非常口」を開けておく。いつでも入ってきていいよ。それは「一日」のことではなく「日々」のことである。
 渡辺は、そうやって「約束」につながれた「犬」のように、そこから動けない。寒い寒いと感じながら、「約束」がやってこない道を眺めている。車や人を見ている。そして、ふと目を挙げると、遠く、「雲の果て」にある空が「青い」。そんな青に気がつく必要はないのに、渡辺は気づいてしまう。
 あ、そうなのだ。
 ひとは、ある瞬間、気づく必要のないことに気がついてしまう。「約束」のひとが来ない。そのとき、ひとは「約束」のひとが来なかったということだけに気がつけばなんでもないのに、その「約束のひとが来なかった」を「約束」が自分の肉体から「剥がれてゆく」と気づいてしまう。--そんな言い方は誰もしない。流通言語では、そんなことは言わない、あるいは言えない。誰も言わなかった何かに気づいてしまう。それから「痛み」に気づいてしまう。「余分」に気づき、それが「ことば」になってしまう。それが、詩。
 さらに「空が青い」ということに、その「青さ」に気づいてしまう。「約束」がやってこようとこまいと、その日の空は「青い」。そんな、「約束」とは無関係なことに気づいてしまい、それが「ことば」になって、まだ「ことば」にならず、「肉体」のなかで「沈黙」のままで動いている「ことば」に、この「音」に「和音」をつけてと誘っている。「肉体」は、その「沈黙」と響きあう「和音」を懸命に探している。
 
 このときの、懸命さ、切実さ……そういうものが、渡辺のことばの全体を統一している。



 私の、こうした感想では、渡辺は「繊細」なだけの詩人のようになってしまうが、渡辺は、なにかしら「骨太」のものも持っている。「動じない」エネルギーを持っている。
 「四月の死角」の、たとえば次のような部分。死んだ祖母のことを書いている。

あなたの尊顔は
家に戻られても
旅立たれても
今も宇宙港に向けて
首をずり落としたまま
あの病床群の中に
残っているのではないですか

 「首をずり落としたまま」が強い。「ずり落とした」という「音(音楽)」が一オクターブも二オクターブも下の旋律のように、「肉体」の奥を揺さぶる。「宇宙港」という、どれだけ高いところをわたっていくかわからない「輝き」のようなものと、暗闇よりも暗い「存在する力」が向き合っている。
 渡辺の「沈黙の音楽」は振幅が大きい。オクターブの幅が広い。
 いつか、また、このことについて書いてみたい。



ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(153)

2014-08-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(153)        

 「一九〇八年の日々」は、その年に出合った二十五歳の青年のことを描いている。仕事がなくてカフェでカードをして稼いでいる。しかし勝負事は稼ぐよりも「借り」が増えていくものである。金に困って、どうするか。借りを帳消しにするにはどうするか。方法はかぎられている。
 そういう惨めな生活の合間の、ほんの短い時間。

一週間かそこらだった。も少し長かったか。
あの子があのぞっとせぬ夜になんとかおさらばして、
プールで朝早く泳いで身体のほてりを冷やせたのは--。

 その、ほんの短い時間に、「きみ」はあの子を見た。

きみの眼の底に残るあの子は
あの貧相な上衣を脱ぎ捨て、
つぎの当たった下着をかなぐり捨てて、
すっくと素裸で立った姿だ。
一点の非の打ちどころのない美しさ。まさに奇蹟。
櫛の入らない髪を後ろに流し、
朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。

 この最後の描写に私は驚く。「一点の非の打ちどころのない美しさ」という表現は、繰り返し読んできたカヴァフィスの男色の相手を描写することばそのままに具体性に欠けている。ただし、貧相な上衣(色の抜けた肉桂色のスーツ)、つぎの当たった下着とは対極にあることはわかる。そして、そのあと、突然「櫛の入らない髪を後ろに流し」という具体的な描写が出てくる。
 あ、初めてだ。カヴァフィスは、ここではじめて自分の愛した男を具体的に描写している。忘れられないのだ。
 そのあとの「朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。」もカヴァフィスにしては非常に具体的な描写である。日焼けした腕と脚。それも、朝素裸で泳ぐということを繰り返したためにできた日焼け。ふつうの、日盛りの浜やペールでつくる日焼けとは違うのだ。
 「きみ」が、つまりカヴァフィスが「あの子」の普通の日々の姿を知ったのは、詩に書かれている順序とは逆に、そのあとなのだろう。美しい姿を見たあとなのだろう。
 「たしなみのよいきみ」は、「あの子」の日常を知らなかった。
 しかし、知ってしまってからも、あるいは知ってしまったからなのか、よけいに「あの子」を忘れられない。詩集の最後を、その思い出で閉じているのも、そこに強い思い入れがあるからだろう。
 誰にでも忘れることができない恋がある。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする