詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『膝で歩く』

2014-08-09 11:35:30 | 詩集
季村敏夫『膝で歩く』(書肆山田、2014年08月08日)

 季村敏夫『膝で歩く』の詩篇の多くに注釈のようなものがついている。たとえば「自転車の息」という作品の3連目、

-チャーリキ、チャーリキ
 スチャラカチャン
 切られ切られて
 血がだアらだら

 には、次のような具合。

戦前の神戸のバラケツ(不良少年)が三ノ宮などの盛り場で「よう歌うてたんや」、「海がえらい荒れてるなア。今日なんか舟にのったらしごがれるでエ」。島尾敏雄は開高健に語った。開高健の耳はこのときも勃起したのであろうか。

 この注釈と、注釈されたものの関係は、わかったようでわからない。「チャーリキ……」の歌は神戸の少年が歌っていたというのはほんとうだろう。そのことを島尾敏雄が開高健に語った、そういうことを開高健が島尾敏雄から聞いた、というのはほんとうなのだろう。開高健が、どこかでそう書いているのだろう。私は不勉強なので、何にそう書いてあるのか知らない。
 注釈の最後の「開高健の耳はこのときも勃起したのであろうか。」というのは、季村の推測である。開高健は何かおもしろい話を聞くと「耳が勃起する」(耳が興奮する、耳に血が集まってくる)人間なのだろう。これは開高健がどこかで書いていることを、季村が思い出して書き加えていることになる。推測していることになる。
 注釈は、一般的には詩とは呼ばれないけれど、私はこの注釈に「詩」を感じた。
 そこでは季村の意識が、それこそ「勃起」して、射精している。「勃起したであろうか」と推測する必要などないのに、推測してしまう。季村の「肉体(思想)」が思わず、他人から見えるようになってしまっている。勃起したペニスのように、パンツを履いていても、それがわかる具合に。

 こんな「感想」では、何を書いてあるのかわからないかもしれないが。私が何を言いたいのか、伝わらないかもしれないが……。

 詩と、注釈を読むと、季村は、あるとき、どこかで聞いたことばに思わず「勃起」しているのがわかる。そこにあるものを通り越して、そこにいる季村が「勃起」する。季村のなかの「本能」が動いて、その「場」と向き合っているのがわかる。「平常心(?)」を失って、「本能」に動かされているのがわかる。
 で、この「本能」というのは、説明が難しいなあ。
 おっぱいに勃起する人がいれば、おしりに勃起する人もいる。涙っぽい目に勃起する人もいれば、怒った唇に勃起する人だっているからね。
 「自転車の息」の場合は、どうなのか。

枯れ葉は動かない
バス停の裏の湿地
行き止まりに沈む数枚

こんな夢の残像をかかえ
めざめる

-チャーリキ、チャーリキ
 スチャラカチャン
 切られ切られて
 血がだアらだら

自転車にまたがり
四方八方に陽を浴び
ゆきづまりを打開しようとした

 1連目の「行き止まり」、4連目の「ゆきづまり」という呼応。その間に、自転車をこぎながら歌う、不良少年の歌。あ、あの歌は、何か「行き止まり」「ゆきづまり」を感じながら、どうしていいかわからないまま「肉体(思想)」が勃起していたんだなと感じさせる。
 何かに押さえつけられる。それに対する反発が「不良」の行動になってあらわれる。それは、そういうことをせずにはいられない「本能」である。それは「本能の暴走」ではなく、「本能の必然」だ。それを、「ことば」にする方法がわからない。
 季村は、この「ことば」にできない「肉体」のあり方に「勃起」している。不良少年の「肉体の勃起」にさそわれて、季村の「ことばの肉体」が「勃起」している。
 季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』(書肆山田)で、「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、あらゆることは「遅れてあらわれる」。ことばは、いま起きていることを表現できない。表現できるようになるのは、「遅れて」である。ずっと、あとからである。不良少年たちの「本能(欲望)」を正直に語れるのは、「遅れて」である。どう語っていいのか、そのことばがわからないので、「肉体」がそのまま発することば以前のことば、未生の音楽のようなものを「チャーリキ……」と声にするしかない。
 そういうことがあった、ずーっとあとになって(遅れて)、季村は、いま、

行き止まり
ゆきづまり

 ということばを発している。あれは、「ゆきどまり」「ゆきづまり」と向き合って、それを「打開」しようとしていた何かなのだと。季村の肉体はいま、それがわかったのだ。いま、季村の肉体はそれを思い出し、おぼえていることと「ことば」がここで出会っているのだ。

錆びたダクトから噴出する白煙
自転車(チャリンコ)のチリンがすりぬける

だれにも呼ばれない
それでもペダルを踏み込む

土は冷える
枯葉数枚
空に舞いあがり
車輪と風の衝突

これから弔いだ
だれかに
回転するだれかに呼びかける

 「だれ」にも呼ばれない。「だれ」かに呼びかけたい。「だれ」がわからない。わからないけれど、力を込めて自転車のペダルをこぐ。自転車に乗って走り回ること、肉体を「無も句帝/無意味」に動かすことが「目的」なのだ。大声で無意味な歌を歌うこと。その「無意味/無目的」が「目的」なのだ。
 「行き止まり」「ゆきづまり」を「頭」で知るのではなく、それに衝突してしまいたい。衝突して、「肉体(思想)」がどんなふうに変わるか、そのときの「痛み」を「おぼえたい」。
 そういう「息」が「勃起」しているのを、感じる。

 さまざまなことばに季村のことばは「勃起」する。そして、その「勃起」したときの力を利用して、「いま/ここ」にあることばの内部に分け入り、「いま/ここ」を激しくめざめさせたいと欲望している。
 そういう欲望が、ことばの肉体を、ぐいぐいと押して動かしている詩集である。



膝で歩く
木村 敏夫
書肆山田

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(140)

2014-08-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(140)        

 「レアルコスの子、キモン、二十二歳、キュレネのギリシャ文学学徒」はカヴァフィスがよく書く「墓碑銘」を装った詩である。おもしろいのは、だれかが「キュレネ」のことを讃えて書いているのではなく、「墓碑銘」を書いたのがキュレネ本人であるという体裁をとっていることである。

「幸いのうちにわが終わりは来たりぬ。われとヘルモテレスとは何ものに
よりてもわかたれざる友なりき。

 そして、そこに両親や兄弟という「血」のつながりではなく「友」が出てくるのも、とてもかわっていると思う。ヘルモテレスの方は生き残っている。いっしょに死んでしまった友ならば墓碑銘に記してもいいかもしれない。しかし、生き残っていて、これから先、どんな人生を送るかわからない友の名前が書かれるのは異様なことのように思える。
 墓碑銘というよりは、死ぬ直前にヘルモテレスにあてて書いたラブレターのような感じがする。私は死んでゆくが、いつまでも君のことを忘れない、とでも言っているように感じられる。

       二人は二人ながらに若かりき。ともに二十と三のよわいな
りき。運命の神は裏切りの神にして、横合いよりの愛欲がヘルモテレスを
われより奪いしこともおそらくはありたらんを、よきかな、われらはつい
にわかたれざる愛のうちにありて、わが美しきいのちの終りを迎えたりき。」

 ヘルモテレスは、これから先、別のだれかと出会い、そこで愛欲に生きるかもしれない。けれど、それはかまわない、とキモンは思っている。少なくとも、死んでいくいまは「わかたれざる愛」を生きている。キモンは愛欲のためにヘルモテレスを裏切ったことはない。そのことがキモンの誇りである。
 あるいは。
 私は、まったく逆のことも感じた。これはキモンが死の間際に書いたラブレターではなく、ヘルモテレスがキモンにあてたラブレターかもしれない。感謝のラブレターかもしれない。私(ヘルモテレス)は何度か愛欲のためにキモンを忘れたことがある。けれどもキモンは一度としてそういうことはなくひたすら私(ヘルモテレス)を愛してくれた。愛に生きた美しいいのち、そのいのちのままキモンは生涯を終える。そのことを忘れないために、ヘルモテレスは墓碑銘にあえて自分の名前を書き込む。二回も書き込んでいる。
 これは、愛の誓いなのだ。ときに愛欲の誘いに負けてしまうことがあるかもしれない。けれども「わかたれざる愛」を永遠に生きる、キモンが愛してくれたことを生涯忘れることはないと、キモンに誓っているのかもしれない。
 --というのは、詩の前半だけを取り上げて読んだ「誤読」なのだが、(実は「われ」はキモンではないことが後半に書かれているのだが)、そこに書かれる感情は、いま私が書いた感想を反芻するように揺れる。カヴァフィスの精神は複雑だ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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