秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(4)(思潮社、2014年08月12日発行)
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』については、もう書くこともないと思っていたが、詩は読み返すたびに書くことが出てくるものである。まあ、先に書いたことの繰り返しが多いのだけれど、詩人の方だって同じことを繰り返しかいているのだから読む側が繰り返し同じことを書いても文句はないだろうと思う。
「かわいいものほど、おいしいぞ」のじっちゃんとスズメ。
秋亜綺羅は論理的な人間なので、私と違ってきちんと「結論」を書く。その「結論」の部分の導入部、「一か月」という「同じ時間」をかけて、じっちゃんがスズメにやるコメを焼酎にしたし続けた部分は先に引用したとおり。
で、そのあとなのだが。
「動物の赤ちゃんがかわいいのは、天敵に同情させ襲わせないためではないか、という学者がいたけれども、」という部分は「意味」を共有させておいて、それを否定するという秋亜綺羅の詩の「仕掛け」をそっくり踏まえている(秋亜綺羅が書いているのだからあたりまえだけれど)。
でも、これだけでは「かわいがる」と「食べる」の関係がよくわからない。
少なくとも野生の動物は、食べる動物をかわいがるとは私には思えない。「かわいがって、育て、食べる」という感じはまったくない。
ここの部分は、「論理好き」の秋亜綺羅にしては、なんとも変な感じ。「論理」が破綻している。
「かわいがる」と「かわいい」の関係を秋亜綺羅は見落としている。
「かわいい」は最初から「かわいい」のではなく「かわいがる」という気持ちがあってはじめて「かわいい」になる。「かわいい」は生まれてくる。育ってくる。
これを説明するのは、またまためんどうなので、秋亜綺羅が書いていることを引用してごまかそう。(ちょっと「論理」をずらして書いてみよう。)最終連。
「とにかく」というのは「根拠」を省略して「結論(?)」を言うときに使われることが多い。途中を省略するけれど、「とにかく、……なのだ。」ここにも秋亜綺羅の「論理」優先のことばの動かし方を見ることができるけれど、と書くと脱線するので、ここまでにして。
最後の最後の「分かち合った」(分かち合う)という「動詞」。ここから「かわいい」が生まれてくる。何かを分かち合わないと「かわいい」は生まれて来ない。じっちゃんは焼酎を「分かち合う」。それだけではない。「時間」を「分かち合う」。「時間」を「共有」するのだ。
農家の人たちもコメや野菜、牛や豚を育てるとき、実は「時間」を「分かち合っている」、「共有」している。自分のもっている何かを、コメや野菜、牛や馬に、分け与えている。それは「大きく育てる」という技術(ノウハウ)かもしれないけれど、何かを与え、それを自分以外のものと「共有」できたとき、そこから「かわいい」が生まれてくる。手間をかけただけ反応(手応え)がある。それが「かわいい」という喜び。自分のなかの何か名づけられないものが「かわいい」を照らす。「かわいい」が反射してきて、喜びのなかに明かりがついたような感じ。相互作用だね。
「時間」をかけて、「時間」そのものを「共有」する。そこから「かわいい」が生まれる。「かわいがる」ことなしには、「時間」をかけないことには「かわいい」は生まれて来ない。「時間」をかけて、「同じ」になる、なろうとする。「同じ」になってくるものを、ひとは「かわいい」と言うのである。そして、自分自身もひそかに「かわいい」になるのだ。
で、ここから、私は飛躍する。
私は一度(昨年)、秋亜綺羅が詩を朗読するのを見た(聞いた)ことがある。それを見ながら、あ、秋亜綺羅はずいぶん自分の詩をかわいがっているじゃないか、と思った。これは、別なことばで言うと、「自己陶酔」しきって朗読しているじゃないか、ということと同じなのだが「自己陶酔」よりも「かわいがっている」という印象が強いのは、やっぱり詩をかわいがっているからだろうなあ。自分の詩を「かわいい」と思っているんだろうなあ。
それはどういうところにあらわれているかというと、裸足。舞台のうえで、秋亜綺羅は裸足だった。舞台と肉体を直に接触させている。そして、詩を床にまで「共有」させようとしている。「声」が床に届くかどうかはわからない。しかし「肉体」(足裏)の変化は床に伝わる。そこから「肉体」はビル全体に伝わる。そうやって、「詩」を伝えようとしている。
あるいは、練習。「勉強は好きじゃない」と秋亜綺羅は書いているが、それは、まあ父親に反抗する「方便」のようなものであって、秋亜綺羅はどうみても「勉強が嫌い」なタイプではない。どちらかというと「対象」と「時間を共有する」ということが大好きな人間である。「時間」を「共有」し、「かわいがる」ということが大好きな人間である。だから、突然朗読するのではなく、きちんとリハーサルをする。自分の「声」がいっしょにパフォーマンスするひと(音楽を演奏するひと、踊るひと)に「共有」されるように、この詩の「ここがかわいいんだよ」(ここをかわいがってそだてたんだよ)ということが「共有」されるためにリハーサルする。ときには、同じ舞台に立つひとが「そこよりも、私はこっちの方がかわいい」という反応をするかもしれない。そういうことも確かめ、それを取り込みながら、詩を、朗読にふさわしいように「かわいがる」(時間をかけて、育てる)。
まず自分自身にとって「かわいい」ものにする。そうすると、それが「おいしくなる」。他人(読者/聴衆/観客)にとって「おいしい」詩になる。
シェフが「おいしい」と感じるものだけを客に出すのと同じ感覚である。
本作りも同じだ。秋亜綺羅自身が納得できるまで「かわいがる」。そして「かわいい」ものにする。つまり「おいしい」ものに。「おいしい」ものはおいしく食べてもらえる。「かわいい」ものは、かわいがってもらえる。そこから新しい「時間」がはじまる。秋亜綺羅の手を離れて、詩がよりいっそう「かわいがられ」「かわいい」ものになる。
「かわいい」の共有は「かわいがる」をとおして、そのときはじまる。
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』については、もう書くこともないと思っていたが、詩は読み返すたびに書くことが出てくるものである。まあ、先に書いたことの繰り返しが多いのだけれど、詩人の方だって同じことを繰り返しかいているのだから読む側が繰り返し同じことを書いても文句はないだろうと思う。
「かわいいものほど、おいしいぞ」のじっちゃんとスズメ。
秋亜綺羅は論理的な人間なので、私と違ってきちんと「結論」を書く。その「結論」の部分の導入部、「一か月」という「同じ時間」をかけて、じっちゃんがスズメにやるコメを焼酎にしたし続けた部分は先に引用したとおり。
で、そのあとなのだが。
だが、じっちゃんがスズメを長い間かわいがってから、食べたのはどうしてだろう。
そういえば、スズメの焼き鳥をわたしにくれたとき、じっちゃんは確かに言った。
「スズメっこ、めんこいがら、うめぇぞ」。
近所のドブですくったドジョウにでも、庭でとらえたヘビにでも、長い時間じっちゃんは無言で話しかけているように、幼かったわたしにはおもえた。
農家の人たちはコメや野菜を、豚や牛を、ほんとうにかわいがって育てる。動物の赤ちゃんがかわいいのは、天敵に同情させ襲わせないためではないか、という学者がいたけれども、わたしはそうはおもわない。かわいいことは、おいしい証拠なんじゃないか。赤ちゃんは肉がやわらかくておいしいよ、というわけだ。
「動物の赤ちゃんがかわいいのは、天敵に同情させ襲わせないためではないか、という学者がいたけれども、」という部分は「意味」を共有させておいて、それを否定するという秋亜綺羅の詩の「仕掛け」をそっくり踏まえている(秋亜綺羅が書いているのだからあたりまえだけれど)。
でも、これだけでは「かわいがる」と「食べる」の関係がよくわからない。
少なくとも野生の動物は、食べる動物をかわいがるとは私には思えない。「かわいがって、育て、食べる」という感じはまったくない。
ここの部分は、「論理好き」の秋亜綺羅にしては、なんとも変な感じ。「論理」が破綻している。
「かわいがる」と「かわいい」の関係を秋亜綺羅は見落としている。
「かわいい」は最初から「かわいい」のではなく「かわいがる」という気持ちがあってはじめて「かわいい」になる。「かわいい」は生まれてくる。育ってくる。
これを説明するのは、またまためんどうなので、秋亜綺羅が書いていることを引用してごまかそう。(ちょっと「論理」をずらして書いてみよう。)最終連。
とにかくじっちゃんは、いのちほど大切な焼酎を、かわいいスズメたちと分かち合ったのだった。
「とにかく」というのは「根拠」を省略して「結論(?)」を言うときに使われることが多い。途中を省略するけれど、「とにかく、……なのだ。」ここにも秋亜綺羅の「論理」優先のことばの動かし方を見ることができるけれど、と書くと脱線するので、ここまでにして。
最後の最後の「分かち合った」(分かち合う)という「動詞」。ここから「かわいい」が生まれてくる。何かを分かち合わないと「かわいい」は生まれて来ない。じっちゃんは焼酎を「分かち合う」。それだけではない。「時間」を「分かち合う」。「時間」を「共有」するのだ。
農家の人たちもコメや野菜、牛や豚を育てるとき、実は「時間」を「分かち合っている」、「共有」している。自分のもっている何かを、コメや野菜、牛や馬に、分け与えている。それは「大きく育てる」という技術(ノウハウ)かもしれないけれど、何かを与え、それを自分以外のものと「共有」できたとき、そこから「かわいい」が生まれてくる。手間をかけただけ反応(手応え)がある。それが「かわいい」という喜び。自分のなかの何か名づけられないものが「かわいい」を照らす。「かわいい」が反射してきて、喜びのなかに明かりがついたような感じ。相互作用だね。
「時間」をかけて、「時間」そのものを「共有」する。そこから「かわいい」が生まれる。「かわいがる」ことなしには、「時間」をかけないことには「かわいい」は生まれて来ない。「時間」をかけて、「同じ」になる、なろうとする。「同じ」になってくるものを、ひとは「かわいい」と言うのである。そして、自分自身もひそかに「かわいい」になるのだ。
で、ここから、私は飛躍する。
私は一度(昨年)、秋亜綺羅が詩を朗読するのを見た(聞いた)ことがある。それを見ながら、あ、秋亜綺羅はずいぶん自分の詩をかわいがっているじゃないか、と思った。これは、別なことばで言うと、「自己陶酔」しきって朗読しているじゃないか、ということと同じなのだが「自己陶酔」よりも「かわいがっている」という印象が強いのは、やっぱり詩をかわいがっているからだろうなあ。自分の詩を「かわいい」と思っているんだろうなあ。
それはどういうところにあらわれているかというと、裸足。舞台のうえで、秋亜綺羅は裸足だった。舞台と肉体を直に接触させている。そして、詩を床にまで「共有」させようとしている。「声」が床に届くかどうかはわからない。しかし「肉体」(足裏)の変化は床に伝わる。そこから「肉体」はビル全体に伝わる。そうやって、「詩」を伝えようとしている。
あるいは、練習。「勉強は好きじゃない」と秋亜綺羅は書いているが、それは、まあ父親に反抗する「方便」のようなものであって、秋亜綺羅はどうみても「勉強が嫌い」なタイプではない。どちらかというと「対象」と「時間を共有する」ということが大好きな人間である。「時間」を「共有」し、「かわいがる」ということが大好きな人間である。だから、突然朗読するのではなく、きちんとリハーサルをする。自分の「声」がいっしょにパフォーマンスするひと(音楽を演奏するひと、踊るひと)に「共有」されるように、この詩の「ここがかわいいんだよ」(ここをかわいがってそだてたんだよ)ということが「共有」されるためにリハーサルする。ときには、同じ舞台に立つひとが「そこよりも、私はこっちの方がかわいい」という反応をするかもしれない。そういうことも確かめ、それを取り込みながら、詩を、朗読にふさわしいように「かわいがる」(時間をかけて、育てる)。
まず自分自身にとって「かわいい」ものにする。そうすると、それが「おいしくなる」。他人(読者/聴衆/観客)にとって「おいしい」詩になる。
シェフが「おいしい」と感じるものだけを客に出すのと同じ感覚である。
本作りも同じだ。秋亜綺羅自身が納得できるまで「かわいがる」。そして「かわいい」ものにする。つまり「おいしい」ものに。「おいしい」ものはおいしく食べてもらえる。「かわいい」ものは、かわいがってもらえる。そこから新しい「時間」がはじまる。秋亜綺羅の手を離れて、詩がよりいっそう「かわいがられ」「かわいい」ものになる。
「かわいい」の共有は「かわいがる」をとおして、そのときはじまる。
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