詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

熊切和嘉監督「私の男」(★★)

2014-08-08 11:59:35 | 映画
監督 熊切和嘉 出演 浅野忠信、二階堂ふみ、藤竜也


 監督との相性というものがあるのだろう。私は熊切和嘉との相性が悪いのかもしれない。前に見た「海炭市叙景」は世間の評判は非常に高いのだが、私にはどうもなじめなかった。空気の冷たさはいいのだが、その冷たさのなかで人間の欲望がおしつぶされまいとうごめく感じが、どうもいやだなあ。欲望というのはほんらい伸びやかなものだと思う。風土とは無関係に。そうでなかったら、雪国で子供が生まれるわけがない。冷たい雪のなかにもあるよろこび、貧しい生活のなかにもある美しさ、自然の力……そういうものを私は見たい。

 「私の男」は流氷のシーン、藤竜也が流氷にのって流されていくシーンはすばらしい。このままだと死んでしまうのだけれど、藤竜也を助けたいという気持ちにならない。冷たい空気のなかに、藤竜也の顔が見えなくなり、立って助けを求める姿がぼんやりしたシルエットになっていくのだが、それがなんとも美しいと感じてしまう。あ、このシーンを「影像」ではなく現実に見てみたいという気持ちにさせられる。
 少女の、藤竜也に邪魔されたくないという気持ちが、冷たく冷たく藤竜也を遠ざける、遠ざかるとだんだん少女の肉体のなかの炎が息を吹き返してくる感じに「共感」するのというのではない。ただ、流氷の色、海の水の色、空気の色、雪の色--その諧調と藤竜也の姿が見えなくなっていくスピード(時間)の揺るぎなさのようなものに見入ってしまう。どんなときでも自然は美しいなあと思ってしまう。
 カメラがいいのかもしれない。ここでは藤竜也や二階堂ふみが演技をしているのではなく、カメラが演技をしている。カメラと流氷がいっしょになって演技をしている。それがしっかりと影像に定着している。
 二階堂ふみが浅野忠信の帰りを待っていて、バスからおりてくる浅野忠信を迎えたあと、帰り道の途中でキスをせがむ。浅野忠信が「ここでか」と一瞬ためらうのだが、すぐにさえぎるものも何もない雪野のなかでキスをする。だれかがどこかできっと見ている。それを感じさせるカメラ、雪の白さ、雪野の起伏、遠い家の屋根の形が美しい。すべてを受け入れて、すべてを「そこ」にとじこめてしまう力、北国の不思議な「自然の美しさ」がそこにある。
 人間なんて、みんな知っていて知らんふりをする。知らんふりをして知っている。それが積み重なって「自然」になる。浅野忠信と恋人との関係(恋人が、浅野忠信が二階堂ふみに買ってやったピアスを捨てるシーンはいいなあ)も、とても丁寧に、それが「自然」になるまで、丁寧に、丁寧に描かれていて美しい。
 この美しさに比べると、東京へ出てからの後半がいやだなあ。とても同じカメラでとられているとは思えない。同じカメラマンがとっているとは思えない。美しいシーンがひとつもない。
 北海道のシーンでは、部屋の中が汚れていても(きんちんと整頓されていなくても)、それなりに秩序というものがあったし、どうしようもない「におい」があった。時間を積み重ねてきた「自然」があった。東京での浅野忠信と二階堂ふみの二人の暮らしは、一方で愛欲の時間を積み重ね、他方で過去を振り捨てるという矛盾した二方向性をもったものだから、普通の暮らしのように時間が積み重なり、そこに「におい」が出てくるというものではないのかもしれないが、あまりにも不自然というか、作為があふれている。
 二人を追ってきた刑事(?)を浅野忠信が殺し、第二の逃亡がはじまる。二階堂ふみが恋人(?)に送られて帰ってきたアパートのシーンに、特に、作為を感じた。二階堂ふみの部屋はきれいに整頓されている。浅野忠信は二階堂ふみにかしずくようにして、酔った彼女の世話をする。奇妙な濃密な「におい」、同じ時間を繰り返してきたときにだけ生まれる「におい」がそこにあって、それはそれでいいのだが、もうひとつの部屋がひどい。浅野忠信の暮らしている部屋はごみ袋が山積み。それも自然に少しずつたまったというよりは、映画のためにつくりあげた「新鮮なごみの山」。二階堂ふみの部屋との対比のためにつくられたセット。
 いやあ、やっていることと、やろうとしていることはわかるけれど、それは流氷のシーンのようにみとれてしまう感じではない。あ、これをこのまま見ていたい、自然はこんなに非情で美しいという感じにはなれない。
 ひとの暮らしには、どんな暮らしであれ、「暮らしの自然」というものがあるものだと思うが、どうもその「自然の力」(暮らしの肉体)というものが、熊切和嘉の映画には感じられない。こんなふうに映像化すれば、観客は「意味」を理解するだろうという「意図」のようなものしか感じられない。
 この映画は、二階堂ふみが藤竜也の視線に気がつき、藤竜也を流氷原に誘い出し、殺すシーンまでで終わっている。そこで終われば、この映画は完璧。そのあと東京シーンをつけくわえるからつまらなくなる。二階堂ふみが藤竜也を殺すまでは「自然」だが、それ以後は「不自然」。ストーリーのためのストーリー。
 この映画の感想は書くつもりはなかったのだが、川瀬直美の「2つ目の窓」を見て、後半にがっかりしたので、ふと思い出してしまった。映画はたしかに監督がつくるものだけれど、つくる過程でカメラがカメラ自身の力で影像をつくりだしたら、そのカメラの影像にしたがっていくべきだと私は思っている。カメラがつくりだしたものをねじまげていくと映画は不自然な「ストーリー」になってしまう。




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中井久夫訳カヴァフィスを読む(139)

2014-08-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(139)        

 「西リビアから来た王子」。ここにはふたつの「口調」が響きあう。一連目は王子を評価して「ありゃ深遠な思想家よ、/そういう人はあまり喋らぬ。」というのだが、そこに何とも言えない「評価する人間」の優越感のようなものがある。「ありゃ」という砕けた口調、「よ」という軽い語尾。
 その口調をそのまま引き継いで、二連目は、まったく反対の評価をするのだが、「口調」が一連目とそっくりなので、あ、一連目の発言者は、そのまま二連目の批判に同調するだろうなあと感じさせる。一連目の発言者の思いをまったく正反対のところへひっぱっていくのだが「音楽(口調)」が同じなので、「和音」のように響きあう。

深遠な? 思想家?
笑わせるなよ、つまらぬ奴よ。
ギリシャの名を付け、ギリシャ服着て、
ギリシャの行儀を習っただけさ。
びっくりさせたら、ギリシャ語じゃあるが、
まったく夷の叫び声。

 ここで「声」が出てくるところが、とてもおもしろい。人間はことばを話す。ことばの「意味」は頭で選択して選ぶ。いや、意味にあわせてことばを選択して、声にする。そういうことを人間はできるが、びっくりすると「頭」の抑制を離れた「地の声(地声)」が出てしまう。
 「意味」ではなく「声」に、その人間の「本質」があらわれる。(一連目の話者と二連目の話者も、声、つまり人間の本性、相手を見下し批判する生き方が通い合う。)
 そういう場に出会ったら、アレクサンドリア人は、王子をからかうだろう。

無口なのはそのせいさ。
文法・発音よく吟味して二、三語しか話さない。
身体の中にお喋りがいっぱい溜まって
気が狂いそう。

 「声」に出すことが大切なのだ。「ことば」には辞書に書かれた「意味」以上のものがある。「声」があらわす「真意」がある。それは「お喋り」のような軽い感じのときにもある。お喋りの「軽み」は「軽み」という「真実」を輝かせる。「声」にしか語れないものがある。
 そういうものを発散させないと、たしかに気が狂うかもしれない。
 カヴァフィスのように、ことばに「主観」を感じ、「声(口調)」に思想をつかみ取る詩人なら、特にそうだろう。中井久夫は、このカヴァフィスの「声(口調)」にこめる思いを的確に訳出していると思う。原文を私は知らないのだが(また読めもしないのだが)、生き生きとした「口語」の訳から、そう感じるのである。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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