岩切正一郎『視草の襞』(らんか社、2014年07月31日発行)
岩切正一郎『視草の襞』には、わからないことばが出てくる。タイトルの「視草」も、わからない。これについては「あとがき」で、
わたしの思想は、どちらかというと視草の類に属する。
草とわたしはそれぞれ夢をみている。それを一度闇にくるみ声に変えるのがわたしの仕事である。
と、書いている。
私はひねくれものだから、ひとの言うことを信用しない。私自身がわかること(おぼえていること)しか信用しない。
岩切は「見たもの(視力でとらえたもの)」を「声に変える(音にする、聴力/発声の融合したものにする)」と言っているのかな? 「見たもの(視力でとらえたもの)」を「ことば」にする、と言っているのかな? 「ことば」は「声」になって「耳」に届けられる。
なぜ、「視+草」なのか。「草」に「葉」があり、「葉」は「ことば(こと+葉)」だから? 「草」は動かない。岩切もまた動かずに「視力」だけを動かすということかな。さっぱりわからないが、岩切が「視力」と「声」にこだわってる、その「変換」の道具に「ことば」を考えている、ということは「わかる」。
まあ、私の「わかる」は「誤読」だけれど。
どんな風に、岩切は実際に詩を書いているのか。「ピエシュニ」という作品がある。いきなり、私の知らない(わからない)ことばがタイトルになっているので、私は、ふーんという気持ちで読みはじめるのだが……。
私はカタカナ難読症(かってにつくったことばなので、ほんとうは何と言うのか知らないが、カタカナが読めない)ので正確に引用できているかどうかもわからないのだが、最初の2行から「音」が聞こえてこない。岩切は「音楽が聞こえてくる」「響きが満ちてくる」と書いているが、私には「音」がものすごく遠くにあるように感じられる。「無音」と言ってもいい。そしてその「無音」の「位置」を「カタカナ」の「かたち」が埋めている。私は「音」を聞きとらずに「文字」を「見ている」。
3行目の書き出しの一語はポーランド語なのか、「春」という「ことば」なのか、あるいは「風」くらいの意味なのかよくわからないが、これも「音」が聞こえない。
4行目にきて、ここにもカタカナはあるのだが「カード」も「ポーランド」も何度も聞いているし、自分で言ったこともあるので、「音」が聞きとれる。私は「音」を何回か聞きとらないと、そのことばを理解できない人間らしい。
やっと私にもわかる「カタカナ」が出てきたので、少し安心して前の行を振り返ってみるが、やっぱり「音」は聞こえない。「文字」のかたまりが眼の奥をひっかきまわす。私は視力が弱いので、カタカナに暴力を振るわれているような、痛みを感じる。「音楽」や「響き」のかわりに、文字の乱反射がある。文字がぶつかりあって、きちんと音になってくれないというつらい感じが残ったままだ。
それなのに、最後の1行に出会った瞬間、あ、これはいい詩だと思う。
「音」ということばも「響き」ということばもつかわれていないのだが、私には「音楽」が聞こえる。きらきらと輝きに満ちた、明るい響きが聞こえる。「光の枝」(視力の世界)が「のびる」という運動をするとき、その周囲にあるものに影響を与え、そこから「音」が生まれている。
音は叩く、こする、というような運動といっしょにある。光の枝がのびるとき、まわりの空気をこする。空気の尖端をたたきながら進む。そのとき出る「音」が聞こえてくる。これはいいなあ、美しいなあ。
「視草」というのは、こういうこと? そうなら、信じてもいいかなあ、とも思う。
完全に岩切(のことば)に身を任せてしまう気持ちになれないのは、私自身は二度と書くことはカタカナ語(1行目と2行目に出てきた)のためである。視野のはしっこの方で、無音のうるささでこびりついている。いま私がつかった「うるさい」は「音」がうるさいというよりも、そこに存在することが「わずらわしい」に近い。カタカナは私にはいつでも「わずらわしい=うるさい」存在なので、私は岩切の読者にはなれない。こういう詩がつづくのであれば、永久に読者にはなれないだろうなあ、と思う。
岩切は「視力」を「音」に変えることを仕事としているというが、「視力」を「視力」そのものとして描いているときの方が、そこに「視力の音楽」とでもいうものが動いていて、それはとても美しいと思う。
「報告」という作品の終わりの連。
「視力そのもの」を描いていると書いたが、「音」との関係で言いなおすと、聞いた「音」さえ「視力」の世界に還元するとき、「音楽」が「視力」の動きのなかに熟れ待ているのを感じると言いなおせばいいのか。
(あ、ことばが、ごちゃごちゃしていて、うまく動いていないね。)
たとえば「エニシダの花々は/鳥が鳴いているのを聞いていた」と岩切は書くが、エニシダには「耳」などないから、この「聞く」はほんとうは「聞く」ではないね。もちろん「見る」でもないのだが。
「現実」には、鳥が鳴いていて、エニシダが咲いているということ。岩切は鳥が鳴くのを聞き、エニシダが咲いているのを「見る」。「見た」うえで、エニシダが鳥の声を聞いていると言いなおしている。「視力」を通じて岩切はエニシダと一体になり、そこから感覚を肉体のなかで転換させている。岩切は「視覚(中心)」の詩人であることが、ここからわかる。
岩切は「見る」を省略しているが、それは「見る」が岩切の「肉体」にしみついている基本的な動詞(行動の基準/思想)だからである。「見る」が岩切のキーワードである。
次の「鳥は石たちにたべさせていた、石のなかに/おなかをすかせた子供たちがいたから。」というのはとてもおもしろい。「石のなか」に誰がいるか、どういう人間がいるか、ということは「見えない」。「見えない」けれど、岩切はそれを「見る」。そしてその「見たこと」を鳥に託してことばを動かしている。岩切は「視覚」の詩人である--と再び書いておく。
「鳥は風にゆさゆさする黄色い花をみて」と、そのあとになって「みて(見て)」がはじめてことばとして出てくるが、誘い出されたという感じだね。最後になってちょっと気が緩んで無意識が出てしまったということろか。--これも岩切が「視力」の詩人であることの証拠だと思う。
「夢」を「闇にくるみ声に変える」というようなことを意識せず、「現実」を「視力」がとらえたままことばにした方が「声(音楽)」が鳴り響くのではないだろうかと思った。音を聞かせようとする詩には、音がない。音を表現しようとする「意識」の方が前に出て、「音」が背後に隠れてしまう。
逆に「視力」を表現したもののなかからは音が自然に鳴り響いてくる。隠そうとしても隠せないものが「思想」であり「思想の音楽」なのだろう。
岩切正一郎『視草の襞』には、わからないことばが出てくる。タイトルの「視草」も、わからない。これについては「あとがき」で、
わたしの思想は、どちらかというと視草の類に属する。
草とわたしはそれぞれ夢をみている。それを一度闇にくるみ声に変えるのがわたしの仕事である。
と、書いている。
私はひねくれものだから、ひとの言うことを信用しない。私自身がわかること(おぼえていること)しか信用しない。
岩切は「見たもの(視力でとらえたもの)」を「声に変える(音にする、聴力/発声の融合したものにする)」と言っているのかな? 「見たもの(視力でとらえたもの)」を「ことば」にする、と言っているのかな? 「ことば」は「声」になって「耳」に届けられる。
なぜ、「視+草」なのか。「草」に「葉」があり、「葉」は「ことば(こと+葉)」だから? 「草」は動かない。岩切もまた動かずに「視力」だけを動かすということかな。さっぱりわからないが、岩切が「視力」と「声」にこだわってる、その「変換」の道具に「ことば」を考えている、ということは「わかる」。
まあ、私の「わかる」は「誤読」だけれど。
どんな風に、岩切は実際に詩を書いているのか。「ピエシュニ」という作品がある。いきなり、私の知らない(わからない)ことばがタイトルになっているので、私は、ふーんという気持ちで読みはじめるのだが……。
秋の木々からグバイドゥーリナの音楽が聞こえてくる
夜へ傾く時間のなかにアルヴォ・ペルトの響きが満ちてくる
Wiosnaを、春を、口ずさみたくて
ぼくは単語カードにポーランド語の綴りと発音を書いている
からだのなかに光の枝がのびてゆくのを感じる
私はカタカナ難読症(かってにつくったことばなので、ほんとうは何と言うのか知らないが、カタカナが読めない)ので正確に引用できているかどうかもわからないのだが、最初の2行から「音」が聞こえてこない。岩切は「音楽が聞こえてくる」「響きが満ちてくる」と書いているが、私には「音」がものすごく遠くにあるように感じられる。「無音」と言ってもいい。そしてその「無音」の「位置」を「カタカナ」の「かたち」が埋めている。私は「音」を聞きとらずに「文字」を「見ている」。
3行目の書き出しの一語はポーランド語なのか、「春」という「ことば」なのか、あるいは「風」くらいの意味なのかよくわからないが、これも「音」が聞こえない。
4行目にきて、ここにもカタカナはあるのだが「カード」も「ポーランド」も何度も聞いているし、自分で言ったこともあるので、「音」が聞きとれる。私は「音」を何回か聞きとらないと、そのことばを理解できない人間らしい。
やっと私にもわかる「カタカナ」が出てきたので、少し安心して前の行を振り返ってみるが、やっぱり「音」は聞こえない。「文字」のかたまりが眼の奥をひっかきまわす。私は視力が弱いので、カタカナに暴力を振るわれているような、痛みを感じる。「音楽」や「響き」のかわりに、文字の乱反射がある。文字がぶつかりあって、きちんと音になってくれないというつらい感じが残ったままだ。
それなのに、最後の1行に出会った瞬間、あ、これはいい詩だと思う。
からだのなかに光の枝がのびてゆくのを感じる
「音」ということばも「響き」ということばもつかわれていないのだが、私には「音楽」が聞こえる。きらきらと輝きに満ちた、明るい響きが聞こえる。「光の枝」(視力の世界)が「のびる」という運動をするとき、その周囲にあるものに影響を与え、そこから「音」が生まれている。
音は叩く、こする、というような運動といっしょにある。光の枝がのびるとき、まわりの空気をこする。空気の尖端をたたきながら進む。そのとき出る「音」が聞こえてくる。これはいいなあ、美しいなあ。
「視草」というのは、こういうこと? そうなら、信じてもいいかなあ、とも思う。
完全に岩切(のことば)に身を任せてしまう気持ちになれないのは、私自身は二度と書くことはカタカナ語(1行目と2行目に出てきた)のためである。視野のはしっこの方で、無音のうるささでこびりついている。いま私がつかった「うるさい」は「音」がうるさいというよりも、そこに存在することが「わずらわしい」に近い。カタカナは私にはいつでも「わずらわしい=うるさい」存在なので、私は岩切の読者にはなれない。こういう詩がつづくのであれば、永久に読者にはなれないだろうなあ、と思う。
岩切は「視力」を「音」に変えることを仕事としているというが、「視力」を「視力」そのものとして描いているときの方が、そこに「視力の音楽」とでもいうものが動いていて、それはとても美しいと思う。
「報告」という作品の終わりの連。
みんなが食卓につく頃、エニシダの花々は、
鳥が鳴いているのを聞いていた
鳥は石たちにたべさせていた、石のなかに
おなかをすかせた子供たちがいたから。
鳥は風にゆさゆさする黄色い花をみて
笑った
きみたちにはなんとたくさん偶然のみちていること!
「視力そのもの」を描いていると書いたが、「音」との関係で言いなおすと、聞いた「音」さえ「視力」の世界に還元するとき、「音楽」が「視力」の動きのなかに熟れ待ているのを感じると言いなおせばいいのか。
(あ、ことばが、ごちゃごちゃしていて、うまく動いていないね。)
たとえば「エニシダの花々は/鳥が鳴いているのを聞いていた」と岩切は書くが、エニシダには「耳」などないから、この「聞く」はほんとうは「聞く」ではないね。もちろん「見る」でもないのだが。
「現実」には、鳥が鳴いていて、エニシダが咲いているということ。岩切は鳥が鳴くのを聞き、エニシダが咲いているのを「見る」。「見た」うえで、エニシダが鳥の声を聞いていると言いなおしている。「視力」を通じて岩切はエニシダと一体になり、そこから感覚を肉体のなかで転換させている。岩切は「視覚(中心)」の詩人であることが、ここからわかる。
岩切は「見る」を省略しているが、それは「見る」が岩切の「肉体」にしみついている基本的な動詞(行動の基準/思想)だからである。「見る」が岩切のキーワードである。
次の「鳥は石たちにたべさせていた、石のなかに/おなかをすかせた子供たちがいたから。」というのはとてもおもしろい。「石のなか」に誰がいるか、どういう人間がいるか、ということは「見えない」。「見えない」けれど、岩切はそれを「見る」。そしてその「見たこと」を鳥に託してことばを動かしている。岩切は「視覚」の詩人である--と再び書いておく。
「鳥は風にゆさゆさする黄色い花をみて」と、そのあとになって「みて(見て)」がはじめてことばとして出てくるが、誘い出されたという感じだね。最後になってちょっと気が緩んで無意識が出てしまったということろか。--これも岩切が「視力」の詩人であることの証拠だと思う。
「夢」を「闇にくるみ声に変える」というようなことを意識せず、「現実」を「視力」がとらえたままことばにした方が「声(音楽)」が鳴り響くのではないだろうかと思った。音を聞かせようとする詩には、音がない。音を表現しようとする「意識」の方が前に出て、「音」が背後に隠れてしまう。
逆に「視力」を表現したもののなかからは音が自然に鳴り響いてくる。隠そうとしても隠せないものが「思想」であり「思想の音楽」なのだろう。
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