詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

福田拓也『まだ言葉のない朝』

2014-08-10 11:52:29 | 詩集
福田拓也『まだ言葉のない朝』(思潮社、2014年07月31日発行)

 福田拓也『まだ言葉のない朝』は、どんなふうにして読んでいけばいいのだろうか。私は左目を網膜剥離で手術して以来、どうも読むこと、見ることが苦手になってしまった。生理的に、目に厳しいものを避けてしまう。この詩集も、目に厳しい。
 たとえば、次のような部分。(46ページ、きっと転写ミスをすると思うので、原典で再確認してください。)

仄白く纏綿とまとわりつくようにあるいは新たな翼となって空に羽搏
きかけるようにあるいは空自体が羽搏きその律動によって場所だけが
あった場所自体もここからすべて消し去ってしまうかのように、場所
自体が消え去るのかここからすぐに心なき身にもわかることはしかし
幻影を消し去ること自体が幻影でありその幻影までが消え去った後に
はやはり場所であって同時に場所に記載されたものである多数的な分
裂状態にあるものとして僕は書記し抹消し続けるだろう

 ことばが繰り返される。同じことばなのか、違うことばなのか、よくわからないが、「羽搏き」「場所」「幻影」「消し去る」が何度も登場し、それに「自体」が加わる。そして、そのあとに「多数的な分裂状態」ということばといっしょに「僕」というものが登場する。
 丁寧に読むと、どうなるのかわからないが、目に残っているものだけを頼りに「誤読」してしまうと、あらゆる存在は「幻=多数的な分裂状態=何でも変化してしまう」「僕/自体(自身)」であり、それは存在するときに「場所」を必要とするが、それは「場所」(空間)として確定的に存在するのではなく、「僕/僕自体(僕自身)」が「多数的に分裂」するときに必然的に呼び寄せてしまうものである。「場所」は「場所」という物理的「空間」ではなく、「多数的分裂状態」の「状態」というものである。「こと」であり、「変化」と言い換えてもいいのかもしれない。
 そして、その「こと」(変化する状態)というのは、あるものを別なものが「消し去る」という形で動きつづける。あるものがあるものを消し去ってしまったら、そこには「最初にあったもの」がなくなる--というのは「物理」の世界のことであって、記述(書く)という運動のなかでは「消し去る」ということはありえない。文字は書き換えられ、消去することはできるが、「書いた(ことばにした)」という「動詞」は消し去れない。
 その「消し去れないもの(あるいは、消し去れないこと)」は、どこに存在する(どこに残る)のか。「僕」に残る、「僕」といっしょに「残る」、「僕」の「書記し抹消し続ける」という「行為」といっしょに「残る」。「僕(僕自体=僕自身?)」は、「書記し抹消し続ける」という「行為」のなかに生まれ続け、残りつづける。
 あ、きっと、福田の「肉体」というよりも、私の「肉体」について書きすぎている。「私の「肉体」感覚で福田の書いたことを、都合のいいように書き直しているなあ。つまり、「誤読」しているなあ、という気持ちがだんだん強くなってくるのだが。
 まあ、いいか。
 で、ちょっと振り返ると、引用した部分におもしろいことばがある。

心なき身にもわかること

 「心」と「身」がでてきている。「心」と「身(身体、というのかな?)」のふたつが出会って、そこに「わかる」という動詞がつかわれている。私は「身体」ということばにはどうにもなじめないものがあって、そのなじめないものを私のことば「肉体」へ引き寄せるようにことばを動かしていくしかないなあ、どんどん「誤読」していくしかないなあと思いながら書くのだが。
 「心なき身」というとき、福田は何を考えているのだろうか。「わかる」ということばがあるせいだろうか、私は瞬間的に「頭」を想像した。「頭」で福田は、何かを「わかる」(わかっている)。
 うーむ。
 私は「わかる」というのは「肉体」の動きだと思っているが、一般的に「頭」で「わかる」という具合にことばはつかわれている。
 で。
 私自身は、それでは福田の詩とどういうふうに向き合っているかというと、私はだんだん「肉体」ではなく「頭」で向き合いはじめているなあ、と感じている。
 最初は同じことば(同じ文字)が次々にでてきて、目で識別するのが難しくなる。目に負担が多くなり、無意識的に何かを除外するような形で肉体の本能が目を守ろうとしているのを感じながら読んでいた。
 そうするうちに「心なき身」ということばを「頭」と「誤読」し、あ、福田は「頭」でこの繰り返しを整理しているのだなと感じた。同じことばを書くのは、それは実は同じことばを書いているのではなく、福田の書いていることばを借用して言えば「消し去っている」のである。変な例になるが、算数の分数計算のとき、分母を同じにして数字を整理し、「共通」の数字を消しながら「答え」へ近づいていくが、何かそういう感じ。同じことばが出てくるたびに、それは「不要」になる。そういうことをしながら、「答え」へ近づいていこうとしている。実際、その繰り返しのあとに「僕」という「主語」が突然、消し残された(通分されたあとの)「答え」のようにあらわれる。
 「肉体」にまとわりついている何か、それを「共通」の何かで言いなおしながら、世界の真実(答え/主語)を探し出す--そういうことをしているのかもしれないあ。「主語」と「動詞」を特定するということを「頭」でしているのかもしれないなあ、と思いはじめた。
 福田はきわめて「頭」的な詩人なのである。そうありたいと欲望しているのかもしれない。そういう欲望を、私は福田のこのことばの連なりから感じたのだが--あ、こんなこと、私にはわかりっこないなあ、きっとでたらめを書いていると叱られるなあと思いながら書いているのだが。
 先の引用のつづき。

                           鴫立つ澤
の秋の夕暮れという語の連なりが確かに穿たれた身体として薄明の中
に消えていくそれとともに鴫立つ澤の海のきらめきを記入した棒状の
身体に匈奴の土をまぶし自転車を漕いでいた、

 「鴫立つ」というのは「枕詞」なのだろうか。「枕詞」というのは、「場」を「肉体」に結びつけるものだと私は思っている。枕詞といっしょにあらわれるのは「場所」(地理的空間)というよりも、そこにいる人(暮らし)の「肉体」のあり方(思想)だ私は思っているのだが、そういう「肉体性」の強いことばが突然出てくる。
 なぜなんだろう。
 「頭」を強引に動かしたとき、その「頭」が「肉体」によって反論されているのかな? 福田は、そういう「肉体(日本語を動かしているいちばん底にあるもの)」の反撃と戦いながら、ことばを動かしている。「枕詞」のなかにある「肉体(日本語の歴史/日本語のなかの共感)」を消し去ること、純粋数学(理論物理?)のように、ことばを動かそうとしているのかな? それが欲望なのかな? その欲望が強くなればなるほど、「肉体」に反撃され、だからよけいに純粋欲望が覚醒するのかな?

 よくわからないが、この詩集のなかには、「頭」のことばと「肉体」のことばがぶつかりあっている--その衝突の音が聞こえる。粘着力があるので、その音はどんどん沈んでいく。聞こえたと思ったら、もっともっと深いどこかへ飲み込まれ消えていくという感じなのだが。

 何を書いているのかわからない「日記」になってしまったが、私は「結論」をめざしていないのだから、これがいちばん自然なのだ、と開き直っておこう。目の悪い私には、この詩集は見渡せない。頭と目のいいだれかが、いい批評を書いてくれるだろう。






まだ言葉のない朝
福田 拓也
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(141)

2014-08-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(141)        2014年08月10日(日曜日)

 「シノペ進軍の道すがら」はミトリダテスが僻地を通ったとき、名のある占い師の家があるのを知って、将校をひとり占いにやらせた。「朕は今よりのちさらにいかほどの財を集めうるや、いかほどの権力を所有しうるや」。その答えをまちつつミトリダテスは進軍をつづける。そういうことが「文語」の文体で一、二連目に書かれる。そして三連目に占いの内容が語られるのだが、これは「口語」。

占い師は秘密の部屋にこもり、
半時間たって姿をあらわし、
当惑顔で将校に語る。
「はっきりとは結果がでなかった。
今日は日柄がよくなかった。
おぼろな影がいくつか。だがついにはっきりしなかった。
しかし、王は今をよしとされよと私は思う。

 口語で、しかも内容が行ったり来たりする。逡巡がある。占い師が「よい未来」を語らないのは、もうすでに不吉な証拠だが、不吉もはっきりとは言わない。だが、口語はことばそのものよりも、口調によって「意味」を伝える。
 「はっきりとは結果がでなかった。」「ついにはっきりしなかった。」と繰り返したあとで、文語をまじえながら「王は今をよしとされよ」と告げる。その「文語」を引き継いで、ことば(内容)が、また繰り返される。「じゃ」という口語の語尾をいったんはさんで、「文語」で緊迫感を伝える。

この上を望めば何にまれ危険じゃ。
将校殿。きっと王にいわれよ、
『神に誓って今をよしとされよ』とのわがことばを。
運命は急変が習い。

 この対比がおもしろい。「運命」というとき、占い師が「未来」ではなく、過去を見ているのも、おもしろい。占い師のことばはつづくのだ。

ミトリダテス王にいわれよ。王の祖先の故事は希有ぞ。
かかる人に逢うをあてにめされるな。その友、かの気高い友が
槍で地面に字を書いて『逃げろ、ミトリダテス』とご先祖を救うたというが」

 同じことは起きない。だれもミトリダテスを救わない。しかし、もう一方の、暗殺しようとする歴史は繰り返す。過去は繰り返す。ただし、だれも王にこっそり語るひとはいない。「過去」は繰り返すが、また「過去」は裏切るのだ。主観は複数あるのだ。
 文語と口語のぶつかりあいが、過去と未来、複数の声の交錯のようにも見える。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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