詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木孝浩監督「ホットロード」(★★★★★―★)

2014-08-24 22:40:24 | 映画
監督 三木孝浩 出演 能年玲奈、登坂広臣



 ファーストシーンから引き込まれる映画だ。バイクのエンジンをふかす音がして、バイクが走りはじめると音が消える。夜明け前の空気の静寂が聞こえるようだ。ここに、この映画のすべてがある。見た瞬間に、最初の30秒で傑作、 100点という確信する。何が起こるかわからないが、何か起こるか、瞬間的にわかる。
 現実にはバイクの音があるのだろうけれど、それは主人公の少女には聞こえない。彼女は別の音、「沈黙」を聞いている。それは自分の中にある「沈黙」である。それが何であるか、最初はわからない。ただ、少女は少女だけに聞こえるの「沈黙」を聞いていることがわかる。
 映画が進むにしたがって、「沈黙」は実は「沈黙」ではなく、言ってはいけないと抑圧しつづける「声」である。少女は思っていることをすべて口にするわけではない。半分を「沈黙」のなかに閉じ込める。映画では、こころのつぶやきとして観客に聞こえるようになっている部分もあるが、そのつぶやきも彼女の言いたいことの全部ではない。誰にも言えない。いや、言いたい相手に言えない。言えずに「沈黙」している。
 この少女を能年玲奈がしっかり演技している。私は「あまちゃん」を見たことがないのだが(網膜剥離の手術以後テレビは見ない)、あ、見ればよかった、天才を見逃していたと、とても悔しく思った。
 何がすごいかというと。
 こういう「沈黙」を聞く少女と言うのは、どうしても「重く」なる。普通は、どうしても重く演じてしまう。切羽詰まった感じで、重苦しさを押しつけてくる。「思い」ことが「演技」と思われているからかもしれないけれど……。ところが、能年玲奈は違う。どこか、軽い。最後の方に登坂広臣が能年玲奈のことを「あいつは中身がきれいなんだ」というが、あ、うまいことを言うなあ、と感心した。能年玲奈の演じる少女は、中身のきれいさのために軽くなっている。中身が汚れていると、こころが動くたびに汚れたものが衝突して、どんどん暗く汚れ、どろどろになって重くなる。うまく演技すれば「苦痛」がつたわってくる演技になる。(これは、まあ、ふつうの演技)。
 中身がきれいだと、こころが動いたとき何とも衝突せずに、それが肉体の外に出てしまう。あっ、こころから何か飛び出してきた。見ていて、そう思う。この感じを能年玲奈は目で演じている。いや、すごい。目が動くたびに、私は「あっ」「あっ」「あっ」「あっ」と声を出してしまう。(観客が少なくてよかった。)「あっ」「あっ」と叫びながら、どきどきしてしまう。別のことばで言うと、それが彼女の「苦痛」であるとか、「悲しみ」であるとか、私には感じている余裕がない。まっすぐに飛び出してきたものに対して名前をつけることを許してくれない。「未知」の、まったく知らない感情を投げつけられる感じなのである。「未知の」というのは、変かもしれないけれど、そこにいる少女を私ははじめてみるわけだから、どの感情も「未知」であって、あたりまえなのだが……。そのあたりまえに、どきんどきんと心臓が震える。
 いやあ、すごい。ほんとうに、すごい。
 映画なのに、映画を忘れてしまう。演技なのに、演技であることを忘れてしまう。

 この映画は、能年玲奈の演技に匹敵するくらい影像がすばらしい。暴走族が暴れ回ったのは、もうずいぶん昔のことだが、その昔の(30年ほど前?)の空気の色が見える。暴走族の少年や、そのまわりの少女(能年玲奈)の見た夜明けの空の色、海の色、道路のアスファルトの色、「学校の色」が、とても不思議だ。あ、この色を見たことがある、と感じる色なのだ。
 時代も場所も違うのだが、私は高校生のとき、暴走族ではないが、暴走族のようなものにあこがれていたクラス仲間の車で深夜に富山から福井まで走って帰ってきたことがある。帰り道、夜が明けてくる空の色の感じを思い出し、あの空の色、道路の色をみんなまだおぼえているだろうか、と妙に切なくなってしまった。

 ただし。
 登坂広臣が瀕死の怪我をしてからが、どうもおもしろくない。登坂広臣の弟が、登坂広臣の容体を説明するシーンが映画を壊している。ひとりの人間の生死にかかわることを、いくら家族とはいえ、小学生くらいの少年が聞いているところで医師がはなすわけがないし、それを聞いてそのまま弟が能年玲奈らに言うというのは不自然すぎる。ストーリーを展開するために、そういう台詞が必要と考えたのかもしれないけれど、そこから先は私は見る気がしなくなってしまった。案の定というか、なんというか……。ハッピーエンドとは言わないけれど、それふうの結末で映画が終わる。
 能年玲奈の「沈黙」に引き込まれてきたのに。
 あ、登坂広臣の、あの感動的な「沈黙」の種明かしは、このおもしろくない部分にあるのだけれど。で、そのことに触れて言うと、このおもしろくない「結末」で、この映画はすべてを「ことば」で説明しはじめる。登坂広臣の台詞は、そのなかでは唯一許せる台詞だが、あとはあまりにも「結末」のための台詞なので、ぜんぜんおもしろくない。
 天才・能年玲奈も演技をやめてしまって、「結末」を説明しはじめている。
 登坂広臣が警官を見て引き返すシーン、瀕死の重傷を負うシーンでぷつんと終わってしまうと傑作なのになあ。そこで終わると、何が起きたかわからない? わからなくたって、いいじゃないか。それまで能年玲奈の演技をとおして、そこにひとりの少女がいる、ということを実感できたのだから、と私は思う。
                       (2014年08月24日、中州大洋3)
 

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2)

2014-08-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2)   2014年08月24日(日曜日)

 「クローディアス王」は「ハムレット」を下敷きにしている。

甥が王を殺した理由
どうも合点がゆかぬ。
王に殺人容疑をかけたが、
疑惑の根拠といえば
何と! 古城の戦闘城楼を散策して
幽霊と会って話をしただけ。
幽霊の話が王にたいする確実な告発と
王子は思ったとさ。

 カヴァフィスがシェークスピアを好んでいることは、その詩が演劇的(芝居的)なことからもうかがえる。どの詩も芝居の一シーンのようだ。ストーリーを分断して(ストーリーはみんなが知っている)、その場面だけを取り出す。そうしておいて、そこに登場人物の「主観」を繰り広げる。ストーリーが背後に隠され、説明されないので、その「声」の強さ、響きだけが印象に残る。「声」が印象に残るように、カヴァフィスは書く。
 いま引用した部分には、しかし、その「声」はあまり強く感じられない。かろうじて「思ったとさ」の「さ」という中井久夫の訳にそれを感じるくらいである。

幻覚の発作にちがいない。
眼の錯覚だあ。
(王子は極度の神経過敏。
ウィッテンベルク大学の学友は皆、
あいつはキチガイじみたと言うよ)

 「眼の錯覚だあ」の「だあ」という口語の調子を借りて、中井久夫が苦労して「声」を拾いあげようとしている。そういう「口調」をもった誰か、そういう人間を動かそうとしている。しかし、成功しているとは思えない。
 たぶん、詩が長すぎるのだ。
 カヴァフィスは演劇的な詩を書くが、演劇そのものは書かない。ここがシェークスピアと違う。複数の「声」を聞く耳を、カヴァフィスもシェークスピアも持っているが、カヴァフィスは、その「声」を一対一のなかで繰り広げる。シェークスピアのように多数の人物を登場させ、「声」を書き分けるというとはない。
 ひとりの「声」を聞きたいのかもしれない。そのときそのときの「声」にあわせて違う世界へ入り込みたいのかもしれない。ある意味では、カヴァフィスの方が欲張りかもしれない。ひとりひとりと「情」をかわしたいという欲望があるのかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
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