詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(40)

2014-08-01 11:22:20 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(40)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「いま/ここ」と「いつか/どこか」が融合する詩を池井はたくさん書いている。(と、思う。)その「いつか/どこか」が、この詩集の場合、「幼年期(少年期)/ふるさと」であることが多い。池井は、この詩集では「過去」をわりと具体的に書いている。「晩鐘」もそのひとつ。

おやすみのひのごごごじは
なにがあってもといれにはいる
ごごごじのかねきくためだ
どこでなるのかしらないが
たばこつかのまくゆらせながら
ゆうやけこやけきいているのだ
そういえば
もといたへやのまどべでも
ゆうやけこやけきいたものだな
どこでならすかしれないが
もといたへやのあのころを
いまいるここでおもいだしては
ごごごじのかねきいているのだ

 ここまでは「いま/ここ」と「かつて/もといたへや」なのだが、これが「ふるさとのいえ」へとやがてつながっていく。そのことは、あとでまた触れることにして、きょうの「日記」では、もう一度「繰り返し」について書いておく。
 池井の詩は同じことばを繰り返す。多くの現代詩がことばの重複を避け、次々にイメージを変化させていくのに対し、池井の詩は、まったく反対だ。同じことばを繰り返し、その同じことばを少しずつ違うものにしていく。
 「ごごごじのかね」は午後五時になる時報(会社の終業を知らせるものだろうか)なのだが、繰り返しているうちに「午後五時」は「意味」をなくしてしまう。「なくしてしまう」と書いてしまうと、池井からは抗議がくるかもしれないが、私はその「ごごごじ」の繰り返しを読んでいると、「時間」よりも、ある「時」を思い出すことの方に意識が動いていく。ある「時」の、「時」さえも忘れて、「思い出す」という「こと」、「思い出す」という動詞の方に意識が動いていく。
 思い出すとはどういうことなのか。思い出すのはなぜなのか。そのことを池井は「繰り返す」という動詞のなかで考えている。時報(鐘の音)は、あるいとはキンコーンであり、あるときは「ゆうやけこやけ」のメロディーである。それを聞くと、池井は「思い出す」のである。何かを「思った」ということ。

そういえば
もっとむかしのむかしのころも
ごごごじのかねきいたものだな
ゆうやけこやけじゃなかったが
あのかねのおときくたびに
なにやらそぞろみにしみて
かえらなければならないと
もうはやく
かえらなければならないと
ぼくにはかえるうちがあり
ちちははがおりあねがおり
そふぼもコロもまっているのに

 何を思ったか。「かえらなければならないと」と思った。帰る、ということを思った。繰り返し繰り返し、池井は「帰る」ということを思う。
 それは父母のいる家、という形をまずとってみせる。そこには姉もいれば、祖父母もいる。犬のコロもいる--という具合に、具体的な「ふるさと」の形をとるのだが。
 そういう具合にして、池井は一種の「自伝」のようなものを描いてみせるのだが。
 それは一瞬のことで、実は「帰る」場所が違う。

ぼくにはかえるうちがあり
ちちははがおりあねがおり
そふぼもコロもまっているのに
そんなうちよりとおいうち
ぼくはうまれてまもないくせに
むかしむかしにくらしたうちが
いまでもぼくをよぶようで
なにやらそぞろみにしみて
そういえば
いまはもうないあのころを
いまいるここでおもいだしては
ごごごじのかね
いつもひとりで

 「帰る」のは「生家」ではない。「実家」ではない。その「家」のもっととおくにある「家」という普遍的な「こと」に帰ろうとする。
 池井は「うまれてまもない」と書いているが、それは「生まれる前」のように、私には感じられる。池井はいつでも「生まれる前」へ、つまり「いのち」そのものへ帰ろうとしている。「いのち」は生まれた瞬間から死へ向かって突き進んでいるが、死へ向かうという方向をけっして変えることはできないが、池井は、それをことばで、つまり詩のなかで変えようとしている。「いのち以前」(未生のいのち)へ帰ることを、思い出している。何かを「思い出す」ということを繰り返すと、その繰り返しの瞬間「過去」が「いま」へ甦ってくるのだけれど、池井はそれを「いま」に引き寄せるのではなく、さらに「未来」へと突き動かそうとする。「未来」には「死」が待っているのだけれど、その「死」をつきやぶって「未生のいのち」を産もうとしているように思える。
 池井は「未生のいのち」という「未来」へ帰ろうとしている、と言い換えることもできる。
 「未生のいのち(生まれる前のいのち)」を産むために、池井はひたすら「思い出す」。「思い出す」ということを繰り返す。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(132)

2014-08-01 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(132)        2014年08月01日(金曜日)

 「古代このかたギリシャだ」という詩は、私にはどうにもわかりにくい。

アンチオキアの誇り、かがやく建築群、
美しい街路、郊外の 驚異の田園、
あふれる人口、また栄誉満てる王ら、
芸術家、賢者、慎重かつ大胆な豪商もまた誇り。

 アンチオキアの「誇り」(自慢できるもの)を書き並べている。「美しい」「驚異」「あふれる」「栄誉満てる」ということばは、ことばそのもの(意味)はわかるが、そこからはどんな「具体的」なものも見えてこない。豪商に対する「慎重かつ大胆な」という形容詞には「矛盾」があって、何か刺戟的だが、それ以外は「ことば」に個性がない。
 称賛すべき何かに対して個性的な修飾語を用いないというのは、カヴァフィスの「男色」の詩に特徴的な性質だが、それと同じ性質がここでも発揮されている。「男色家」なら「美しさ」に「個性」をつけくわえなくても「美しさ」がわかる、ということか。あるいは、男色の狭い(?)世界、互いが顔見知りの世界では「美しさ」を個性的に描かなくても、「あれは、あいつのことだ」とわかるということか。
 もし、そうであるなら。
 この詩で「美しさ」の「個性」が描かれないのは、その「美しさ」を、この詩を読むひとはみんな知っているからかもしれない。
 そして、ここに書かれている「美しさ」が私にはどうにもわからないのは、私がアンチオキアを知らないからだ。私は、そこの住人ではないからだ、という単純な理由に落ち着く。

だが それよりもなお はるかに強い誇りは
アンチオキアが 古代このかたギリシャの都市だ、
イオをつうじて アルゴスにつながり、
アルゴスの植民者が イナコスの娘
イオを讃えて 造った市だということ。

 あ、ギリシャ人ならすべてわかるのだ。「美しい」や「輝く」「驚異の」ということばで、それがどんな個性をもっているかがわかる。みんな、見たことがある。見ただけではなく、その歴史がわかる。誰が何をしたか。それが「いま/ここ」のこととしてわかる。説明する必要がない。
 こういう不思議な詩を書くことで、カヴァフィスの「同族」の意識を噴出させている。こういう表現の奥に「同じ好み」の「血」が流れていることをはっきりと伝えるのだ。個性を排除した修飾語、詩にはふさわしくないような非個性的な形容詞は、「同じ好み/同じ血/同じ歴史」を生きる人間には、具体的に書かなくてもわかることなのだ。
 これは「同性愛」ならぬ「同都市愛」の詩である。


カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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