池井昌樹『冠雪富士』(40)(思潮社、2014年06月30日発行)
「いま/ここ」と「いつか/どこか」が融合する詩を池井はたくさん書いている。(と、思う。)その「いつか/どこか」が、この詩集の場合、「幼年期(少年期)/ふるさと」であることが多い。池井は、この詩集では「過去」をわりと具体的に書いている。「晩鐘」もそのひとつ。
ここまでは「いま/ここ」と「かつて/もといたへや」なのだが、これが「ふるさとのいえ」へとやがてつながっていく。そのことは、あとでまた触れることにして、きょうの「日記」では、もう一度「繰り返し」について書いておく。
池井の詩は同じことばを繰り返す。多くの現代詩がことばの重複を避け、次々にイメージを変化させていくのに対し、池井の詩は、まったく反対だ。同じことばを繰り返し、その同じことばを少しずつ違うものにしていく。
「ごごごじのかね」は午後五時になる時報(会社の終業を知らせるものだろうか)なのだが、繰り返しているうちに「午後五時」は「意味」をなくしてしまう。「なくしてしまう」と書いてしまうと、池井からは抗議がくるかもしれないが、私はその「ごごごじ」の繰り返しを読んでいると、「時間」よりも、ある「時」を思い出すことの方に意識が動いていく。ある「時」の、「時」さえも忘れて、「思い出す」という「こと」、「思い出す」という動詞の方に意識が動いていく。
思い出すとはどういうことなのか。思い出すのはなぜなのか。そのことを池井は「繰り返す」という動詞のなかで考えている。時報(鐘の音)は、あるいとはキンコーンであり、あるときは「ゆうやけこやけ」のメロディーである。それを聞くと、池井は「思い出す」のである。何かを「思った」ということ。
何を思ったか。「かえらなければならないと」と思った。帰る、ということを思った。繰り返し繰り返し、池井は「帰る」ということを思う。
それは父母のいる家、という形をまずとってみせる。そこには姉もいれば、祖父母もいる。犬のコロもいる--という具合に、具体的な「ふるさと」の形をとるのだが。
そういう具合にして、池井は一種の「自伝」のようなものを描いてみせるのだが。
それは一瞬のことで、実は「帰る」場所が違う。
「帰る」のは「生家」ではない。「実家」ではない。その「家」のもっととおくにある「家」という普遍的な「こと」に帰ろうとする。
池井は「うまれてまもない」と書いているが、それは「生まれる前」のように、私には感じられる。池井はいつでも「生まれる前」へ、つまり「いのち」そのものへ帰ろうとしている。「いのち」は生まれた瞬間から死へ向かって突き進んでいるが、死へ向かうという方向をけっして変えることはできないが、池井は、それをことばで、つまり詩のなかで変えようとしている。「いのち以前」(未生のいのち)へ帰ることを、思い出している。何かを「思い出す」ということを繰り返すと、その繰り返しの瞬間「過去」が「いま」へ甦ってくるのだけれど、池井はそれを「いま」に引き寄せるのではなく、さらに「未来」へと突き動かそうとする。「未来」には「死」が待っているのだけれど、その「死」をつきやぶって「未生のいのち」を産もうとしているように思える。
池井は「未生のいのち」という「未来」へ帰ろうとしている、と言い換えることもできる。
「未生のいのち(生まれる前のいのち)」を産むために、池井はひたすら「思い出す」。「思い出す」ということを繰り返す。
「いま/ここ」と「いつか/どこか」が融合する詩を池井はたくさん書いている。(と、思う。)その「いつか/どこか」が、この詩集の場合、「幼年期(少年期)/ふるさと」であることが多い。池井は、この詩集では「過去」をわりと具体的に書いている。「晩鐘」もそのひとつ。
おやすみのひのごごごじは
なにがあってもといれにはいる
ごごごじのかねきくためだ
どこでなるのかしらないが
たばこつかのまくゆらせながら
ゆうやけこやけきいているのだ
そういえば
もといたへやのまどべでも
ゆうやけこやけきいたものだな
どこでならすかしれないが
もといたへやのあのころを
いまいるここでおもいだしては
ごごごじのかねきいているのだ
ここまでは「いま/ここ」と「かつて/もといたへや」なのだが、これが「ふるさとのいえ」へとやがてつながっていく。そのことは、あとでまた触れることにして、きょうの「日記」では、もう一度「繰り返し」について書いておく。
池井の詩は同じことばを繰り返す。多くの現代詩がことばの重複を避け、次々にイメージを変化させていくのに対し、池井の詩は、まったく反対だ。同じことばを繰り返し、その同じことばを少しずつ違うものにしていく。
「ごごごじのかね」は午後五時になる時報(会社の終業を知らせるものだろうか)なのだが、繰り返しているうちに「午後五時」は「意味」をなくしてしまう。「なくしてしまう」と書いてしまうと、池井からは抗議がくるかもしれないが、私はその「ごごごじ」の繰り返しを読んでいると、「時間」よりも、ある「時」を思い出すことの方に意識が動いていく。ある「時」の、「時」さえも忘れて、「思い出す」という「こと」、「思い出す」という動詞の方に意識が動いていく。
思い出すとはどういうことなのか。思い出すのはなぜなのか。そのことを池井は「繰り返す」という動詞のなかで考えている。時報(鐘の音)は、あるいとはキンコーンであり、あるときは「ゆうやけこやけ」のメロディーである。それを聞くと、池井は「思い出す」のである。何かを「思った」ということ。
そういえば
もっとむかしのむかしのころも
ごごごじのかねきいたものだな
ゆうやけこやけじゃなかったが
あのかねのおときくたびに
なにやらそぞろみにしみて
かえらなければならないと
もうはやく
かえらなければならないと
ぼくにはかえるうちがあり
ちちははがおりあねがおり
そふぼもコロもまっているのに
何を思ったか。「かえらなければならないと」と思った。帰る、ということを思った。繰り返し繰り返し、池井は「帰る」ということを思う。
それは父母のいる家、という形をまずとってみせる。そこには姉もいれば、祖父母もいる。犬のコロもいる--という具合に、具体的な「ふるさと」の形をとるのだが。
そういう具合にして、池井は一種の「自伝」のようなものを描いてみせるのだが。
それは一瞬のことで、実は「帰る」場所が違う。
ぼくにはかえるうちがあり
ちちははがおりあねがおり
そふぼもコロもまっているのに
そんなうちよりとおいうち
ぼくはうまれてまもないくせに
むかしむかしにくらしたうちが
いまでもぼくをよぶようで
なにやらそぞろみにしみて
そういえば
いまはもうないあのころを
いまいるここでおもいだしては
ごごごじのかね
いつもひとりで
「帰る」のは「生家」ではない。「実家」ではない。その「家」のもっととおくにある「家」という普遍的な「こと」に帰ろうとする。
池井は「うまれてまもない」と書いているが、それは「生まれる前」のように、私には感じられる。池井はいつでも「生まれる前」へ、つまり「いのち」そのものへ帰ろうとしている。「いのち」は生まれた瞬間から死へ向かって突き進んでいるが、死へ向かうという方向をけっして変えることはできないが、池井は、それをことばで、つまり詩のなかで変えようとしている。「いのち以前」(未生のいのち)へ帰ることを、思い出している。何かを「思い出す」ということを繰り返すと、その繰り返しの瞬間「過去」が「いま」へ甦ってくるのだけれど、池井はそれを「いま」に引き寄せるのではなく、さらに「未来」へと突き動かそうとする。「未来」には「死」が待っているのだけれど、その「死」をつきやぶって「未生のいのち」を産もうとしているように思える。
池井は「未生のいのち」という「未来」へ帰ろうとしている、と言い換えることもできる。
「未生のいのち(生まれる前のいのち)」を産むために、池井はひたすら「思い出す」。「思い出す」ということを繰り返す。
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