谷川俊太郎『詩に就いて』(16)(思潮社、2015年04月30日発行)
詩ということばが何度も出てくる。しかし、それが「定義」として有効かどうか、よくわからない。
この二行から、詩は何にも汚れない、詩は天を飛翔する、という「意味」を読み取ることができる。そしてそれは、詩は美しい、絶対的、真理であるというような「意味」に読み替えることもできる。
しかし、そのまま、それを「鵜呑み」にはできない。
この二行は、一連目の
と、どこか「対」になったようなところがある。
先に引用した二行は「世間」とは無関係な「定義」。「世間」のなかでは、そういう「定義」は通用しない。「世間」では「笑顔」を装わないといけない。
で、この「笑顔(笑い)」なのだが……。
一行目に出てくる「真面目」の反対語(「対」になったことば)が「笑顔(笑い)」なのか。
真面目の、単純な「反対語」は不真面目である。不真面目なものはときに「笑い」をさそう。それで不真面目の変わりに「笑顔」と書かれているのか。不真面目=笑い、なのか。
だが不真面目だけを考えると、それに対応する感情は、「笑い」ではなくて「怒り」のときもある。不真面目な人間に対して、「笑っている場合か、真面目にやれ!」と怒りを爆発させることがあるでしょ?
どっちが正しい?
さらに、
という関係も成り立つ。真面目すぎておかしい(ばかみたい)。
「定義」、あるいは「説明(論理)」というものは、全く正反対のものにもなってしまう。とてもいい加減なものなのだ。どの「論理」を選ぶかは、そのとき、そのとき。「世間」というものの「正しさ」は、そこにある。「論理」(結論)をひとつに決めてしまわない。「論理」に縛られない。「自由」な選択の、その「自由」さで、あらゆることを乗り越える。
作品の一行目、その冒頭に「世間で」を補ってみるとよくわかる。「減少したので」とは変化をあらわす。「世間」は変化するものなのだ。その「変化」を「自由」というのだ。
詩の後半には「笑顔」の「対」のことばに「素顔」が選ばれている。
「素顔」は、次の行に出てくる「建前」ではなく、その「対」の「本音」ということになるかもしれない。「建前(世間へ出て行くときの顔)」として「笑顔」があり、その「対」になっているのが「本音(素顔、世間向けの顔ではなく、自分のほんとうの気持ち)」か。
「本音」は二連目では「不老不死を狙っている」と書かれているが、これと「対」になっている一連目のことばは? 「哄笑は困難なので苦笑しながら」の「苦笑しながら」かな? 「笑顔」を装いながら、それが偽りだと気づいているこころ。それが「本音」か。
真面目をつかって、もう一度図式化してみると……
わかったようで、わからない。論理的にきちんと分類しようとすると、うまくいかない。何かが「論理」を超えてしまう。「論理」を逸脱していく。
谷川は書いてはいないのだが、次のような図式も展開できるだろう。
この「論理」をつくってしまうと
という古い(?)論理/価値観が成り立たなくなる。
さて、いま書いてきたいくつかの図式の、どこに「詩」をあてはめ、それを「定義」にする?
わからないねえ。
いや、わかりすぎるのかなあ。きっと「具体的」な状況、つまり「世間」のなかを動くときは、図式をてきとうにやりくりするのだ。都合がいいようにするのだ。
この二行は、「定義」なんか、しない、ということを言いなおしたものかもしれない。「定義」するというのは、「逮捕して」その「罪状」を明確にし、社会的な「位置づけ」をするということだが、そんなことに「時間」(労力)をつかわない。
むだなことをしないというのが「世間」の流儀なのだ。
詩の、ほんとうの「対」(反対)は「世間」なのだ。--というのは、「詩の定義」ではなく「世間の定義」だね。それも詩から見た世間の定義。谷川は「世間の定義」を、しているのだ。
でも、それなら作品の冒頭に「世間で(世間では)」を書けばよかったのに……。そう思う? 思うでしょ? でも、これは私に言わせれば、谷川の意識のなかで「世間は」という「主語」は自明のことなので、ついつい省略してしまったのだ。作者の肉体にしみついていることは省略されてしまう。それこそが「キーワード」であるというのは、私の基本的な考え方だが、「世間」について語るということが、谷川の意識のなかでわかりきっていたので、ついつい省略されてしまったのだ。
ところで、詩で世間を定義するのでも、詩を定義するのでもなく、逆に世間から詩を定義するとどうなるか。
こんな感じ。何が起きても、あ、そう。気にしない。「自転車」に乗る感じで、教科書に出ている詩を読んで、まねして、書いてみて、「うん、詩は読んだこともあるし、書いたこともある」。それで十分。
こういう世間に対して、そうだねえ。詩は「素顔=本音」は見せられないかもしれないなあ。「素顔=本音」を見せずに、「世間」という「大河小説」を生きていくと決意するのが詩なのかな? それとも、これは「真面目(本音)」を装った、もうひとつの「苦笑」なのかなあ。
笑顔
真面目であることの値打ちが減少したので
笑顔が氾濫する羽目に陥った
詩も真面目を避けて笑顔になる
哄笑は困難なので苦笑しながら
詩は世間へ出て行く
タブレットを抱えた小学教師が挨拶する
ゴミ袋を破っている烏は知らん顔
霞んでいる遠い山系は憂い顔
詩は自転車的な速度で教科書を通過する
逃げている訳ではないのに追っ手がかかる
詩は地下にもぐるが汚れない
雲に乗るが落ちない
追っ手はいつまでたっても詩を逮捕しない
多分泳がせているのだろう
そのうち詩の笑顔が薄れてくる
素顔を見せるくらいならいっそ死にたい
というのは建前で詩は実は不老不死を狙っている
大河小説をヨットで遡る気なのだ
詩ということばが何度も出てくる。しかし、それが「定義」として有効かどうか、よくわからない。
詩は地下にもぐるが汚れない
雲に乗るが落ちない
この二行から、詩は何にも汚れない、詩は天を飛翔する、という「意味」を読み取ることができる。そしてそれは、詩は美しい、絶対的、真理であるというような「意味」に読み替えることもできる。
しかし、そのまま、それを「鵜呑み」にはできない。
この二行は、一連目の
詩も真面目を避けて笑顔になる
哄笑は困難なので苦笑しながら
詩は世間へ出て行く
と、どこか「対」になったようなところがある。
先に引用した二行は「世間」とは無関係な「定義」。「世間」のなかでは、そういう「定義」は通用しない。「世間」では「笑顔」を装わないといけない。
で、この「笑顔(笑い)」なのだが……。
一行目に出てくる「真面目」の反対語(「対」になったことば)が「笑顔(笑い)」なのか。
真面目の、単純な「反対語」は不真面目である。不真面目なものはときに「笑い」をさそう。それで不真面目の変わりに「笑顔」と書かれているのか。不真面目=笑い、なのか。
だが不真面目だけを考えると、それに対応する感情は、「笑い」ではなくて「怒り」のときもある。不真面目な人間に対して、「笑っている場合か、真面目にやれ!」と怒りを爆発させることがあるでしょ?
真面目←→不真面目=笑い
真面目←→不真面目=怒り
どっちが正しい?
さらに、
笑い=真面目←→不真面目=怒り
という関係も成り立つ。真面目すぎておかしい(ばかみたい)。
「定義」、あるいは「説明(論理)」というものは、全く正反対のものにもなってしまう。とてもいい加減なものなのだ。どの「論理」を選ぶかは、そのとき、そのとき。「世間」というものの「正しさ」は、そこにある。「論理」(結論)をひとつに決めてしまわない。「論理」に縛られない。「自由」な選択の、その「自由」さで、あらゆることを乗り越える。
作品の一行目、その冒頭に「世間で」を補ってみるとよくわかる。「減少したので」とは変化をあらわす。「世間」は変化するものなのだ。その「変化」を「自由」というのだ。
詩の後半には「笑顔」の「対」のことばに「素顔」が選ばれている。
「素顔」は、次の行に出てくる「建前」ではなく、その「対」の「本音」ということになるかもしれない。「建前(世間へ出て行くときの顔)」として「笑顔」があり、その「対」になっているのが「本音(素顔、世間向けの顔ではなく、自分のほんとうの気持ち)」か。
「本音」は二連目では「不老不死を狙っている」と書かれているが、これと「対」になっている一連目のことばは? 「哄笑は困難なので苦笑しながら」の「苦笑しながら」かな? 「笑顔」を装いながら、それが偽りだと気づいているこころ。それが「本音」か。
真面目をつかって、もう一度図式化してみると……
真面目=素顔←→笑顔
素顔=真面目=本音←→建前=笑顔(偽装された笑顔)
わかったようで、わからない。論理的にきちんと分類しようとすると、うまくいかない。何かが「論理」を超えてしまう。「論理」を逸脱していく。
谷川は書いてはいないのだが、次のような図式も展開できるだろう。
バカ=素顔=真面目=本音←→建前=笑顔(偽装された笑顔)=利口
この「論理」をつくってしまうと
真面目=利口←→バカ=不真面目
という古い(?)論理/価値観が成り立たなくなる。
さて、いま書いてきたいくつかの図式の、どこに「詩」をあてはめ、それを「定義」にする?
わからないねえ。
いや、わかりすぎるのかなあ。きっと「具体的」な状況、つまり「世間」のなかを動くときは、図式をてきとうにやりくりするのだ。都合がいいようにするのだ。
追っ手はいつまでたっても詩を逮捕しない
多分泳がせているのだろう
この二行は、「定義」なんか、しない、ということを言いなおしたものかもしれない。「定義」するというのは、「逮捕して」その「罪状」を明確にし、社会的な「位置づけ」をするということだが、そんなことに「時間」(労力)をつかわない。
むだなことをしないというのが「世間」の流儀なのだ。
詩の、ほんとうの「対」(反対)は「世間」なのだ。--というのは、「詩の定義」ではなく「世間の定義」だね。それも詩から見た世間の定義。谷川は「世間の定義」を、しているのだ。
でも、それなら作品の冒頭に「世間で(世間では)」を書けばよかったのに……。そう思う? 思うでしょ? でも、これは私に言わせれば、谷川の意識のなかで「世間は」という「主語」は自明のことなので、ついつい省略してしまったのだ。作者の肉体にしみついていることは省略されてしまう。それこそが「キーワード」であるというのは、私の基本的な考え方だが、「世間」について語るということが、谷川の意識のなかでわかりきっていたので、ついつい省略されてしまったのだ。
ところで、詩で世間を定義するのでも、詩を定義するのでもなく、逆に世間から詩を定義するとどうなるか。
タブレットを抱えた小学教師が挨拶する
ゴミ袋を破っている烏は知らん顔
霞んでいる遠い山系は憂い顔
詩は自転車的な速度で教科書を通過する
こんな感じ。何が起きても、あ、そう。気にしない。「自転車」に乗る感じで、教科書に出ている詩を読んで、まねして、書いてみて、「うん、詩は読んだこともあるし、書いたこともある」。それで十分。
こういう世間に対して、そうだねえ。詩は「素顔=本音」は見せられないかもしれないなあ。「素顔=本音」を見せずに、「世間」という「大河小説」を生きていくと決意するのが詩なのかな? それとも、これは「真面目(本音)」を装った、もうひとつの「苦笑」なのかなあ。
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