詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(64)

2015-05-14 10:23:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(64)

111 春雨

 この詩の「ぼく」と「あなた」はどういう関係にあるだろう。

ぼくが消えてしまうところが
この地上のどこかにある
死は時の小さな爆発にあつて
ふいに小鳥のようにそこに落ちてくるだろう

その場所はどんな地図にも書いてない
しかし誰かがすでにそこを通つたようにおもわれるのは
その上に灰いろの空が重く垂れさがつていて
ひとの顔のように大きな葉のある木が立つているからだ

あなたは歩みを早めて木の下を通りかかる
そしてなにかふしぎな恐れと温かな悲しみを感じる
ぼくの死があなたの過去をゆるやかに横切つているのだろう

 「あなた」は「ぼく」の友人か。恋人か。「あなた」は「ぼく」の死を思い、恐れと温かな悲しみを感じる。そうあってほしいと願っているのか。そうかもしれないが、そういうことを他人に願うのは少し自己陶酔が強いかもしれない。
 「ぼく」と「あなた」を入れ換えてみるとどうだろう。
 「あなた」はなぜ突然、小鳥が空から落ちるように死んでしまったのか。木の下を通りながら、「あなた」を思い出す。人は誰もが死んで行く。そのことをも思う。この木の下で、誰かが「ぼく」と同じように誰か(自分にとって「あなた」と言える人)を思った。思い出した。
 なぜ、木の下なのか。それは、わからない。小鳥の死、小鳥が空から落ちて死ぬと書いたから、その連想かもしれない。空と大地のあいだ。それを結ぶ木。そこにとまって休む小鳥。人生を、そんなふうに思い描いたのかもしれない。
 どんな思いだったにしろ、その「木」の大きさが「ふしぎな恐れ」(生きつづけていることへの畏怖)と「温かさ」(木の温み)を感じさせる。そして木が温かいからこそ「温かな悲しみ」ということばも動いているように思う。
 「あなた」が死んだのは悲しい。けれど「あなた」を思い出すと温かな気持ちにもなる。「あなた」は大きな木の中を走る樹液のように「ぼく」のなかに存在している。
 その「あなた」と「ぼく」の一体感(さらに、それに木も加わった一体感、木によってうながされた一体感といった方がいいのかも)の上に春の雨が降る。

春雨がしめやかに降り出した

 たしかに「しめやか」でなくてはならない。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(15)

2015-05-14 09:54:50 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(15)(思潮社、2015年04月30日発行)


死んで行く友に代わって言う

君は見たはずだ
ぼくの右の目尻から
涙が細く一筋流れているのを

悲しみではない
悔いでも未練でもない
自分を哀れんでもいないし
自分に満足もしていない

ただぼくは深く感動していたのだ
自分の一生がそのとき
詩と化していることに

 「死んで行く友に代わって言う」のだから「君」が「谷川」で「ぼく」が「死んで行く友」になる。友はもうことばを話せない。だから代わりに言うのだが、その「言っている意味(内容)」がとても複雑だ。
 最終行の「詩」とはどういうものを指して言っているのか。
 「感動していた」だから、「美しい」? 肯定的な内容? でも「満足もしていない」と二連目に書いてある。詩ということばで私たちが一般的に想像する「美しい」「正しい」「真実に満ちたもの」など肯定的なものなら、「満足していない」がどうも落ち着かない。「不満」とも書いてないのだから、なお、どうとらえていいのかわからない。
 これまで見てきた「詩の定義」を思い出すと、詩は「未生のことば」。あるいは「無意味」。
 「未生のことば」は、まだ肯定的な要素があるかな? これから「生まれる」のだから、そこには何か「生まれるだけの価値」がある。でも、「死んで行く」と「生まれる」は、どうも合致しない。「矛盾」が詩なのだけれど、死んで行くときに新しく何かが生まれるのに感動するというのだったら、それは「満足」につながる感じがするなあ。
 そうすると、ここに書かれている「詩」とは「無意味」? 無意味となっていくこと、無意味と化すことに感動していた。
 そう読むと、びっくりしてしまう。
 死んで行く本人がそういうなら、まだわかるけれど、それを見つめる谷川が、死んで行く友人に代わって、「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言い切ってしまうところに、「何か恐ろしいような気がする」。これは、この作品の前に置かれている「涜神」に出てきたことばだけれど……。
 「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言ってしまうと、何かそれは、人が生きるということを完全に「否定」している感じがする。この「否定」は「涜神」の表現を借りて言えば「神を信用していない」というときの「否定」に似ている。そこに「神」が「ある(いる)」を前提として、「神を信用していない」というように、そこに「人間の人生がある」を前提として、なおかつそれが「無意味となってゆく」。「人生の意味信じない」、「自分の信じてきた人生意味よりももっと違う意味がある、それに比べたら自分の人生は無意味だとわかった」、つまり「人生」とは違った次元に到達したと感動しているのか。無意味になっても、なおその無意味を支える巨大な何かがあると発見して感動しているのか。

 「あなたへ」の最終連にあったことばも思い出す。

あなたは生きていける
俄雨とともに入道雲ともに
その他大勢の誰かただ一人とともに
死が詩とともに待ってくれている
その思いがけない日まで

 「死」と「詩」がともに(いっしょに)待っている。
 「死」はたいていの場合、人間にとっては「否定すべき」ものである。その「否定」と、「詩」という肯定的なもの(美しい、真実、真理)がいっしょとはどういうことだろう。死は詩(肯定的な価値)を無意味にするのか、死の否定的な要素を詩が肯定的なものに変えるのか。「追悼文」などというのは、後者の部類だなあ。そのひとの生涯を肯定的にとらえ、その人を惜しむ。でも、どうも谷川の書いていることは、一般的な意味とは逆だなあと感じる。
 詩は死を無意味にする。巨大な無意味で死をつつみこんでしまう。死さえも無意味にするのが詩というものか。

 この詩集は特に章を立てて作品を区別しているわけではないが、目次を見ると作品群のあいだに一行空きがある。そして三つにわかれている。「隙間」から「あなたへ」までが最初の部分。「十七歳某君の日記より」から「木と詩」までが次の部分。「小景」から「おやおや」までが最後の部分。
 最初の部分の作品群は詩をいろいろな形で「定義」しようとしているように思える。真ん中の部分は(まだ三篇読んだだけだが)、「定義」しようとはしていない。すでに「定義」はすんでしまった。いや、詩は「定義」などできることではない。詩には「定義」からはみだすものもある。それをただ「詩」ということばでほうり出す。読者がかってに考えてくれればいい、そう言っているようにも見える。
 この作品の、最後の「詩」を自分のことばでどう定義しなおし、谷川のことばと向き合うか。そのことが問われている。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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