詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(22)

2015-05-21 08:54:40 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(22)(思潮社、2015年04月30日発行)


まぐわい

「私は何一つ言っていない
何も言いたいとは思わない
私はただ既知の言葉未知の言葉を
混ぜ合わせるだけだ
過去から途切れずに続いている言葉
まだ誰も気づいていない未来にひそむ言葉が
冥界のようなどこかで待っている
そんな言葉をまぐわいさせて生まれるのは
私が書いたとは思えないもの」

<でもそれが詩ですよ>と
誰が言うのか

 「私を置き去りにする言葉」には「つるむ」ということばがあった。ここでは「まぐわい」。(「まぐわる/まぐわう(?)」という「動詞」があるかと思ったが、広辞苑には載っていない。)谷川は、つかいわけているのだろうか。そのつかいわけに、どんな違いがあるのだろうか。
 「つるむ」の方は「言葉」は「つるみ始めている」という具合につかわれて、自分から「つるむ」という行為をしている。「言葉」という「主語」が自分から動いている。「まぐわい」は「言葉をまぐわいさせて」と「使役」の形でつかわれている。このとき「主語」は「私」。「私を置き去りにする言葉」では「言葉」が「生き物」であり、自分で動いたのに対し、「まぐわい」では自分で動かない分だけ「生き物」の「度合い」が少なくなっている。「私を置き去りにする言葉」では「言葉」の方から「詩」に近づいていったが、「まぐわい」では「私」の方から「言葉」を「詩」に近づさせている。
 ただし、「私は何一つ言っていない/何も言いたいとは思わない」という二行は、「言葉」がかってに動いているのであって、「私」はその動いた「結果」に対して責任をもっていない。「意味」を問われても困る、と言っているように聞こえる。「詩の妖精1」の書き出しの二行を言いなおしたもののように聞こえる。
 その二行については保留しておいて、「私」が「言葉」にどう働きかけているか。谷川は「言葉」をどのように見ているか、というころから、この詩を読んでみる。

 「言葉」を「私(谷川)」は二つにわけている。「既知の言葉」と「未知の言葉」。それはさらに言いなおされている。「過去から途切れずに続いている言葉」と「未来にひそむ言葉/冥界のようなどこかで待っている言葉」。それは「既知の言葉=定型の言葉」と「未知の言葉=未生の言葉」と言いなおすことができるかもしれない。

既知の言葉=過去から途切れずに続いている言葉=定型の言葉
未知の言葉=未来にひそむ言葉/どこかで待っている言葉=未生の言葉

 こういう「対」ができる。それを「混ぜ合わせる」と書いて、次に「まぐわいさせる」と言いなおしている。「混ぜ合わせる」とき、それは「動かないもの/名詞」でも可能だが、「まぐわいさせる」には「動かないもの/いのちのないもの」では不可能である。
 「混ぜ合わせる」から「まぐわいさせる」と「私」の「動詞」を変えるとき、谷川は「言葉」の「性質」を微妙に変化させている。「言葉はもの(名詞)」ではなく「言葉は動くもの/生きているもの(動詞)」であると、定義しなおしている。「私を置き去りにする言葉」にでてきた「言葉」の方へ近づけていっている。
 で、「言葉」が「生き物/いのちをもっているもの」であるからこそ、それが「まぐわった/交接した/セックスした」(私は、動詞としてつかいたい)とき、そこから「新しい言葉」が生まれる。
 ただし、この「生まれる」は「新語」が生まれるというのとは違うだろう。「言葉」がいままでとは違う動きをするものとして生まれる、新しい動き方をするということだろう。「既知の言葉=過去から途切れずに続いている言葉=定型の言葉」が「未知の言葉=未来にひそむ言葉/どこかで待っている言葉=未生の言葉」の影響を受けて、いままでとは違った動きをする。あるいは「未知の言葉=未来にひそむ言葉/どこかで待っている言葉=未生の言葉」が「既知の言葉=過去から途切れずに続いている言葉=定型の言葉」に誘い出されて、ひそんでいたところから出てくるということだろう。ともに「新しく動く始める」「いままでとは違った動きをする/いままでとは違った意味(内容)を語りはじめる」ということだろう。
 これは「言葉」を「表現」と言いなおしてみると、さらにわかりやすくなる。

既知の表現=過去から途切れずに続いている表現=定型の表現
未知の表現=未来にひそむ表現/どこかで待っている表現=未生の表現

 「表現」とは「表に現われてくるもの」。
 「新しく生まれる」のは「名詞(新語)」ではなく、「言葉そのもの」でもなく、「表現」なのだ。「表現」とは「言葉」と「もの」の関係だ。「あるもの(存在)」をどう見つめるか、「見つめ方」をつたえるのが「表現」だ。「存在」と人間の「関係の変化/見つめ方の変化/見つめられ方の変化」が、そこに「生まれてくる」のである。「ものの見方」が「かわる」。この変化を「生まれる」ということばで谷川は書いている。

 そういう「言葉の運動(新しい関係をつくりだすこと)/表現」を、谷川は「私が書いたとは思えない」という。谷川にとって、それは「思いがけない」(「あなたへ」の最終行)もの、意識して導いた「結論」ではないという。
 意識してつくりだしたものではないからこそ「私は何一つ言っていない」という。冒頭の一行は、「私が書いたものとは思えない」ということばで言いなおされている。

 ここでは谷川は、「私を置き去りにする言葉」と同様に、ことばの力(ことばの生きる力/ことばの肉体/ことばの本能)を肯定しているのかもしれない。「ことば」には新しい表現(ものの見方)を生み出してゆく本能/欲望がある。谷川は、そういうことばの力、生まれて生きていく力を信じ、いわば「ことばの産婆」になろうとしている。詩は、谷川にとって「ことばの産婆術」なのだ。
 「既知の言葉」と「未知の言葉」をセックスさせて「生まれてきた言葉(表現)」。それは、誰のものか。谷川(詩のなかの「私」)は、所有権(?)を放棄している。「私が書いたものとは思えない」ときっぱりと言っている。
 谷川のつかっていることばで言いなおすと、谷川は「産んだ」のではない。それは「生まれた」のである。赤ん坊のいのちが、母親や父親のものではなく赤ん坊自身のものであるように、「生まれた言葉」は「生まれた言葉のもの」である。そうやって、「言葉」自身が動き、生きていくとき、それが詩なのだ。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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