詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(19)

2015-05-18 09:10:05 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(19)(思潮社、2015年04月30日発行)


詩の妖精1

この詩で何が言いたいんですかと問われたから
何も言いたくないから詩を書くんだと答えてやった
悪戯坊主のような顔で彼は笑う
空中でホバリングしている詩の妖精は
またどこかへ詩人をからかいに行くらしい

詩の妖精には名前がない
詩の妖精は意地悪だ

突拍子もない言葉がどっかから湧いて
誰も見ていないのに彼女は顔を赤らめる
手帖に書き留めてもいいものかしら
本当は今年銀婚式のはずだった
独りになって出来心で手帖を買った

詩の妖精には言葉がない
詩の妖精は光速だ

何故まだ詩が浮かんでくるんだ
木の香も新しい棺の中で
死んだばかりの老詩人が訝っている
もう喋れないし書けないから
詩は体を離れ星々に紛れてゆくだけだ

 この詩はとても変である。変と感じるのは、「詩の妖精」というタイトルが変に感じられるからである。
 「詩の妖精」が詩を運んできてくれる、というのは、あまりにも「詩的」すぎて、どうも「詩の定義」とはあわないなあ、と感じる。こういう言い方は差別的かもしれないが、「詩の妖精」というのは「女子中学生」が言いそうなことばである。「現代詩」を書いている詩人がつかうことばではない。だいたい谷川は「詩の妖精」なんて、ほんとうに「いる」と信じている? 信じていないけれど、「世間」でつかわれているから、つかってみた? 「詩の妖精」ということばをつかって何がかけるか、ことばがどう動いていくか、試してみた?
 どうも、わからない。
 視点を換えて見る。
 この詩には、「詩は詩の妖精が運んできてくれる」という定義以外に、「定義」は書かれているだろうか。「何も言いたくないから詩を書くんだ」は「定義」かもしれない。「何」を「意味」と読み替えてみる。「意味」を言いたくない。「意味」を否定したい。「無意味=詩」という「定義」を何度か作品の中で読み取ってきた。「言いたくない」は「無意味」よりも積極的な感じがする。でも、これでは、いままでの「定義」の繰り返しから、あまり変わっていない。
 なぜ、「詩の妖精」を登場させたのかな?

 もう一度、読み方を換えてみる。
 一行目。「この詩で何が言いたいんですかと問われたから」は「誰が」「誰から」問われたんだろう。私は「谷川が」、「学校の先生(か、だれか、読者)」から問われたと思って読んだが、違うのだ。「谷川の」答えに対して、三行目「悪戯坊主のような顔で彼は笑う」とある。「彼」から問われたのだ。
 「彼」って、誰? 「詩の妖精」だ。この作品も「詩の妖精」が詩人(谷川)に問いかけることから始まっている。
 で、その「問いかけ」を谷川は「からかい」と書いている。「詩の妖精」が詩人に詩を運んでくるのは、「からかい/悪戯」なのだ。
 この「からかい/悪戯」は二連目で「意地悪」と言いなおされている。詩をひらめかけさせておいて、「この詩で何が言いたいんですか」なんて、ほんとうに意地悪だ。「妖精」に誘われて書いたのだから、「書かなければならないこと」は「妖精」が知っているはず。それなのに「何が言いたい」と問いかけてくるのは「試験」ではないか。(ついでに書いておくと、「名前がない」は「彼」と「対」になっている。だれかわからない、自分ではない「存在」が「彼」。)
 大事なことは、ひとは何度も繰り返す。詩人も同じ。谷川も同じ。
 「詩の妖精」が「悪戯/からかい/意地悪」であることは、三連目で繰り返される。今度は「彼女」のところへやってきて「突拍子もない言葉」をささやいた。それに「彼女」は顔を赤らめている。女の人を恥ずかしがらせるのだから、スケベなことばなのかもしれない。彼女は「銀婚式」を迎える年齢。でも、いまは「独りになって」いる。男と別れて、セックスから離れているのに、セックスを思い出させることばだったのだろう。
 それは、しかし「詩の妖精」がささやいたのではなく、単に「彼女」が思いついただけのこと。「言葉がどっかから湧いて」きたと書いているが、「彼女」の「肉体」から湧いてきたのであって、「詩の妖精」がささやいたのではないかもしれない。四連目の「詩の妖精には言葉がない」は、「妖精」がささやいたのではないよ、という「意味」にもなる。--そう思わせるのも「悪戯/からかい/意地悪」である。こういう「思い」はぱっとあらわれ、ぱっと消える。それが「光速」ということばが言いたいことだろう。
 「悪戯/からかい/意地悪」は五連目でも繰り返されている。「死んだばかりの老詩人」にも「詩の妖精」はささやきかける。詩を思い浮かばせさせる。「もう喋れないし書けない」。どうすることもできないのに、なぜ、そんなことをするのか、わからない。
 最後の一行の「詩」は、この「二部の作品群」(私はかってに「三部」にわけて読んでいるのだが……)の「詩」の特徴をあらわしている。「定義」抜きの、「詩」という存在。どんな「詩」なのか、その「内容/意味」が一切書かれていない。谷川が「詩」ということばで信じているもの、読者が「詩」ということばを思いつくときの「定義」を持たない、ただの「詩」。「未生の定義」のまま納得(?)している「詩」だ。
 その「詩」が「体を離れ星々に紛れてゆく」というのは、「いない」という作品の「もののあわれから遠く離れて/空の椅子に座っている」を思い出させる。「体を離れて」の「離れる」という「動詞」を思い出させる。「ここ(体/肉体)」から離れ、「ここ」には「ない」けれど「空/星々(のあるところ)」に「ある」。「光速」で、そこまで飛んで行ってしまったのだ。
 そう読むと「詩の妖精」とは「詩」そのもののことであるようにも読める。「詩」を「定義」して「詩の妖精」と言っていることになる。「定義」していないのが「二部」の「詩」の特徴であると書いたのとは矛盾するけれど……。

 この作品には、また谷川の作品の特徴がくっきりとあらわれている。
 五連から構成されている。一連目の主人公は「この詩で何が言いたいんですか」と問われた「詩人(谷川を連想してしまう)」。二連目は「彼女」。銀婚式だから五十代くらいか。三連目は「死んでしまった老詩人」。連が進むにしたがって「主語(主人公)」が変わっていく。
 けれども、その「主人公」の「述語」が変わらない。(テーマがが変わらない。)「主人公」たちは、「詩の妖精」から働きかけられる。そして、ことばを「思いつく」。つまり「詩」を思いつく。そういう「運動(動詞/動き)」のなかで、個人が個人を超えて、普遍的な「人間」になる。「人間」というのは、「詩の妖精」に働きかけられて、ふと「ことば」を思いつく生き物なのだ。「ことば」と「人間」の、何か変わらない「関係」が、「述語(動詞)」として、作品全体のなかを動く。
 こういう動きを書くことで、谷川は「詩の定義」を書き直している。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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