詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(67)

2015-05-22 12:25:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(67)

114 方向

眠くなると
どの部分かが鳥のように冷えてくる
それは少しずつ人間の制約からはなれて
大空へ帰るのだろう

 二行目の「鳥のように冷えてくる」という比喩がわからない。「鳥」は私には「温かい」ものという「記憶」しかない。鶏、鳩、雀……手につかむとみな温かい。雛の場合、それは体温の温かさ以上に、心情的に温かいものを含む。「冷えてくる」は、とても不自然に感じられる。
 しかし、「鳥のように」という比喩は四行目の「大空へ帰るのだろう」と結びつくと、とても自然だ。
 不自然と、自然のあいだで、よくわからないまま、わからないのだけれど何か人間の生きていることの不思議さのようなものを感じる。わからないから、そこに「魅力」を感じ、そのことばに誘い込まれる、と言えばいいのだろうか。

 さて、この詩は何を書いてあるのだろうか。

 「鳥」と「大空」のあいだに挟まった「それは少しずつ人間の制約からはなれて」をどう読めば、不自然が自然にかわるのだろう。
 「人間の制約」ということばがむずかしい。一連目だけでは、わからない。
 ひとは大事なことは何度でも言いなおす。きっと、どこかに言い直しがあるはずと思いながら二連目を読む。

自分をとらえているものからはなれて
はじめて人間は大きな世界を知ることができる
死がふかくかくしもつている遠い世界に触れるのだ

 「人間の制約」は「自分をとらえているもの」と言いなおされている。「自分をとらえているもの」とは「肉体」だろうか。それとも何かに対する「固執」だろうか。「死」ということばが重い。
 「眠くなると」を「意識がなくなると」と考えるならば、何か対する「固執」が消えて、自分を超えた「大きな世界」を知ることができる、といっているように感じられる。「意識なくなる」をさらに「死ぬ」と考えて読むべきなのか。死ぬことによって、人間は大きな世界に触れると言っているのか。

 「比喩」は、たぶん、論理だけでは説明できないものを含んでいる。その説明できないものを、感じたまま、感じた瞬間へ帰る(あるいはその瞬間に立ち戻る)ようにして、ことばを読まないといけないのかもしれない。

眠くなると
どの部分かが鳥のように冷えてくる
それは少しずつ人間の制約からはなれて
大空へ帰るのだろう

 三行目の「それは」というのは、先行する何かを指して「それ」と言っている。文法上は「どの部分か」を指していると思う。「鳥のように」という比喩をいったん省略して読むと、「どの部分かが冷えてくる。そして、その冷えた「どの部分か」が少しずつ人間の制約からはなれて」ゆく。
 けれど、私は、そんな具合に「論理的」には読んでいない。
 書き出しの四行は、

眠くなると
自分のなかのどの部分かが冷えてくる
それは少しずつ人私を間の制約から解放してくれる
その結果、私は人間の制約をはなれて(人間ではなくなって)
鳥のように大空へ帰っていく

 嵯峨の書いている「論理」を無視して、目に飛び込んできたことばを自分の納得できる「論理」で並べ替えてしまう。こんなふうに読むと、空を飛ぶ鳥の気持ちよさが広がってきて、「眠り」が心地よくなる。
 しかし、「私の論理」で読むと、「嵯峨の論理」が衝突して、「変だぞ」と何かが声を上げる。
 どう見ても、嵯峨は私の読んだようには書いていない
 この不一致の瞬間にこそ、私は嵯峨と出会っているのだと思うが、どうしていいのかわからない。
 「私の論理(読み方)」は、どうなおしていけばいいのだろう。
 「不一致」を抱えたまま、私は「私の論理」に固執して先を読む。

自分をとらえているものからはなれて
はじめて人間は大きな世界を知ることができる
死がふかくかくしもつている遠い世界に触れるのだ

 「死」ということばが異様に見える。「眠る」は「永眠」、つまり「死」のことを書いていたのだろうか。
 そうならば「人間の制約」とは「いのち」のことである。「肉体」のことである。死ぬと「肉体」は「冷える」。「鳥のように冷えてくる」と嵯峨が書くのは、嵯峨には死んでゆく鳥を掌で抱いていたことがあるからかもしれない。鳥は死んで冷えていきながら、鳥の制約(羽で飛ばなければならないという制約)をはなれて、翼をつかわずに大空へ帰っていく--それが、鳥の死。
 一連目の「人間の制約」は、実は「鳥の制約」だったのだ。
 嵯峨は、永眠しようとする人を「鳥」という「比喩」のなかで動かしていたのだ。
 ひとは死ぬと、人間は飛べないという人間の制約をはなれて、そういう制約から自由になって、つまり「鳥」になって、大空へ帰っていく。
 そう読むことができる。
 二連目の「自分をとらえているもの」、つまり「人間の制約」のひとつに「飛べない」ということがある。空高くから世界を見ることができない、ということがある。しかし、想像力で「鳥」になって考えると、地上を歩いているときとは違った「大きな世界」を見ることができる。「自分」を離れないことには「大きな世界」は見えないということかもしれない。

 その想像の「鳥」のように、「死」を想像してみる。
 そうすると、生きていることに固執していたときには見えないものが見えてくる。「死」が隠し持っている「遠い世界」が見えてくる。それは「遠い」と同時に「大きな世界」でもある。
 この詩には、その「大きさ」「遠さ」は具体的には書かれていないが、「現実」よりも自由な世界として、「大きさ」「遠さ」が思い描かれている。

 これは嵯峨が嵯峨自身の「死」を見つめながら書いた詩ではない。死んでゆく友に向かって書いた詩である。「きみは鳥のように大空へ帰るのだ、大きな世界へ帰るのだ」と安心させるための作品だ。それは、同時に、嵯峨の祈りでもある。

椅子に腰かけていて
時計のかすれたように鳴るのを聞く
彼はふいに立ちあがる
そして彼はみずからに案内されて消えていく
音の中に
彼の中に
死の中に



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『詩に就いて』(23)

2015-05-22 09:26:10 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(23)(思潮社、2015年04月30日発行)


脱ぐ

服を脱いで
あなたは裸になる
裸を脱いで
あなたはあなたになる
野良猫があなたを見つめる

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは言葉の上だけのこと
栃の木の葉が風に散っている

言葉を脱いでもあなたはいる
そんなあなたを呼ぶのは詩
渚で蛤が息をしている

脱ぎ捨てられた言葉をかき集めて
詩が思いがけないあなたになる

あなたはセーターを脱ぐ

 この作品でも「言葉」は「表現」と同じ意味をもっている。二連目の「言葉」を「表現」と置き換えてみると、そのことがよくわかる。

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは「表現」の上だけのこと

 「あなたを脱ぐ」ということがすでに「表現」である。「ことば」だけで可能なことであり、現実に「あなた」が「あなた」を「脱ぐ」というようなことは、そのままでは実行できない。その「実行」というのは、一連目の「服を脱いで/あなたは裸になる」との比較でいうのだが……。
 
 最初から読んでみる。「服を脱いで/あなたは裸になる」というのは「表現」であると同時に、現実にそういうことができる「事実」でもある。「裸」というのは「肉体」であり、その「肉体」は表面上は何も「隠していない」。「裸」ということばは「肉体」をあらわすと同時に、「裸=隠さない」という「表現/ものの見方」としても「定型」的につかわれる。
 この「定型」を利用して、「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とことばがつづけられるとき、私たちは「肉体」が隠しているものを脱いで、その「奥」に存在するものを「見せる」という動きを感じ取る。「裸」を脱いだあとの「あなた」は「肉体」ではなく、「肉体」の奥の「精神/感情」ということになる。「裸の肉体の裸を脱いで/あなたは裸の精神としてのあなたになる」。「裸の下」に隠れている、目に見えない「こころ/魂」としての「あなた」を見せる。むき出しの「あなた」に「なる」。
 ここからさらに「あなた(精神/感情/こころ/魂)」を脱ぎさることはできるか。「精神/感情をあらわす「定型の言葉」を脱ぎ捨てる、「無心」になる。「無心」とは、ある意味では「心」が「ない」と同時に「あなた」がないということでもある。「心=ひと」という「論理」にもとづけば。
 でも、こうしたことは、あくまでも「表現」の上だけのことである。「表現」として、そう言いうる。そう考えることができる。「表現」は「ものの見方」であり「考え方」でもある。「考え」というものは「ある」ものだけではなく、「ない」についても考えることができるので、なんだか、ややこしい。「矛盾」のようなものが、どこかで動き、人間をつまずかせる。
 それで、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」ということになるのだが、これは「表現(ものの見方)」を捨て去って「無心」になったとしても「無心のあなた」がいるということか。そして、その「無心のあなた」を「詩が呼ぶ」と「論理」を進めていくと、なんだかかっこいいのだが、かっこよすぎてうさんくさい。
 また「言葉(表現=精神、感情の存在形式)を脱いでも、今度は逆に肉体(もの)そのもののあなたはいる(肉体がそこにある)」。精神/感情をもたない無意味な存在(人間の価値は精神や感情の価値として語られることが多い)、いわゆる「無意味な肉体」の、その「無意味」が詩を呼ぶ。詩は無意味。肉体の無意味と詩の無意味が共鳴して、世界が始まる。--あ、これもかっこよすぎる。うさんくさい。

 少し引き返す。「言葉を脱いでもあなたはいる」。三連目で「あなた」は「いる」という「述語」で描写されているが、それまでは「あなたは裸になる」「あなたはあなたになる」「あなたはいなくなる」と「なる」という「動詞」で描写されていた。
 「なる」と「いる」は違う。「いる」は「ある」とも言いなおすことができる。けれど「なる」をそのまま「ある」とは言いなおせない。
 「なる」というのは「変化」をあらわす。「変化」するというのは、ある意味では以前存在したもの(ある)がその存在ではなくなることであり、「以前の存在の不在(ない)」が「なる」を「ある」に変える。「裸になる」は「裸の状態として、あなたはある」という意味だ。さらに「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とは「裸」という「比喩/表現」さえも脱ぎ捨てて、さらに肉体の奥に存在する、目に見えない「精神/感情」としての存在になり、「こころの状態として、あなたはある」という意味だ。
 二連目の「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」と一連目の「裸を脱いで/あなたはあなたになる」は「対」になっている。「対」になりながら、「なる(なって、そこにある)」を「いない」という「矛盾」で浮かび上がらせている。しかし、こういう「矛盾」はあくまで表現(ことば)の上で起きていることであって、現実には、三連目の「言葉(表現)を脱いでも(肉体としての=無心としての)あなたはいる(ある)」ということになる。
 「肉体」と「無心」がここでイコールになってしまうのなら、なぜ一連目で「裸を脱いで」というようなことが書かれるのか。「裸を脱いで」というのは、あくまで「比喩(思考の定型)」であって、それは「ほんとうの裸」ではないからだ。「肉体」も「無心」も「表現(言葉)」だから、どんなふうにでも「論理」を捏造できてしまうのだ。「論理」というのは「ことばの定義」を少しずつずらして(少しずつ正確にして、というひともいるだろう)、どこまでもごまかせるものである。
 「かっこよすぎてうさんくさい」と書いたのは、そういうことを指している。

 さて、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」とどう読めばいいのだろう。「裸を脱いで/あなたはあなたになる」「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」という行と「対」になっている、とだけわかればいいのだろう。その「対」について何か語ろうとすれば、いろいろな言い方ができるが、それが「論理」を目指して動くとき、それはどう動いてもうさんくさくなる。散文はうさんくさい。

 視点を換えて、突然出てきた「詩」について考えてみる。
 「言葉を脱いで/無心になって/肉体だけになった」あなたを呼ぶのは「詩」。その「詩」は「渚で蛤が呼吸している」という一行となって、三連目では書かれている。
 「あなた」とはまったく無関係の、そして私がこれまで書いてきたこととはまったく無関係の「描写」。
 この一行は「野良猫があなたを見つめる」(一連目)、「栃のこの葉が風に散っている」(二連目)と「対」になっている。「脱ぐ」という「あなた」の行為とはまったく無関係という共通性をもっている。こういう、それまでの「論理」(ことばの動かし方)を切断し、「無関係なことばの動かし方」を接続することが詩。それぞれの連の最終の一行そのものが詩であるというよりも、そういう行でそれまでの世界を破壊し、あらたなものを接続させるということが詩なのだ。
 切断と接続という変化そのものが詩。
 こう書いてしまうと、これも、うさんくさい。

 四連目は、それまでの連で書いてきたことを、反対側から見つめたものである。反対側からことばを動かしている、つまり「論理」を展開していることになる。
 「脱ぎ捨てられた言葉」というのは、この作品の中では、具体的にいうと各連の最終行のことである。「あなた」と「ことば」のことを考えてことばを動かしていた。そのとき「野良猫」だの「栃」だの「蛤」というのは「論理」に関係してこない。「脱ぐ」「脱がない」という意識からさえも捨てられてしまっていたことばである。
 それをかき集めてみると、そこに「あなた」が現われてくる。あ、「あなた」は野良猫に気がつくひとなのだ。栃の木の葉の動きを見るひとなのだ。蛤の息にこころを動かすひとなのだ。そういうことがわかる。それは「思いがけない」ことかもしれない。なんといっても「あなた」が無意識にこころを動かし、肉体を動かしてつかんでいる「世界」だから。そういうものが、「あなた」に「なる」。「あなた」は「裸を脱ぐ」「あなたはいない」「あなたはいる」というようなことを考えていたが、そういう考えを離れ、突然、思いがけない「あなた」と「なる」。
 そのあと、一行あいて「あなたはセーターを脱ぐ」ということば。これは書き出しの「服を脱いで」と似ているけれど、違う。「服」が「セーター」と少し具体的になっている。詩は、こんなふうに人間を少し具体的にととのえてくれるものなのだ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする