詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(69)

2015-05-25 10:13:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(69)

116 ぼくと樹木と

けれども休息する前に一枚の木の葉が落ちるのに眼をとめよう
この掌のようにひろい葉は
夜明けまで白い星々をささげていた

 「けれども」は詩人がこの行を書く以前から何かを考えつづけていたことを示している。意識は持続している。その意識の持続のなかで、「夜明けまで白い星々をささげていた」という不思議なことばが動く。「ささげる」? 「捧げる」という漢字を思いつくが、木の葉が星々を捧げるとは、どういうことだろう。
 「けれども」の前の部分、どんなふうに嵯峨の意識が動いていたのかわからないと、「意味」がはっきりしない。
 けれども、

そのあいだにも夜は少しずつ傾斜した
想像もできない大きなものがたえず追い越すので
木から葉が落ちるのだろう

 こう、ことばがつづくと、「想像もできない大きなもの」の神秘が私をつつんでくる。「想像もできない大きなもの」のことを嵯峨は考えていた。そして、その「大きなもの」に対して、木は(木の葉は)星をささげていた、と直観する。
 「想像もできない大きなもの」だから「けれども」という形でしか書くことができない。明確に書けない。ただ、「持続」する精神(思考/思想)がそこにあるということしか指し示せない。
 何か大きなものに、星を捧げる。そのとき、捧げているのは、ほんとう星ではない。自分のいのちそのものを捧げている。自分のいのちを「大きなもの」に向けて統一しようとしている。そうやって、木の葉は一生を終える。落ちていく。
 これはまた、死んでいった友の姿を描いたものだろう。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(26)

2015-05-25 09:27:35 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(26)(思潮社、2015年04月30日発行)


二人

世界を詩でしか考えない人は苦手
なんだか楽しそうに女は言う
手には濃いめのハイボール
背後の本棚には詩集が目白押し

株価だけで考える人生も悪くないかも
詩を書いている男が言いかけて
こんなやりとりは三文小説みたいだ
と心の中で思っている

この二人は若いころ夫婦だった
女にとっては詩はもう思い出でしかない
男にとってそれは余生そのもの
猫が迷わずに女の膝に乗る

詩集は捨てないの?女が訊く
捨てるくらいなら焚書にすると男
似ても焼いても食えないものが残る
それが詩だと言いたいのね

 詩を大事にする男と、詩に関心がなくなった女。
 三連目で、私はつまずいた。
 「この二人は若いころ夫婦だった/女にとっては詩はもう思い出でしかない」は「若いころ(過去)」と「思い出(過去)」が重なるので、「詩は過去の思い出」と「意味(論理)」が自然に動くのだが、そのあと

男にとってそれは余生そのもの

 この行の「それ」につまずいた。「それ」はよく読めば「詩」を指していることがわかるのだが、「若いころ(過去)」ということばが邪魔をして「余生」と結びつかない。「若いころ」が「余生」というのは非論理的である。
 これはもちろん私の読み方が間違っていて、谷川は、ここでは「それ(詩)」を「若いころ」とは結びつけていない。過去とは切り離して「詩」というものを単独で考えている。「いま」ここにある「詩」。「いま=詩」と考えて、その「いま」を「余生」と呼んでいる。あるいは「未来=詩」という考えも成り立つけれど、いずれにしろ「過去(若いころ)」とは関係なのない「詩」なのである。
 これは何でもないこと、「文法」にしたがって読めば自然にわかることなのかもしれないが、私はびっくりしてしまった。
 谷川は詩と過去を結びつけて考えたことがないのだ、きっと。谷川にとって「過去の詩」というものはないのだ。
 四連目で女が「詩集は捨てないの?」と訊く。これは、「過去(古い詩集)は捨てないの?」という意味でもある。一連目に出てくる本棚の詩集も、きっと「古い詩集(過去の詩集)」である。きのう出版された詩集であっても、それはすでに「過去」に属する詩集である。
 もし詩が(詩集がではない)「過去」のものならば、それは捨てても問題はないだろう。けれど、詩が「生きている」ものなら、「いま」も生きているものなら、それは捨てることはできない。「焚書」とは「火葬」である。そこまでしないと、詩は生き続ける。捨てても、生き続ける。
 この詩への信頼に、私は、たじろいでしまった。

 「余生」というのは「意味」としては、「残りの人生。老後の生涯」(広辞苑)になるが、谷川は、そういう「意味」ではつかっていない。あくまで「いま」という感じでつかっているように思える。
 「若いころ(過去)」ということばを考えると、「余生」は「いま」よりも「これからの時間(未来)」と考える方が「論理的」だし、「辞書の意味」にも合致するけれど、「詩=未来」ならば、それはこれから生まれてくるのだから「過去」は捨ててもかまわないだろう。「いま」だから、「生きているこの世」だからこそ、それが捨てられないのだ。
 もちろん、詩には過去はない。どんな詩も未来のものであるという「論理」も可能なのだけれど、「未来」と考えると「余生」の「余」の「意味」となじまない。これは私の「感覚の意見」なので、かなり「強引」な「論理」になるが、「余」は「余分/余剰」。「未来」が「余分/余剰」というのは、「他人の人生」を含めて考えるとき、何か「暴言」という感じがするのである。
 私は「余生」を「余分/余剰の生(いま)」と考えたい。ハムレットの「to be or not to be」は「生きるべきか、死ぬべきか」と訳されることがある。「be」は「いのち/いま」と結びついている。その「生」としての「動詞」の「いま」。「いま」にはいろいろいなものが動いている。制御できないもの、自分の邪魔をするものも含まれている。「余剰/余分」がからみあっている。
 その「余剰/余分」と重なるものを、谷川は「詩」と呼んでいるように、私には思える。
 自分のいのちを超えてあふれだす「余剰/余分」の「いま」。それが、詩。
 この作品に即して言えば、女と男(谷川)が会話している。その二人の「やりとり」には「意味」がある。同時に、「やりとり」の「意味」以外にも存在するものがある。ことば/声にならなかった「思い」が、ことばにならないまま、「未生のことば」として行間に生きている。その「余分なもの/余剰のもの」、それが詩であると感じる。
 谷川は「いま」を「余剰/余分」を含んだものにするために、つまり「いま」の枠を突き破り、いのちをあふれさせる(解放する)ために、詩を書いていると言える。
 これが谷川の「生き方」なのだ。
 「余剰/余分」だからこそ、「似ても焼いても食えないもの」とも呼ばれるのである。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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