監督 ミシェル・アザナビシウス
出演 ベレニス・ベジョ、アネット・ベニング、マキシム・エメリヤノフ、アブドゥル・カリム・ママツイエフ
ストーリーの根幹はチェチェン難民の少年をベレニス・ベジョが助けるというものだが、その難民を生み出した原因のロシア兵の描き方がとてもいい。いいというと変だが、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」のロシア版のよう。マリフアナを吸っているのを見つかり、「刑務所に行くか、志願兵になるか」と青年が迫られる。「志願兵」を選ぶのだが、そこで体験するのは非人間的なことばかり。そのなかでだんだん人間性を失ってゆき、人を人と思わなくなる。人を殺すことに対して何も感じなくなる。死者からビデオカメラを奪い取ると戦場を写しはじめる。チェチェンの無抵抗の農民を射殺するシーンを平気で撮影するようになる。この映画のラストシーンが、映画の冒頭へとつながってゆくのだが、その繰り返し(循環)が映画で起きていることを整理し直す。「無関心」がチェチェンの悲劇を生んだと告発する。
しかし、まあ、こういうストーリーはどうでもいいなあ。
スクリーンから迫ってくるのは、チェチェンを侵略したロシアの主張する「正義」を、実際に戦場で戦っている兵士が感じていないという「矛盾」。テロからロシアを守るために戦っているとは思っていない。兵役はいやだ、死ぬのはいやだ、軍隊はきらいだ、と思っている。それが、だんだん理不尽な暴力の受けているうちに変化して、ただ暴力をふるいたい、という気持ちに変わってゆくのが何ともいえずリアリティーがある。
そういう理不尽な暴力(正義を装った暴力)がチェチェンの難民を生み出す。難民のチェチェンのひとはなぜ自分が難民になるかわからない。そのわからなさを、登場するひとりひとりが、具体的に体現する。ロシア兵が軍隊といいながらひとりひとりが孤立している(少なくともマリフアナ青年は孤立している)のに対し、チェチェン難民は互いに助け合っていると対比されるとき、ロシアの暴力がいっそう鮮明になる。
さらに国際機関の対応が描かれる。国連もEUも職員を派遣し、それぞれに努力しているが、その「現場」を離れると事情がかわってくる。ベレニス・ベジョはやっとつかんだ「報告発表」にいさんで出発するが、その会場ではだれも真剣に聞いていない。遅れて会場にあらわれ、知人と握手、雑談をするのが壇上から見える。「無関心」がチェチェンの悲劇を拡大しているのだ。
この冷淡が描かれるからこそ、両親を射殺され、幼い弟を見知らぬ家の玄関に置き去りにした少年の苦悩が鮮烈になる。さらに、少年の苦悩のすべてを知らないまま一対一の関係をはぐくんでゆくベレニス・ベジョとの触れ合いがあたたく響いてくる。少年が、言いたくなかったこと、弟を置き去りにしてきたことを告げるシーンは胸が痛くなる。
そして、最後に姉と再会するシーンも、そのきっかけが人間と人間の触れ合いがキーワードになっている。姉はいったん難民収容所を離れようとする。けれど駅で子供の姿をみかけ、自分の仕事は子供たちに寄り添うことだと決意し、収容所に戻る。そこで主人公の少年と再会できる。
他人の苦悩がわからないとき、ひとはまず寄り添うことが必要なのだ。寄り添い、私はあなたの味方である、ということだけが人を「暴力」から救うのだろう。
評価の★1個は、ロシア兵の描き方に対して。これがないと、どこかで見たようなヒューマンストーリーになってしまうだろう。
(2015年05月03日、KBCシネマ2)
出演 ベレニス・ベジョ、アネット・ベニング、マキシム・エメリヤノフ、アブドゥル・カリム・ママツイエフ
ストーリーの根幹はチェチェン難民の少年をベレニス・ベジョが助けるというものだが、その難民を生み出した原因のロシア兵の描き方がとてもいい。いいというと変だが、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」のロシア版のよう。マリフアナを吸っているのを見つかり、「刑務所に行くか、志願兵になるか」と青年が迫られる。「志願兵」を選ぶのだが、そこで体験するのは非人間的なことばかり。そのなかでだんだん人間性を失ってゆき、人を人と思わなくなる。人を殺すことに対して何も感じなくなる。死者からビデオカメラを奪い取ると戦場を写しはじめる。チェチェンの無抵抗の農民を射殺するシーンを平気で撮影するようになる。この映画のラストシーンが、映画の冒頭へとつながってゆくのだが、その繰り返し(循環)が映画で起きていることを整理し直す。「無関心」がチェチェンの悲劇を生んだと告発する。
しかし、まあ、こういうストーリーはどうでもいいなあ。
スクリーンから迫ってくるのは、チェチェンを侵略したロシアの主張する「正義」を、実際に戦場で戦っている兵士が感じていないという「矛盾」。テロからロシアを守るために戦っているとは思っていない。兵役はいやだ、死ぬのはいやだ、軍隊はきらいだ、と思っている。それが、だんだん理不尽な暴力の受けているうちに変化して、ただ暴力をふるいたい、という気持ちに変わってゆくのが何ともいえずリアリティーがある。
そういう理不尽な暴力(正義を装った暴力)がチェチェンの難民を生み出す。難民のチェチェンのひとはなぜ自分が難民になるかわからない。そのわからなさを、登場するひとりひとりが、具体的に体現する。ロシア兵が軍隊といいながらひとりひとりが孤立している(少なくともマリフアナ青年は孤立している)のに対し、チェチェン難民は互いに助け合っていると対比されるとき、ロシアの暴力がいっそう鮮明になる。
さらに国際機関の対応が描かれる。国連もEUも職員を派遣し、それぞれに努力しているが、その「現場」を離れると事情がかわってくる。ベレニス・ベジョはやっとつかんだ「報告発表」にいさんで出発するが、その会場ではだれも真剣に聞いていない。遅れて会場にあらわれ、知人と握手、雑談をするのが壇上から見える。「無関心」がチェチェンの悲劇を拡大しているのだ。
この冷淡が描かれるからこそ、両親を射殺され、幼い弟を見知らぬ家の玄関に置き去りにした少年の苦悩が鮮烈になる。さらに、少年の苦悩のすべてを知らないまま一対一の関係をはぐくんでゆくベレニス・ベジョとの触れ合いがあたたく響いてくる。少年が、言いたくなかったこと、弟を置き去りにしてきたことを告げるシーンは胸が痛くなる。
そして、最後に姉と再会するシーンも、そのきっかけが人間と人間の触れ合いがキーワードになっている。姉はいったん難民収容所を離れようとする。けれど駅で子供の姿をみかけ、自分の仕事は子供たちに寄り添うことだと決意し、収容所に戻る。そこで主人公の少年と再会できる。
他人の苦悩がわからないとき、ひとはまず寄り添うことが必要なのだ。寄り添い、私はあなたの味方である、ということだけが人を「暴力」から救うのだろう。
評価の★1個は、ロシア兵の描き方に対して。これがないと、どこかで見たようなヒューマンストーリーになってしまうだろう。
(2015年05月03日、KBCシネマ2)
アーティスト [レンタル落ち] | |
クリエーター情報なし | |
メーカー情報なし |