詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ミシェル・アザナビシウス監督「あの日の声を探して」(★★★+★)

2015-05-04 19:47:17 | 映画
監督 ミシェル・アザナビシウス

出演 ベレニス・ベジョ、アネット・ベニング、マキシム・エメリヤノフ、アブドゥル・カリム・ママツイエフ

 ストーリーの根幹はチェチェン難民の少年をベレニス・ベジョが助けるというものだが、その難民を生み出した原因のロシア兵の描き方がとてもいい。いいというと変だが、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」のロシア版のよう。マリフアナを吸っているのを見つかり、「刑務所に行くか、志願兵になるか」と青年が迫られる。「志願兵」を選ぶのだが、そこで体験するのは非人間的なことばかり。そのなかでだんだん人間性を失ってゆき、人を人と思わなくなる。人を殺すことに対して何も感じなくなる。死者からビデオカメラを奪い取ると戦場を写しはじめる。チェチェンの無抵抗の農民を射殺するシーンを平気で撮影するようになる。この映画のラストシーンが、映画の冒頭へとつながってゆくのだが、その繰り返し(循環)が映画で起きていることを整理し直す。「無関心」がチェチェンの悲劇を生んだと告発する。
 しかし、まあ、こういうストーリーはどうでもいいなあ。
 スクリーンから迫ってくるのは、チェチェンを侵略したロシアの主張する「正義」を、実際に戦場で戦っている兵士が感じていないという「矛盾」。テロからロシアを守るために戦っているとは思っていない。兵役はいやだ、死ぬのはいやだ、軍隊はきらいだ、と思っている。それが、だんだん理不尽な暴力の受けているうちに変化して、ただ暴力をふるいたい、という気持ちに変わってゆくのが何ともいえずリアリティーがある。
 そういう理不尽な暴力(正義を装った暴力)がチェチェンの難民を生み出す。難民のチェチェンのひとはなぜ自分が難民になるかわからない。そのわからなさを、登場するひとりひとりが、具体的に体現する。ロシア兵が軍隊といいながらひとりひとりが孤立している(少なくともマリフアナ青年は孤立している)のに対し、チェチェン難民は互いに助け合っていると対比されるとき、ロシアの暴力がいっそう鮮明になる。
 さらに国際機関の対応が描かれる。国連もEUも職員を派遣し、それぞれに努力しているが、その「現場」を離れると事情がかわってくる。ベレニス・ベジョはやっとつかんだ「報告発表」にいさんで出発するが、その会場ではだれも真剣に聞いていない。遅れて会場にあらわれ、知人と握手、雑談をするのが壇上から見える。「無関心」がチェチェンの悲劇を拡大しているのだ。
 この冷淡が描かれるからこそ、両親を射殺され、幼い弟を見知らぬ家の玄関に置き去りにした少年の苦悩が鮮烈になる。さらに、少年の苦悩のすべてを知らないまま一対一の関係をはぐくんでゆくベレニス・ベジョとの触れ合いがあたたく響いてくる。少年が、言いたくなかったこと、弟を置き去りにしてきたことを告げるシーンは胸が痛くなる。
 そして、最後に姉と再会するシーンも、そのきっかけが人間と人間の触れ合いがキーワードになっている。姉はいったん難民収容所を離れようとする。けれど駅で子供の姿をみかけ、自分の仕事は子供たちに寄り添うことだと決意し、収容所に戻る。そこで主人公の少年と再会できる。
 他人の苦悩がわからないとき、ひとはまず寄り添うことが必要なのだ。寄り添い、私はあなたの味方である、ということだけが人を「暴力」から救うのだろう。

 評価の★1個は、ロシア兵の描き方に対して。これがないと、どこかで見たようなヒューマンストーリーになってしまうだろう。
(2015年05月03日、KBCシネマ2)



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嵯峨信之を読む(59)

2015-05-04 14:41:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(59)

106 ひとの世ということ

 「ひとの世ということ」という章の最初の作品。

それがひとの世というものです
いくつもいくつも夢を重ねながら
それが雲のように消えてしまうことが

 この書き出しの「いくつもの夢」とは何だろうか。嵯峨は次のように言い換えている。
どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた夕もあれば
山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた朝もありましょう

 「夕」と「朝」は一回だけではない。何回も繰り返される。これが「いくつもいくつも」ということ。そして、たとえば「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた」「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた」が「夢」。現実にもそういうことがあるかもしれないが、それは「日常生活」そのものとは直接かかわってこない。なにかしら「美しい」印象を与えるできごと。それが「夢」。「夢」だから、それは入れ換えも可能である。

山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた夕もあれば
どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた朝もありましょう

 入れ替え可能だから、なおさら「夢」のように思えてくる。あれは「現実」だったのか、それとも何かを知らせるための「夢」だったのか。
 そして、「夢」はつぎのようにも言い換えられる。


なにかしら果もなくひろがつているものの端を
誰か見知らぬひとがそつと持つているように感じながら……

 これを読んだ瞬間に、さっき読んだ二行が違ったものに見えてくる。
 繰り返される朝、繰り返される夕。繰り返されながら朝、夕とひとつのことばで表現される時間。それは「時計の時間」では毎日繰り返されるだけれど、「宇宙」の時間では繰り返しではなく、広がりつづけるということかもしれない。同じ「朝」はない。毎日違った「朝」になる。その「違い」が、一日が一週間に、一週間が一月にというような「計算できる区切り」を超えて、「永遠」につづいてゆく。その「永遠」という時間の中に「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた」や「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた」が繰り返される。
 「永遠」の「端」を誰かが押さえていて、その「端」と「端」の「あいだ」にさまざまなことが起き、それが「朝」となり、「夕」となり、刻まれていく。私たちが日常感じている「時間の流れ」とは逆に、「両端」が最初にあって、それが両端から「朝」と「夕」を刻む。ただしそれは等間隔というよりも、アトランダムに、あるところが「朝」になり、別のところが「夕」になる。「朝」と名づけられたところが次の瞬間には「夕」と名づけられたりする。それは水平の方向(線上の方向)に刻むというよりも、その両端を結ぶ線の内部、両端のあいだを濃密にする感じ。
 私たちの生は「端」を超えることができない。「端」にまでたどりつくこともできない。ただ「端」と「端」の「あいだ」を生きるだけだ。「あいだ」を濃密にしながら生きるだけだ。あるときは「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音」を聞き、あるときは「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音」を聞きながら。
 「対」は「端」と「端」の内部(あいだ)を濃密にする方法なのだ。「翔びたつ」と「落ちる」という動詞は「対」になって動き、「もの(対象)」だけではなく動詞も「内部」(あいだ)を濃密にするものだと教えてくれる。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(5)

2015-05-04 09:54:20 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(5)(思潮社、2015年04月30日発行)

跛行

窓の外でポプラが風にそよいでいる
眼は世界の美しい表面を見る

詩が白い紙の上を跛行してゆく
耳は世界の底知れない奥行きを聞く

テーブルの上の白紙の束
湯気をたてている午後の紅茶

不完全なこの世を支えている
完全で非情な宇宙

言葉になるはずのないものが
いつか言葉になる……だろうか

 谷川の詩には「漢詩」でいう「対句」のようなことばが頻繁に出てくる。この詩では一連目と二連目に、それが複雑に絡み合っている。
 「眼」と「耳」が「対」になって、そこに書かれている世界を広げている。「眼で見る」と「耳で聞く」という「構造」が「対」になっている。このとき「対」とは「世界」を広げると同時に濃密にする。「眼で見た」ものに「耳で聞いた」ものを重ねるとき、その眼と耳をもっている人間と、人間の向き合っている世界が立体的になる。
 その「眼で見る」のは「表面」であり、「耳で聞く」のは「奥行き(内部)」である。さらに「表面」は「美しい」が、「奥行き(内部)」は「底知れない」という「対」をつくり出す。
 この「美しい」と「底知れない」は、よく見るとさらに複雑な「対」を構成している。「美しい」は「風にそよぐ」のに対して「底知れない」は「跛行してゆく」。
 この「底知れない」と「跛行してゆく」の組み合わせに、私は、どきりとしてしまう。
 ことばが書かれた順序にしたがって見つめなおすと、「跛行してゆく」を谷川は「底知れない」と言い換えていることになる。「風にそよぐ=美しい」に対して「跛行してゆく=底知れない」である。「底知れない」は「美しくない/不気味」でもあるだろう。しかし簡単に「美しくない」と言い切れないものがある。何か「不気味」ということばでは言い切れないもの、「美しさ」に通じるものをふくんでいる。そのために「底知れない/奥行き」ということどはが動いている。
 「跛行してゆく」は、いまは使わなくなってしまったことば「ちんばをひいて行くこと」(広辞苑)である。歩き方が普通のひとと違っている。美しくない。醜い。けれど、そこには「いのち」の底知れない力が動いている。形としては美しくなくても、歩ける。そこには可能性としての「美しさ」、いのちの奥深い強さという底知れなさがある。それは、歩くというときに「美しい」とはどういうことかと問いかけてくるものがあるということだ。「いのち」にとって美しさとは何か。なぜ「跛行してゆく」動きを「美しくない」と言えるのか。「美しくない」と言える権利(?)が、誰にあるというのか。「可能性の強さ」と言いなおすべきではないのか……。
 こういう「倫理」の問題に谷川が踏み込んでいるわけではないが、そういう世界にまで触れていることを感じさせることばである。そのことに、私は、どきりとする。こんな複雑なことを書かなくても「対」はつくり出すことができるはずなのに、あえて複雑に、濃密にしている。そのことに谷川の、詩人の不思議な「強さ/底知れなさ」を感じ、私はうなってしまう。
 谷川は単に詩の論理(詩の技法/美の形式)にのっとって「対句」をつくっているわけではないのだ。

 この「対句」のことばを読みながら、私はまた、「耳は/聞く」という「動詞」のなかに谷川の「本質」のようなものを感じた。谷川は「視覚型の詩人」というよりも「聴覚型の詩人」なのだと思った。それは「跛行してゆく」を視覚(姿)ではなく、「跛行してゆく」を「足音」と耳でとらえていることからもわかる。「足音」ということばは詩では書かれていないが、書かれていないということは、音が谷川にとって肉体にしみついていて書く必要がないからでもある。音は谷川にとっては「肉体」そのものになっているのだ。
 聴覚で「矛盾した本質/視覚だけではとらえられない本質」をまるごとつかみとる。「視覚」でも世界をとらえるが、聴覚の方が「世界の混沌とした内部/うまく整理できない内部」を「未整理」のままつかみとるときに強く働くのだと感じた。眼はあくまで「表面」を整理する。それに対して耳は「内部(奥行き)」をつかむ。
 このとき「内部/奥行き」とは、そのまま「耳の穴」の「奥」、つまり「鼓膜の奥」、鼓膜から始まる人間の「肉体の内部/奥」につながっていかないだろうか。耳をすまして世界の「音」を聞くとき、「耳の穴の奥/人間の肉体の内部」で動いている「音」もいっしょに聞きとらないだろうか。「内部の音」、たとえば「鼓動」を外の音と勘違いして聞くことはないだろうか。「鼓動」が「雑音」なのか、外部の「音」が「雑音」なのだろうか、それがあいまいになるときはないだろうか。

 余分なことを書きすぎているだろうか。
 「対句」にもどって、詩を読み進めることにしよう。
 「技法」にかぎって「対句」を見直しておけば、先に書いた部分以外に、たとえば「窓の外」に対して、二連目の冒頭に「部屋の内では」ということばを補って「対」を考えることができるし、「白い(紙)」に対しては「(みどりの)ポプラ」という「対」が考えられる。「ポプラ(現実)」はまた「詩(ことば)」とも「対」になっている。「表面」は先に「奥行き」と対比させたが、「紙の上」とも向き合っている。
 三連目では「白紙」が二連目「白い紙」を引き継ぎながら、「跛行してゆく」と書かないことで、そこには詩(ことば)が不在であることを告げる。これは「眼で見る」という一連目の動詞を引き継いでいるとも言える。「湯気をたてている午後の紅茶」は「眼で見る」世界のようでもあるが、「たてている」ということばが「音をたてている」(紅茶を入れる前のやかんの状態)を呼び起こし、そこには「耳で聞く」世界があるとも言える。三連目の二行は、それぞれ一連目と二連目の世界を引き継いでいると言える。
 しかし。
 この二行は、とても変な感じがする。一連目、二連目が「対」が非常に複雑に絡み合った濃密な世界なのに、この三連目はあっさりしすぎている。文体が違いすぎる感じがする。
 そう思っていると、四連目で、文体はさらにかわる。それまで書かれていたことばが「ポプラ」「白い紙」「紅茶」と具体的だったのに、四連目には具体的なものは出てこない。「この世」「宇宙」ということばが出てくるが、これは「総称」であって個別な感じ、肉体(眼/耳)に直接触れてくるというよりは、「頭」に触れてくることばである。「頭」で考えることばである。
 この四連目にも「不完全な/この世」「完全な/宇宙」という「対」があるが、この世が不完全であり、宇宙が完全であると、私たちは目や耳で知っているわけではない。頭で考えることができるだけである。
 この世には「跛行」という「不完全な歩行」の形がある。その不完全が存在するのは、不完全を支える完全な何か(宇宙/真理)があるからだと考えると「論理的」である。(論理がそこに成り立つ。)だから、「頭」はそう考えるだけである。そして、宇宙は完全であるからこそ、「跛行」を「不完全」と「非情」にも言ってしまうことができる。「頭」はそう考えるのである。
 しかし考え方次第では、どんな存在形式(運動形式)であっても、それが実際に存在しうる世界が完全なのであり、そういうものを許さない「完璧主義の宇宙」の方が不完全であるということもできるはずである。
 だいたい「完全で非情な宇宙」ということが、どうして「わかる」のか。

 ずいぶん脱線してしまった気がするが、この抽象的なことばを書くためには、一連目、二連目の濃密な世界を一度洗い流す必要があったのだと思う。そのために一度、三連目でことばをあっさり(?)したものにしたのだ。四連目のことばの動きをスムーズにするために、あえてことばをあっさりしたものにしたのだ。一、二連目と同じ濃密さで四連目を書くには、ことばはもっと「論理的」に濃密にならなければならない。きっちりと構えた散文にしないと、「論理」は書けない。「論理的」であろうとすると散文になってしまう。「こころ/肉体」で感じていることが「頭」で考え直したことになってしまう。
 濃密な論理の詩は、なかなかむずかしい。
 最後の連は、そうやって書いてきたことば、詩を読み直しての「総括」ということになるのかもしれない。谷川が「言葉」と書いている部分を「詩」と書き替えてみると、そのことがわかる。

詩になるはずのないものが
いつか詩になる……だろうか

 「詩になるはずのないもの」とは、「不完全なこの世を支えている/完全で非情な宇宙」というような散文的な認識(論理)のことだろう。
 これに対して「詩になる」のは、たとえば「窓の外でポプラが風にそよいでいる」というような情景である。そこには詩情がある。それを詩情と呼ぶのは、単なる文学上の「定型」だが。
 そして、この視点から、二連目の「詩が白い紙の上を跛行してゆく」を読むと、なんだか私の考えは堂々巡りになる。
 「詩」とかかれているのは、この作品の場合、何になるのか。一連目そのものを指していないか。「窓の外でポプラが風にそよいでいる/眼は世界の美しい表面を見る」という二行は、いわゆる「詩」らしい感じがする。しかし、それは不完全な詩であり、不完全であるがゆえに、紙の上を「跛行してゆく」。これを完全なものにするためには何が必要か。一連目のことばに、何が欠けているのか。「不完全なこの世を支えている/完全で非情な宇宙」というような「認識」、あるいは「論理」かもしれない。
 そう考えて谷川は四連目を書いたのかもしれない。

 詩は、どういう形が「完成」なのか、考えるときりがなくなる。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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