詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(61)

2015-05-06 19:45:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(61)

108 鈴木俊光の死

 「生と死」の「死がさけられぬ」と知った友とは、鈴木俊光のことだろうか。私は嵯峨のことも鈴木俊光のことも知らないのだが、友と鈴木が同一人物の人間であると思って読んだ。
 その前半、

なにも考えてはいけない
また悲しんではならない
君はどこか遠くへ旅立たねばならなぬ
君を容れていた器はもう用をせぬようになつている
今日まで君を安んじさせていた器をじつと瞶めながら撫でてみる
それはすでに案じる以上にいけなくなつている
その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる

 「君を容れていた器」とは「肉体」の「比喩」である。この「比喩」が成り立つとき「君」とは何だろうか。「君の精神/君の感情」そういうものが考えられる。「肉体」は「器」であり、「精神」が本質である、というようなことが考えられる。
 だが、そう読んでくると、

その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる

 これは、どうなるのだろうか。
 「その中」とは「器の中」であり、「満ちていたもの」とは「精神/感情/君の本質」ということになる。それが「いまではじかに君に触れる」。君の精神が「君に触れる」とはどういうことだろう。
 直前に「器をじつと瞶めながら撫でてみる」とあるが、私はこれを「ぼく(嵯峨)は 君の器である肉体をじつと瞶めながら撫でてみる」と読んだ。「撫でてみる」は「触る」である。そうして、触っていると、

その中に満ちていたものがいまではじかに「ぼく」に触れる

 というのなら、わかる。
 「肉体」はもう触っても何の意味もない。そこには「君」はもういない。「肉体」はすでに用をなさない「物体」になってしまっている。しかし、まだ「精神」は生きている。「肉体」が死んでしまったあと、君の肉体に触ると、その奥から「君の精神」があらわれてきて、それに直に触っている感じがする。
 私は文脈から、無意識にそんなふうに読んでいたのだが、実際は違う。嵯峨は「君に触れる」と書いている。
 これは、どういうことだろう。書きまちがいだろうか。書きまちがいなら、なぜ書きまちがえたのか。書きまちがえでないなら、どう読めばいいのだろうか。

 冒頭にもどってみる。

なにも考えてはいけない
また悲しんではならない

 この二行には「主語」が省略されている。「主語」は何だろうか。「君」か「ぼく」か。三行目には「君はどこか遠くへ旅立たねばならなぬ」とある。「君は」の「は」は対比をあらわしているのだろう。そうだとすると、前の二行は「ぼくは」が省略されているということになるかもしれない。「ぼくはなにも考えてはいけないし、悲しんではならない」。なぜなら「君は遠くへ旅立つ」。悲しめば、君の旅立ちを邪魔することになる……というような「意味合い」がそこには含まれていると思う。
 なぜ、こんなことを書いたかというと……。
 ひとはときどき「わかりきったこと」を省略してしまう。無意識のうちに、私たちはことばを省略しながら、意識をすばやく動かしている。すばやく動かすために、ことばを省略しているとも言える。そのとき省略されるのは、発話者にとって、それが自明のことである。冒頭のに二行で「ぼく」という主語が省略されたのは、「ぼく」が自明のことだからだ。友の死に直面している「ぼく」。「ぼく」が友の死に直面していることはわかりきっている。だから省略した。省略することで、そこで起きていることの中へすばやく入っていくのである。大事なことであればあるほど、ひとはことばを省略して、すぐに動いてしまう。ことばを動かしている時間がもったいない。
 問題の行でも、「主語=ぼく」が省略されているのである。
 もしそうであるなら、
 
その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる

 には「ぼく」はどんなことばといっしょに、どこに省略されていることになるだろうか。
 私は次のように補って読む。

その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が、いまでは君の本質を隠していた「器」を突き破って表面に出てきている。そこに君の本質があらわになっている。その君の本質に(=君に)、ぼくはじかに触れる。ぼくは、じかに君(の本質)に触れる。

その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が(露出しているので)、いまでは(ぼくは)じかに君(の本質である精神/感情)に触れる

 「ぼく」にとって「君=鈴木俊光」の「本質」は「肉体」ではなく「精神」である。それは自明のことである。だから「精神」ということばが省略された。「君」と「精神」は同じことばなのだ。その精神に触れるとは、君に触れることである。君に触れるのは「ぼく」である。自明のことだから、ことばが省略され、そのため一行だけを取り出すと「文法的」にはおかしなことばになっているのである。
 嵯峨は君の死を悼んでいる。それは君の精神の死を悼んでいるということである。しかし、肉体は滅んでも精神はことばとなって残る。だからこそ、嵯峨は最後に、次のように書く。

ああ ぼくには見える
自画像を高く掲げようとよろめいている君を背後からそつと支えている一つの大きな手を……

 「自画像」とは「精神/本質」のことである。「大きな手」は、いわゆる「神の手」のようなものを想定することもできるが、私は、これを嵯峨自身の手と読みたい。君は死んだ。しかし君が掲げた精神の運動(ことば)/君自身を支える一つの手になりたいと嵯峨は決意を語っていると読みたい。
 ここでも「ぼく」という「主語」は省略され、見えにくくなっている。そういう「決意」を語ることは差し控えたいので「一つの大きな手」と、「神」を連想させることばで「ぼく」を隠していると言えるかもしれない。
 そのとき「君」と「ぼく」は精神的には「一つ(一体)」になっている。その「一体感」からひるがえって問題の行を読むとどうなるだろう。

その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が(ぼくに触れ)、(その反映として)いまでは(ぼくは)じかに君(の本質である精神/感情)に触れる

 「人」という文字が互いに支えあって成り立っているように、「一体」になった嵯峨と鈴木は、君(鈴木)がぼく(嵯峨)に触れ、ぼくが君に触れるという具合に、「触れる」という「動詞」なのかで出会っているのかもしれない。「触れる」という「動詞」のなかで「君とぼく/ぼくと君」は省略された形で「一体」になっているのだろう。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(7)

2015-05-06 12:41:33 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(7)(思潮社、2015年04月30日発行)



坦々麺

何もかもつまらんという言葉が
坦々麺を食べてる口から出てきた
俺は本当にそう思ってるのかと
心の中で自問自答してみるが
詩人の常ではかばかしい答えはない
言葉は宙に浮いている でなきゃ
地下で縺れている
俺はそれを虚心に採集する
何もかもつまらんもそういう類いか
本心も本音も言葉の監獄につながれて

いち足すいちはにいいと言わせて
みんなの口角に微笑の形をつくらせる
笑みが本心であろうとなかろうと
無邪気な言葉に釣られて筋肉が動く
ひとり仏頂面でspontanceousの訳語を
頭の中でいじくり回してる奴が俺だ
そんな昔の記念写真が脳裡に浮かんで
思いがけず口から飛び出した言葉が
真偽を問わず詩を始めてしまう
坦々麺を食べながら詩人は赤面する

 「あとがき」によれば、この詩集は「詩を対象にして詩を書く」という作品群である。「詩に就いて」考える、思考の詩集。「論」の詩集。
 「論」といっても「散文」とは違う。「散文」は「事実」をひとつずつ積み上げて結論へ向かって動いていく。詩はそういうことをしない。
 何をするか。どうするか。
 谷川が多用するのは「対句」である。ことばを「対」の形で動かす。ことばというのは「現実」のすべてを表現できない。「現実」の一部しか表現できない。その「一部」で「いいたいこと」をあらわしてしまうのはむずかしい。「一部」を拡大する、あるいは「一部」をさらに精密に細分化する。その拡大化や細分化の運動(方向性)の中に、言いたいことが抱えている方向性(運動)を重ねる。「対」のなかにどんな運動、どんな方向性が見出せるか。「結論」ではなく、「結論」ヘ向かう「動き」読む必要がある。
 この詩にも「心の中で自問自答してみる」「頭の中でいじくり回してる」という「対句」が存在するが、ただし「対」の振幅が少ない。というよりも、「対」をつかわずに、「散文」形式で、この詩は書かれている。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。こんなことを書かずに、「坦々麺」という詩について書きはじめればいいのだろうが、余分なことを書かずにいられないのは、実はこの詩についての感想が書きにくいからである。私の中にある余分なことば(これまでの作品を読んできた印象)を捨てないと、向き合えない。だから、「対」について少し書いたのである。
 「対」の運動はこの詩にもある。けれど、それとははっきり違う運動がある。「対」を構成するものを「ぶつけ合う」ことで、そこから生まれてくる何かを読者にまかせるというよりも、谷川は、この詩では自分の考えを「論理的」に語っている。「散文的」に語っている。「事実」を積み上げながら、「真実(結論)」を掴み取ろうとしている。
 書き出しの二行「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」は「事実」である。虚構、創作かもしれないが、そうであったとしても「論」を進めるための出発点として書かれた二行である。そこには「思考」が入っていない。「思考」が排除されている、という意味で「事実」である。
 この「事実」に対して、「俺は本当にそう思ってるのかと/心の中で自問自答してみる」というのが「思考」であり「論理」である。(ここから「事実」と「思考」という「対」を読み取ることもできるが、今回は「対」はすこしわきに置いておいておく。)
 そして、その「論」というのは「本当にそう思ってるのか」ということばが端的に語っていることだが「本当(真実)」を目指して動く。「本当(真実)」をめざす動きというのは、ソクラテス(プラトン)の時代から「疑う」という運動から始まる。「信じる」まえに「疑う」。ここでは「何もかもつまらん」という「言葉」が、「俺」の「本当に思っている」かどうかを疑う。自分で言ったことばを、自分で疑う。「自問自答」。この自問自答を「心の中で」とことわっているのは、「何もかもつまらん」ということが「心」の発した声だと思うから、「心の中で」疑うのである。もし、2+3=7が「正しい」かどうか疑うとしたら、それは「心」で疑うのではなく、きっと「頭」で疑うだろう。「何もかもつまらん」は「客観的事実」ではなく「心の事実(主観的事実)」だから、心の中で自問する。
 しかし、「主観的事実(心の事実)」に「本当」はあるのか。「本当」があるとして、それは誰のためにあるのか。自分のためにあるのなら、そんなものは「論理的」に説明したり、証明したりしなくてもいいだろう。「論理的」ということは「客観的」とほぼ同じ意味である。「主観的事実」を「客観的」に語るというのは、なにか、とんでもないまちがいというか、「道」を踏み外している感じがする。
 そういうことがあるにしろ、ともかく谷川は、ここでは「論理的」にことばを動かしながら、そのことばがどこへ動いて行けるのかを探っている。考えている。そして「自問自答」してみると、

詩人の常ではかばかしい答えはない

 と、「詩人」が登場する。「俺」ということばが「詩人」ということばに変わっている。「俺(谷川)」が「詩人」であることを私は知っているが、ここで「俺」が「詩人」に変わらなければならない「理由」はあいまいである。
 そのことを考えたい。
 「俺」と「詩人」が「対」をつくっている。先に「対」はわきに置いておいて……と書いたのだが、どうしても「対」が気になるので、やはり「対」について考えながらことばを追うことにする。
 「俺」と「詩人」。「俺」から「詩人」への変化。何が「俺」を「詩人」に変えたのか。「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。さらにいうなら「何もかもつまらん」が「心の声」かどうかという「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。「心」にとって「本当とはなにか」と問うことが「俺」を「詩人」に変えた。「心」のことを考えるのが「詩人」なのだ。
 逆は可能だろうか。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「俺(谷川)」に変わるか。たぶん、変わらない。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「別の詩人」になる。「次元の違った詩人」になる。流行のことばをつかっていうと「メタ詩人」になる。そして、そこから始まる詩は「メタ詩」になる。そういう意味では、この詩は「メタ詩」なのだが……。
 脱線した。
 「詩人」を「言葉が心の本当をあらわしているかどうか自問自答するのが詩人」と定義しながら(無意識的に定義しながら)、その直後に、また「俺」が出てくる。「メタ詩人」ではなく、「俺」にもどっている。「詩人」が「俺」に変わっている。この「俺」は「メタ詩人」であるかもしれないが、谷川は「俺」ということばをつかっている。何が「詩人」を「俺」に変えたのか。
 「俺はそれを虚心に採集する」。「採集する」という動詞が「詩人」を「俺」に変えた。「採集する」は「疑う」ではない。それがひとつのポイント。「虚心に」というのは、二連目に出てくる「無邪気に」と「対」になっているが、それは「疑うことをせずに」という意味であり、「虚心に」は「採集する」という「動詞」を強調していることになる。
 もうひとつのポイント。「それ」とは何か。何を「採集する」のか。「宙に浮いている・言葉」「地下で縺れている・言葉」(ここに「宙(空)」と「地下」という「対」がある)の「言葉」を「採集する」のが「俺」である。「詩人」は「言葉を採集」しない。「言葉」を「採集する/採集している(現在進行形)」ときは「俺」なのだ。「詩人」は「言葉」が「本当/本心」であるかどうかを問題にし、「疑う」が、「俺」は「言葉」が「本当/本物/本心」であるかどうかを問わずに「虚心に」(心を無にして?)、ただ「採集する」。
 そうであるなら、そのあとの二行「何もかもつまらんもそういう類いか/本心も本音も言葉の監獄につながれて」は誰のことば? 「俺」のことばか。そうではない。「俺」はあくまで「言葉を採集する人間」である。「そういう類いか」と「疑っている」。「疑う」は「詩人」の特権である。疑った結果、ここではいったん「本心も本音も言葉の監獄につながれて」という「結論」が出されている。この「結論」の「意味」は、私にはわからない。わからないけれど、そこに「本心/本当の心」ということばがあることがおもしろいと思う。「本当の心」のことを思っているから、これは「詩人」の「声」なのだと、私は感じる。「何もかもつまらん」が「宙の言葉」なのか「地下の言葉」なのか明記されていないが、「採集」されて「監獄につながれて」いると評価している。「評価」は「疑い」のあとの「判断」にあたる。だから「詩人」の仕事になる。
 「言葉の監獄につながれて」は「詩よ」のなかの「檻の中で詩が共食いをしている」を思い出させる。「詩/本当の心」は「流通する言葉の監獄のなかで、流通する言葉を共食いしている。その結果、詩は存在しない/何もかもつまらない」と言っているのだろうか。わからないまま、私は、そんなことを考えた。

 一連目と二連目は、「心の中」と「頭の中」ということばを中心にして「対」になっていると読むことができる。
 一連目のことばは「言葉」と「心/本心/本音(心で本当に思っていること、その声)」の関係が「自問自答」されていた。二連目では「心」と「表情(顔の言葉)=肉体(筋肉、ということばが出てくる)」の関係が問われている。「自問自答」しているのは「心」ではなく「頭」である。
 「にいい」とことばを発すると、「本心」とは無関係に、口(肉体)の形は「笑み」の形になる。その「形」を人間は「笑み」と判断してしまう。このときの「肉体(筋肉)の動き」とそれがつくり出す「表情(表現/肉体の言葉)」の関係を、「頭」は「spontanceous」という英語(?)で理解している。そして、それを何とか「日本語」にしようとしている。「無意識的、自然な、自発的……」。どうも「無関係」とは、うまくつながらない。「意識とは無関係に」くらいの意味なら落ち着くだろうか。
 辞書を引きながら、そんなことを考えたが、谷川は「spontanceous」を、その三行あとで「思いがけず」と訳している。「にいい」というと「思いがけず」、顔は「笑み」の表情になる。「思いがけず」とは「思いを裏切って」でもある。「裏切って」ということは「本当の思いとは違って」ということである。そういうことを「昔の記念写真」を見ながら「頭」は思い出している。
 そして、その「思いがけず」には「思いがけず」という「本当」があることを発見し、谷川は驚いている。「思いがけず」何かをしてしまうとき、そのしてしまったことは「心」をあらわしてはいないが、「思いがけず」という運動そのものの中には、人間の意思(こころ? 頭?)では支配できない何かが動いている。それは「心の真偽」とは違った何かである。
 そして、詩は、そこから突然始まってしまう。詩は、そういうものだ。意図して始めるのではなく、「思いがけず」ことばが飛び出してはじまる。
 「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」ということばから、この詩がはじまっているように。
 「思い掛けずに」ということばが「発見されている」。それは「生み出されている」と言ってもいいかもしれない。
 この作品に書かれていることばが、すべて「思いがけずに」という一語のなにか吸収されていくように感じる。
 --と書いて、私は急に書くことがなくなった。
 まだ何か書こうとしていたのだが、忘れてしまった。「結論」というのは、こんなふうに突然どこからともなく、--それこそ「思いがけずに」やってくる。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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