嵯峨信之を読む(61)
108 鈴木俊光の死
「生と死」の「死がさけられぬ」と知った友とは、鈴木俊光のことだろうか。私は嵯峨のことも鈴木俊光のことも知らないのだが、友と鈴木が同一人物の人間であると思って読んだ。
その前半、
「君を容れていた器」とは「肉体」の「比喩」である。この「比喩」が成り立つとき「君」とは何だろうか。「君の精神/君の感情」そういうものが考えられる。「肉体」は「器」であり、「精神」が本質である、というようなことが考えられる。
だが、そう読んでくると、
これは、どうなるのだろうか。
「その中」とは「器の中」であり、「満ちていたもの」とは「精神/感情/君の本質」ということになる。それが「いまではじかに君に触れる」。君の精神が「君に触れる」とはどういうことだろう。
直前に「器をじつと瞶めながら撫でてみる」とあるが、私はこれを「ぼく(嵯峨)は 君の器である肉体をじつと瞶めながら撫でてみる」と読んだ。「撫でてみる」は「触る」である。そうして、触っていると、
というのなら、わかる。
「肉体」はもう触っても何の意味もない。そこには「君」はもういない。「肉体」はすでに用をなさない「物体」になってしまっている。しかし、まだ「精神」は生きている。「肉体」が死んでしまったあと、君の肉体に触ると、その奥から「君の精神」があらわれてきて、それに直に触っている感じがする。
私は文脈から、無意識にそんなふうに読んでいたのだが、実際は違う。嵯峨は「君に触れる」と書いている。
これは、どういうことだろう。書きまちがいだろうか。書きまちがいなら、なぜ書きまちがえたのか。書きまちがえでないなら、どう読めばいいのだろうか。
冒頭にもどってみる。
この二行には「主語」が省略されている。「主語」は何だろうか。「君」か「ぼく」か。三行目には「君はどこか遠くへ旅立たねばならなぬ」とある。「君は」の「は」は対比をあらわしているのだろう。そうだとすると、前の二行は「ぼくは」が省略されているということになるかもしれない。「ぼくはなにも考えてはいけないし、悲しんではならない」。なぜなら「君は遠くへ旅立つ」。悲しめば、君の旅立ちを邪魔することになる……というような「意味合い」がそこには含まれていると思う。
なぜ、こんなことを書いたかというと……。
ひとはときどき「わかりきったこと」を省略してしまう。無意識のうちに、私たちはことばを省略しながら、意識をすばやく動かしている。すばやく動かすために、ことばを省略しているとも言える。そのとき省略されるのは、発話者にとって、それが自明のことである。冒頭のに二行で「ぼく」という主語が省略されたのは、「ぼく」が自明のことだからだ。友の死に直面している「ぼく」。「ぼく」が友の死に直面していることはわかりきっている。だから省略した。省略することで、そこで起きていることの中へすばやく入っていくのである。大事なことであればあるほど、ひとはことばを省略して、すぐに動いてしまう。ことばを動かしている時間がもったいない。
問題の行でも、「主語=ぼく」が省略されているのである。
もしそうであるなら、
には「ぼく」はどんなことばといっしょに、どこに省略されていることになるだろうか。
私は次のように補って読む。
「ぼく」にとって「君=鈴木俊光」の「本質」は「肉体」ではなく「精神」である。それは自明のことである。だから「精神」ということばが省略された。「君」と「精神」は同じことばなのだ。その精神に触れるとは、君に触れることである。君に触れるのは「ぼく」である。自明のことだから、ことばが省略され、そのため一行だけを取り出すと「文法的」にはおかしなことばになっているのである。
嵯峨は君の死を悼んでいる。それは君の精神の死を悼んでいるということである。しかし、肉体は滅んでも精神はことばとなって残る。だからこそ、嵯峨は最後に、次のように書く。
「自画像」とは「精神/本質」のことである。「大きな手」は、いわゆる「神の手」のようなものを想定することもできるが、私は、これを嵯峨自身の手と読みたい。君は死んだ。しかし君が掲げた精神の運動(ことば)/君自身を支える一つの手になりたいと嵯峨は決意を語っていると読みたい。
ここでも「ぼく」という「主語」は省略され、見えにくくなっている。そういう「決意」を語ることは差し控えたいので「一つの大きな手」と、「神」を連想させることばで「ぼく」を隠していると言えるかもしれない。
そのとき「君」と「ぼく」は精神的には「一つ(一体)」になっている。その「一体感」からひるがえって問題の行を読むとどうなるだろう。
「人」という文字が互いに支えあって成り立っているように、「一体」になった嵯峨と鈴木は、君(鈴木)がぼく(嵯峨)に触れ、ぼくが君に触れるという具合に、「触れる」という「動詞」なのかで出会っているのかもしれない。「触れる」という「動詞」のなかで「君とぼく/ぼくと君」は省略された形で「一体」になっているのだろう。
108 鈴木俊光の死
「生と死」の「死がさけられぬ」と知った友とは、鈴木俊光のことだろうか。私は嵯峨のことも鈴木俊光のことも知らないのだが、友と鈴木が同一人物の人間であると思って読んだ。
その前半、
なにも考えてはいけない
また悲しんではならない
君はどこか遠くへ旅立たねばならなぬ
君を容れていた器はもう用をせぬようになつている
今日まで君を安んじさせていた器をじつと瞶めながら撫でてみる
それはすでに案じる以上にいけなくなつている
その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる
「君を容れていた器」とは「肉体」の「比喩」である。この「比喩」が成り立つとき「君」とは何だろうか。「君の精神/君の感情」そういうものが考えられる。「肉体」は「器」であり、「精神」が本質である、というようなことが考えられる。
だが、そう読んでくると、
その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる
これは、どうなるのだろうか。
「その中」とは「器の中」であり、「満ちていたもの」とは「精神/感情/君の本質」ということになる。それが「いまではじかに君に触れる」。君の精神が「君に触れる」とはどういうことだろう。
直前に「器をじつと瞶めながら撫でてみる」とあるが、私はこれを「ぼく(嵯峨)は 君の器である肉体をじつと瞶めながら撫でてみる」と読んだ。「撫でてみる」は「触る」である。そうして、触っていると、
その中に満ちていたものがいまではじかに「ぼく」に触れる
というのなら、わかる。
「肉体」はもう触っても何の意味もない。そこには「君」はもういない。「肉体」はすでに用をなさない「物体」になってしまっている。しかし、まだ「精神」は生きている。「肉体」が死んでしまったあと、君の肉体に触ると、その奥から「君の精神」があらわれてきて、それに直に触っている感じがする。
私は文脈から、無意識にそんなふうに読んでいたのだが、実際は違う。嵯峨は「君に触れる」と書いている。
これは、どういうことだろう。書きまちがいだろうか。書きまちがいなら、なぜ書きまちがえたのか。書きまちがえでないなら、どう読めばいいのだろうか。
冒頭にもどってみる。
なにも考えてはいけない
また悲しんではならない
この二行には「主語」が省略されている。「主語」は何だろうか。「君」か「ぼく」か。三行目には「君はどこか遠くへ旅立たねばならなぬ」とある。「君は」の「は」は対比をあらわしているのだろう。そうだとすると、前の二行は「ぼくは」が省略されているということになるかもしれない。「ぼくはなにも考えてはいけないし、悲しんではならない」。なぜなら「君は遠くへ旅立つ」。悲しめば、君の旅立ちを邪魔することになる……というような「意味合い」がそこには含まれていると思う。
なぜ、こんなことを書いたかというと……。
ひとはときどき「わかりきったこと」を省略してしまう。無意識のうちに、私たちはことばを省略しながら、意識をすばやく動かしている。すばやく動かすために、ことばを省略しているとも言える。そのとき省略されるのは、発話者にとって、それが自明のことである。冒頭のに二行で「ぼく」という主語が省略されたのは、「ぼく」が自明のことだからだ。友の死に直面している「ぼく」。「ぼく」が友の死に直面していることはわかりきっている。だから省略した。省略することで、そこで起きていることの中へすばやく入っていくのである。大事なことであればあるほど、ひとはことばを省略して、すぐに動いてしまう。ことばを動かしている時間がもったいない。
問題の行でも、「主語=ぼく」が省略されているのである。
もしそうであるなら、
その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる
には「ぼく」はどんなことばといっしょに、どこに省略されていることになるだろうか。
私は次のように補って読む。
その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が、いまでは君の本質を隠していた「器」を突き破って表面に出てきている。そこに君の本質があらわになっている。その君の本質に(=君に)、ぼくはじかに触れる。ぼくは、じかに君(の本質)に触れる。
その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が(露出しているので)、いまでは(ぼくは)じかに君(の本質である精神/感情)に触れる
「ぼく」にとって「君=鈴木俊光」の「本質」は「肉体」ではなく「精神」である。それは自明のことである。だから「精神」ということばが省略された。「君」と「精神」は同じことばなのだ。その精神に触れるとは、君に触れることである。君に触れるのは「ぼく」である。自明のことだから、ことばが省略され、そのため一行だけを取り出すと「文法的」にはおかしなことばになっているのである。
嵯峨は君の死を悼んでいる。それは君の精神の死を悼んでいるということである。しかし、肉体は滅んでも精神はことばとなって残る。だからこそ、嵯峨は最後に、次のように書く。
ああ ぼくには見える
自画像を高く掲げようとよろめいている君を背後からそつと支えている一つの大きな手を……
「自画像」とは「精神/本質」のことである。「大きな手」は、いわゆる「神の手」のようなものを想定することもできるが、私は、これを嵯峨自身の手と読みたい。君は死んだ。しかし君が掲げた精神の運動(ことば)/君自身を支える一つの手になりたいと嵯峨は決意を語っていると読みたい。
ここでも「ぼく」という「主語」は省略され、見えにくくなっている。そういう「決意」を語ることは差し控えたいので「一つの大きな手」と、「神」を連想させることばで「ぼく」を隠していると言えるかもしれない。
そのとき「君」と「ぼく」は精神的には「一つ(一体)」になっている。その「一体感」からひるがえって問題の行を読むとどうなるだろう。
その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が(ぼくに触れ)、(その反映として)いまでは(ぼくは)じかに君(の本質である精神/感情)に触れる
「人」という文字が互いに支えあって成り立っているように、「一体」になった嵯峨と鈴木は、君(鈴木)がぼく(嵯峨)に触れ、ぼくが君に触れるという具合に、「触れる」という「動詞」なのかで出会っているのかもしれない。「触れる」という「動詞」のなかで「君とぼく/ぼくと君」は省略された形で「一体」になっているのだろう。
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