詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(58)

2015-05-03 19:35:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(58)

104 菖蒲の花

暗い水の中から
あの大きな菖蒲の花は咲きでる
命をそろえて紫いろに重く咲きでている
問いはそのまま誰にも向けられず
打ち倒された死者の冠となる

 「命をそろえて」の「そろえる」という動詞が強い。何本も並んで咲いている状態を「そろえて」と言っているようにも見えるが、それだけではない。水の中から茎を伸ばし、葉を伸ばし、つぼみをつけ、花を広げるという「命」の「動き」をそろえている。整えている。「命をそろえる」は「命の動きをそろえる」なのだと思う。「咲く」という「動詞」をそろえるのである。
 その直前の「あの」ということばが、また強い。「あの」というのは先行する名詞があって、それを指し示すのが普通だが、ここでは先行する菖蒲の花は書かれていない。「あの」は、読者が思い出すことを想定して「あの」と読んでいる。
 「思い出す」というのは、そこにないものを「思い出す」ということ。直接見えないものを「思い出すこと」。そういう意識の働き、意識の動きが、やはり直接眼では見えない「命の動き」を見つめ、そこから「そろえる」という動詞を掴み出している。
 「あの」は何気なく書かれているように見えるが、「あの」がないと視点は一点に集中しにくい。「あの」によって一点に集中し、その集中力が「命」の動きを見てしまうのだ。
 ここには「命とは何か」という問いが隠されている。「命とは、何かをそろえて(ととのえて)動く」ものなのだ、という答えも隠されていることになるかもしれない。「命とは何か」という問いがあるからこそ、「死(者)」ということばもひっぱり出されてくる。「命」と「死」をむすぶことばとして「重く」ということばも動くのだ。
 暗い水中と明るい地上、命と死という「対」が固く結びついて、菖蒲の花を印象的にしている。

105 箴言

愛はある周辺から始まるが
死は直接その中心にむかつてやつてくる。

 「対」になったことば。「愛」と「死」が「対」になり、「周辺」と「中心」が「対」になっている。
 二行目の「その中心」の「その」とは何だろうか。「人間の」だろうか。「命の」だろうか。そうであるなら一行目の「ある周辺」の「ある」は「人間の」「いのちの」ということになるだろう。
 死が「(人間の)中心にむかつてやってくる」なら、愛は「(人間の)周辺から、さらに広がっていく(自分から出て行く)」ということになるのだろうか。
 この二行は次のように言い換えられている。

愛は所有のたえざるくりかえしだが
死は所有そのものをしずかに所有する

 愛は、周辺から広がってゆき(手を伸ばして)、対象を手に入れようとする。所有しようとする。--この三行目は、そういうふうに読むことができる。
 では、四行目は?
 「所有そのものを」「所有する」。この、同義反復のようなことばは、むずかしい。自分以外のものに手を伸ばし「対象」を所有するのではなく、自分がすでに持っている「命」だけを所有する。死は、自分だけのものである、という意味なのだろうか。
 自分の持たないもの(対象)と自分の持っているもの(命)が「対」になっているのだろうか。
 「対」に意識が向いてしまうと、どうしても「名詞」の「対」を考えてしまうが「所有する」という「動詞」に目を向けて「対」を考えるとどうなるだろうか。
 愛とは自分以外の存在(対象)に向かう動き。「自分の周辺」を拡大し、相手を自分の「領土(?)」のなかに取り込み、一体になる動き。「外」を「内部」にする動き。
 一方、死は「外部」には手をつけない。ただ自分の「内部」だけを問題にし、「外部」には向かわない。
 周辺からさらに外に向かう動きと、周辺から中心へ向かう動き。その反対の動きが「対」になっている。

愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる
死は愛に近づきつつ遠ざかる
そして人間はその二つのものの唯一の通路である

 これは先の四行をどう言いなおしたものだろうか。「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」はむずかしい。いったん、「意味」を保留しよう。
 「死は愛に近づきつつ遠ざかる」とは、誰かを愛したとき、死を忘れてしまうということかもしれない。自分がやがて死ぬことを忘れてしまって(意識から遠ざけてしまって/これは詩の意識が遠ざかると同じ意味になる)、ただ愛に夢中になるということか。
 そうなら「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」は人間はやがて死んでしまう運命にあるのに、その運命(目的地?)を忘れてしまうということだろうか。
 ここにも、明確なことばにはしにくいけれど「対」がある。そしてその「対」は人間という「ひとつ」の「通路」でつながっている。最終行は、そう書いているのだろう。「対」と私が呼んでいるものを嵯峨は「二つのもの」と書いている。二つのものとは「愛」と「死」である。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『詩に就いて』(4)

2015-05-03 10:27:25 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(4)(思潮社、2015年04月30日発行)



朝陽

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

犬にも人間にも
名前を代入せずに
その情景を傍観して
詩が成立するかどうか
考える

詩は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが人間

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

朝陽が眩しい

 一連目と四連目は同じことばでできている。これはリフレインなのか。なぜ、同じことばを書いたのか。一回読んだだけではわからない。二度読んでもわからない。何度読んでも、ただ読むだけではわからない。考えないといけない。
 でも何を考える? なぜ考える? 詩は考えなくてもいいものではないだろうか。考えて、意味をつくり出さなくてもいいものではないのか。そんな疑問がふと湧くのだけれど、考えてしまう。そうすると、一連目の、ごくありふれた犬と人間の散歩の風景に対して書いている二連目が気になる。
 谷川は詩について考えている。この詩集は「詩について」書かれている。だから谷川が詩について考えるのは必然なのだけれど……。
 それは前に書いた三行の情景についての考えなのか。それとも三行のことばについての考えなのか。これは、ちょっとむずかしい。判断に困る。
 さらに谷川の考えていることが、その対象が、情景とも三行のことばとも違っていることが問題を複雑にしている。情景には詩(情)がある。その詩(情)をどうことばにしたら詩(作品)になるのか。そのことばの問題を「名前」に限定して考え直している。「名前」を「代入」しなくても「詩が成立するかどうか」を考えている。
 一連目には、犬にも人間にも「名前」がない。この状態でも、この三行は詩(作品)なのか、あるいは詩情を書いただけで詩には達していない(詩)情景なのか。
 その「問い」に対して三連目で谷川はひとつの「答え」を書いていることになるのだが、それを読む前に、二連目に書かれていることを私なりに考えてみたい。谷川が問題にしている「名前」について考えてみたい。
 「名前」とは固有のもの。固有名詞のことだろう。犬なら、たとえばネロ。人間なら、たとえば谷川俊太郎。
 固有名詞が書かれていない一連目を読むとき、私は、どこかで見かけた名前を知らない犬と人間の姿を思い浮かべる。「一般名詞」として思い浮かべる。「一般名詞」というのは「名詞」であるけれど「名詞」に重点が置かれているのではなく、その「名詞」といっしょに動いている「動詞」に重点が置かれているのだと感じて、そこに書かれていることを読む。「うしろについて/ちょこちょこ歩いて行く」という関係(人間が前/犬が後ろ)と動詞(歩いて行く)を思い浮かべる。
 一連目を読んで、名前を知っている犬と飼い主を思い浮かべたとしても、そこから「名前」をとりさって、犬と人間の「歩き方」を思い浮かべる。そこに「名前」が書かれていないのだから、わざわざ「名前」を「代入」しようとは思わない。
 そして「名前」がなくても情景が浮かぶのだから、私は「名前」を「代入」しなくてもことばは成立していると考える。ことばが成立しているなら(ことばが情景/詩情をつたえることができるのなら)、そこには詩(作品)も同時に存在していると考える。
 「名前」とは個人的な思いが濃厚に存在する対象を意味する。個人的な思いが強いとき、どうしても対象を「名前」で呼ぶ。そういう強い思いも詩であるかもしれないが、この谷川の作品では「対象」そのものではなく、犬と人間の「関係」を描いている。詩人と対象との関係ではなく、そこにあある(いる)対象(意味)と対象(人間)の関係を書いているのだから、そこには「名前」は必要がない。「名前」をつけると、対象と対象の関係ではなく、対象と谷川との関係になってしまう。
 対象(犬)と対象(人間)の関係を書こうとしているからこそ、「小さな」ということばと「大きな」ということばの「対比」が描かれる。関係を浮かび上がらせる(明確にする)ことばが動く。さらに「うしろ」と書くことで「後ろ」と「前」の「対比」が描かれ、「ちょこちょこ」と書くことで「ちょこちょこ」と「ちょこちょこではない」対比が描かれる。「対」が明確にされる。
 そんなふうに、ていねいに「対」という「詩の論理」を登場させながら、なぜ、谷川は二連目の「問い」を書いたのか。三連目の「答え」を書くために、わざと「問い」を書いたのだ。

詩は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが人間

 これが谷川の、「詩に就いて」の「考え」だ。詩は「無言」である。その「無言」にことばを与え、無言ではなくする。無言の状態から引き出す。それが詩人。詩人は、ことばで詩を生み出すのである。
 この二行を

詩(情)は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが(詩人という)人間
そして、その言葉が詩(作品)

 と書き直してみると谷川の考えていることがよくわかる。
 そう考えた上で、私はまた別のことも考える。
 ここにでてきた「無言」。これは「名前」と対になっている。
 「名前」を持たないものが「無言」。「無名」を谷川は「無言」と言い換えている。「名前」は自分から「名乗る」もの。名乗らないかぎり(無限であるかぎり)無名。ということは「無名」のものは「名前」を持たないということになる。
 「名前」はまた一方で「名づける」ときにも存在する。「名前」を持たないというのは、詩人が「名づけなかった」ということ。詩人とどんな「関係」も持たないということ。「関係」があれば、その「対象」には「名前」がある。
 そう考えるとき、ちょっとした矛盾が生まれてくる。もし、詩人が「無言」のものに「言葉を与える」なら、その瞬間に「無言の対象」は「名前」を持つことになるのではないのか。「言葉」は「名前」のかわりに与えられた「愛情(愛着)」のようなものである。「名前」と呼ばれないだけで、「言葉を与え」ることは「名前」を与えたことと同じ意味働き)を持つのではないのか。それならばいっそう簡単に「名前」を与え、「名づける」と「言葉を与える」の関係をひとつにしてしまえばいいのではないのか。「名前」をつけない(代入しない)ままでも、それは「言葉を与えた」ことになるのか。そういう疑問が生まれる。眩暈のような矛盾が生まれてきてしまう。
 「犬」と「人間」に「名前」を与えないかぎり、確固とした詩にならないのか。詩は成立しないのか。疑問は二連目に戻ってしまう。循環してしまう。
 この矛盾を、谷川は四連目で、一連目を反復することで乗り越えようとしている。独特の「弁証法」で二連目、三連目の「矛盾」を「止揚」しようとしている。

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

 犬にも人間にも「名前(言葉)」を与えていない。しかし、その三行は「詩」として書かれている。谷川は何に「言葉」を与えたのか。
 一連目の三行の「構造」について書いたとき、すでに触れてしまったのだが、谷川は「関係」に「言葉を与えた」のである。犬と人間に「小さな」と「大きな」という「言葉を与え」、その関係を明確にした。さらに「うしろ/前」「ちょこちょこ/ちょこちょこではない」という「言葉を与えた」。「前」「ちょこちちょこではない」ということばは直接的には書かれていないが、それを読んだひとは無意識にそれを思い出す。だから「言葉を与えた」といってもかまわない。
 そこにある「存在」の「関係」に「言葉を与える」ということは、そういう「関係」と谷川のあいだに「関係」がつくり出されるということでもある。犬を「小さな」と認識する「関係」、人間を犬よりも「大きい」と認識する「関係」。--こういうことを「関係」ということばでは表現しないのが一般的かもしれないが、私は「関係」と呼びたい。「うしろ/前」も「ちょこちょこ/ちょこちょこでない」という識別の仕方、それが谷川がこの情景との「関係」なのだ。

 四連目を読むとき、どうやって読むか。ここで、飛躍して、私の読み方を書いてみる。四連目は一連目の繰り返しである。読まなくても「わかる」。読まなくても「わかる」のだから、私は、この四連目を「ことばを排除して」読む。
 つまり。
 ことばではなく、犬、人間、うしろ、ちょこちょこ、歩くということばではなく、直接、自分の肉体がおぼえている「情景」そのものを見る。実際、そういう情景を、私はことばに頼らずにおぼえている。無意識という感じでおぼえている。
 谷川のことばを読んだら、その情景、私がおぼえている情景が、おぼえているままの形であらわれた。その情景は谷川の見た(書いている)情景と同じではないが、つまり、私は谷川といっしょに同じ情景を見たことはないのだが、ここに書かれている情景はこれだと思ってしまう。
 他人のことば、谷川のことばが、そのとき谷川のことばではなく、私自身のことばになって肉体に直接働きかけている。この「直接性」が、きっと詩なのである。
 さらにまた別の読み方もしてみる。谷川の書いている犬と人間から、私の実際に知っている犬と人間を思い出してみる。まろ(チワワ)と原田さん。わん太と私を見ると、まろは走ってきてわんわん吠える。「来るな、来るな」と警告する。そして原田さんに呼ばれると大急ぎで戻って行く。うしろをちょこちょこと歩いていく。「名前」を与えながら、私は谷川の書いていることを、私の「個人的」な生活に変えてしまう。そして、いま書いたように、そのことばが実際の生活のなかで動くことを確かめながら、それが自分のことばになっていくのを感じる。谷川は消え、ことばと私が「直接」結びついて、そのことばが私の生活を整えていくのを感じる。
 ことばの「直接性」の体験。
 そういう「直接性」のなかで、谷川が消えるというのは、ことばが消えてしまうということでもある。実際、四連目を読むとき、その一行一行を意味を点検しながら読まないでしょ? すでに読んだ一連目を思い出しながら、ぱっと読みとばすでしょ? ことばは書かれているが、ことばは消えている。「情景」のなかに完全に消えてしまう。そうすると「情景」も突然、消えてしまう。「情景」が「肉体」のなかに入ってしまう。いままでことばで追いかけてきたことがすべて消えてしまう。ことばが「肉体」になってしまうといってもいいのかもしれない。
 そうすると、ことばが、生まれ変わってしまう。

朝陽が眩しい

 突然、別の情景が、ことばとなって動く。いままで書かれてこなかった詩(情)が詩(作品)として噴出してくる。
 谷川の詩には、こういう「場面転換」のような描写が多いが、それは、それまで書いてきたことばがそこで終わっているからなのだ。

詩に就いて
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする