嵯峨信之を読む(58)
104 菖蒲の花
「命をそろえて」の「そろえる」という動詞が強い。何本も並んで咲いている状態を「そろえて」と言っているようにも見えるが、それだけではない。水の中から茎を伸ばし、葉を伸ばし、つぼみをつけ、花を広げるという「命」の「動き」をそろえている。整えている。「命をそろえる」は「命の動きをそろえる」なのだと思う。「咲く」という「動詞」をそろえるのである。
その直前の「あの」ということばが、また強い。「あの」というのは先行する名詞があって、それを指し示すのが普通だが、ここでは先行する菖蒲の花は書かれていない。「あの」は、読者が思い出すことを想定して「あの」と読んでいる。
「思い出す」というのは、そこにないものを「思い出す」ということ。直接見えないものを「思い出すこと」。そういう意識の働き、意識の動きが、やはり直接眼では見えない「命の動き」を見つめ、そこから「そろえる」という動詞を掴み出している。
「あの」は何気なく書かれているように見えるが、「あの」がないと視点は一点に集中しにくい。「あの」によって一点に集中し、その集中力が「命」の動きを見てしまうのだ。
ここには「命とは何か」という問いが隠されている。「命とは、何かをそろえて(ととのえて)動く」ものなのだ、という答えも隠されていることになるかもしれない。「命とは何か」という問いがあるからこそ、「死(者)」ということばもひっぱり出されてくる。「命」と「死」をむすぶことばとして「重く」ということばも動くのだ。
暗い水中と明るい地上、命と死という「対」が固く結びついて、菖蒲の花を印象的にしている。
105 箴言
「対」になったことば。「愛」と「死」が「対」になり、「周辺」と「中心」が「対」になっている。
二行目の「その中心」の「その」とは何だろうか。「人間の」だろうか。「命の」だろうか。そうであるなら一行目の「ある周辺」の「ある」は「人間の」「いのちの」ということになるだろう。
死が「(人間の)中心にむかつてやってくる」なら、愛は「(人間の)周辺から、さらに広がっていく(自分から出て行く)」ということになるのだろうか。
この二行は次のように言い換えられている。
愛は、周辺から広がってゆき(手を伸ばして)、対象を手に入れようとする。所有しようとする。--この三行目は、そういうふうに読むことができる。
では、四行目は?
「所有そのものを」「所有する」。この、同義反復のようなことばは、むずかしい。自分以外のものに手を伸ばし「対象」を所有するのではなく、自分がすでに持っている「命」だけを所有する。死は、自分だけのものである、という意味なのだろうか。
自分の持たないもの(対象)と自分の持っているもの(命)が「対」になっているのだろうか。
「対」に意識が向いてしまうと、どうしても「名詞」の「対」を考えてしまうが「所有する」という「動詞」に目を向けて「対」を考えるとどうなるだろうか。
愛とは自分以外の存在(対象)に向かう動き。「自分の周辺」を拡大し、相手を自分の「領土(?)」のなかに取り込み、一体になる動き。「外」を「内部」にする動き。
一方、死は「外部」には手をつけない。ただ自分の「内部」だけを問題にし、「外部」には向かわない。
周辺からさらに外に向かう動きと、周辺から中心へ向かう動き。その反対の動きが「対」になっている。
これは先の四行をどう言いなおしたものだろうか。「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」はむずかしい。いったん、「意味」を保留しよう。
「死は愛に近づきつつ遠ざかる」とは、誰かを愛したとき、死を忘れてしまうということかもしれない。自分がやがて死ぬことを忘れてしまって(意識から遠ざけてしまって/これは詩の意識が遠ざかると同じ意味になる)、ただ愛に夢中になるということか。
そうなら「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」は人間はやがて死んでしまう運命にあるのに、その運命(目的地?)を忘れてしまうということだろうか。
ここにも、明確なことばにはしにくいけれど「対」がある。そしてその「対」は人間という「ひとつ」の「通路」でつながっている。最終行は、そう書いているのだろう。「対」と私が呼んでいるものを嵯峨は「二つのもの」と書いている。二つのものとは「愛」と「死」である。
104 菖蒲の花
暗い水の中から
あの大きな菖蒲の花は咲きでる
命をそろえて紫いろに重く咲きでている
問いはそのまま誰にも向けられず
打ち倒された死者の冠となる
「命をそろえて」の「そろえる」という動詞が強い。何本も並んで咲いている状態を「そろえて」と言っているようにも見えるが、それだけではない。水の中から茎を伸ばし、葉を伸ばし、つぼみをつけ、花を広げるという「命」の「動き」をそろえている。整えている。「命をそろえる」は「命の動きをそろえる」なのだと思う。「咲く」という「動詞」をそろえるのである。
その直前の「あの」ということばが、また強い。「あの」というのは先行する名詞があって、それを指し示すのが普通だが、ここでは先行する菖蒲の花は書かれていない。「あの」は、読者が思い出すことを想定して「あの」と読んでいる。
「思い出す」というのは、そこにないものを「思い出す」ということ。直接見えないものを「思い出すこと」。そういう意識の働き、意識の動きが、やはり直接眼では見えない「命の動き」を見つめ、そこから「そろえる」という動詞を掴み出している。
「あの」は何気なく書かれているように見えるが、「あの」がないと視点は一点に集中しにくい。「あの」によって一点に集中し、その集中力が「命」の動きを見てしまうのだ。
ここには「命とは何か」という問いが隠されている。「命とは、何かをそろえて(ととのえて)動く」ものなのだ、という答えも隠されていることになるかもしれない。「命とは何か」という問いがあるからこそ、「死(者)」ということばもひっぱり出されてくる。「命」と「死」をむすぶことばとして「重く」ということばも動くのだ。
暗い水中と明るい地上、命と死という「対」が固く結びついて、菖蒲の花を印象的にしている。
105 箴言
愛はある周辺から始まるが
死は直接その中心にむかつてやつてくる。
「対」になったことば。「愛」と「死」が「対」になり、「周辺」と「中心」が「対」になっている。
二行目の「その中心」の「その」とは何だろうか。「人間の」だろうか。「命の」だろうか。そうであるなら一行目の「ある周辺」の「ある」は「人間の」「いのちの」ということになるだろう。
死が「(人間の)中心にむかつてやってくる」なら、愛は「(人間の)周辺から、さらに広がっていく(自分から出て行く)」ということになるのだろうか。
この二行は次のように言い換えられている。
愛は所有のたえざるくりかえしだが
死は所有そのものをしずかに所有する
愛は、周辺から広がってゆき(手を伸ばして)、対象を手に入れようとする。所有しようとする。--この三行目は、そういうふうに読むことができる。
では、四行目は?
「所有そのものを」「所有する」。この、同義反復のようなことばは、むずかしい。自分以外のものに手を伸ばし「対象」を所有するのではなく、自分がすでに持っている「命」だけを所有する。死は、自分だけのものである、という意味なのだろうか。
自分の持たないもの(対象)と自分の持っているもの(命)が「対」になっているのだろうか。
「対」に意識が向いてしまうと、どうしても「名詞」の「対」を考えてしまうが「所有する」という「動詞」に目を向けて「対」を考えるとどうなるだろうか。
愛とは自分以外の存在(対象)に向かう動き。「自分の周辺」を拡大し、相手を自分の「領土(?)」のなかに取り込み、一体になる動き。「外」を「内部」にする動き。
一方、死は「外部」には手をつけない。ただ自分の「内部」だけを問題にし、「外部」には向かわない。
周辺からさらに外に向かう動きと、周辺から中心へ向かう動き。その反対の動きが「対」になっている。
愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる
死は愛に近づきつつ遠ざかる
そして人間はその二つのものの唯一の通路である
これは先の四行をどう言いなおしたものだろうか。「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」はむずかしい。いったん、「意味」を保留しよう。
「死は愛に近づきつつ遠ざかる」とは、誰かを愛したとき、死を忘れてしまうということかもしれない。自分がやがて死ぬことを忘れてしまって(意識から遠ざけてしまって/これは詩の意識が遠ざかると同じ意味になる)、ただ愛に夢中になるということか。
そうなら「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」は人間はやがて死んでしまう運命にあるのに、その運命(目的地?)を忘れてしまうということだろうか。
ここにも、明確なことばにはしにくいけれど「対」がある。そしてその「対」は人間という「ひとつ」の「通路」でつながっている。最終行は、そう書いているのだろう。「対」と私が呼んでいるものを嵯峨は「二つのもの」と書いている。二つのものとは「愛」と「死」である。
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