詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(2)

2015-05-01 09:55:06 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(2)(思潮社、2015年04月30日発行)

 「論理」というのは言い直しの積み上げ、ひとつのことを少しずつ変化させて繰り返し、その変化のなかにひとつながりの「道」のようなものをつくることである。その「道」の到達点、あるいは目指しているものによって、「論理」そのものの「価値」が判断されたりする。そしていったん到達点(目標)の「価値判断」が確立されると、もう「道(論理の過程)」はたどりなおされることはなく、「到達点」だけが共有されてしまうということがおきる。「過程」をそれぞれが自分で歩いてみないことにはそこにほんとうに到達できるかどうかわからないのに、到達してしまった気持ちになる。「論理」の落とし穴だ。「論理」は、「到達点」の評価(価値判断)とは別に、「過程」そのものを追いなおして、そこに何がおこなわれていたかを見なければならない。
 「論理」は言い直し、繰り返し。ということは、言い直しや繰り返しがあるなら、そこに「論理」があるということにもなる。詩は「リフレイン」のようなあまりにも明確な繰り返しがあるが、それとは別に少しずつことばを変化させ、説明するという言い直し、繰り返しがある。そこには「論理」と意識されないかもしれないが、「論理」がある。
 谷川は、そういう「論理」を動くことが多い。



台が要る

机が要る
テーブルが要る
椅子でもいい
何か台になるもの
紙を載せるためのもの
黄ばんで破れかかって
詩らしい文字が認めてある紙
真新しい印刷されたばかりの紙も
載せておかねばならない
出来合いの机に
でなければテーブル
でなければ廃材で作られた不格好な台に
むしろ海とか空そのものに
詩を載せる
一篇二篇三篇でいい
もしかすると空のテーブルには
始めから載っているのかもしれない
詩が
無文字の詩が
のほほんと

 この詩のなかの「論理」を追ってみる。
 「机」は「テーブル」と言いなおされる。一枚の板が上にあり、その下に脚がついている家具。それが「椅子」とさらに言いなおされる。机からテーブルの言い直しは、ほとんど変化がない。ところが椅子は違う。ひとは基本的には机やテーブルには座らない。しかし椅子には座る。こういう違ったもののなかをことばが動くとき、何もしないと、「意味」がわからない。
 おいおい、机(テーブル)が要るのか、椅子が要るのか、どっちだ。
 だから谷川は、椅子を説明しなおし、同時に机、テーブルも言いなおす。「台」と言いなおす。必要なのは「台」である。台とは何か。台とは何かを「載せる」道具。「載せる」という「動詞」で説明し直す。そうすると「載せる」という「動詞」が机、テーブル、椅子、台をまっすぐにつなげる。「道」ができる。これが「論理」というものである。
 「載せる」ために「台」になるようなものが必要である。
 ここからまた別の「論理」が動きはじめる。台の上に何を載せるのか。「紙」と書かれ、「黄ばんで破れかかって(いる紙)」と言いなおされ、さらに「詩らしい文字が認めてある」と言いなおされる。「黄ばんで破れかかって」いる紙は、「真新しい印刷されたばかりの紙」と対比される。古い紙と新しい紙。その「対」のあいだに「文字(詩)」「印刷」が、もうひとつのつながり(道)を浮かび上がらせる。古い、新しいという区別を超えて、文字/詩が浮かび上がる。詩の書いた紙を載せるために台が必要だ、と谷川は言っている。
 こういうことを言うために、谷川は同じようなことば(机、テーブル)を繰り返し、それに異質なもの(椅子)をぶつけて、余分なものを削ぎ落とす。そしていくつかの名詞をつないでいる共通の動詞「載せる」を浮かび上がらせる。「詩(文字)」を浮かび上がらせるときも古い紙と新しい紙をぶつけて、反対なのに共通するものを探し出している。ここに詩の探し方の「論理」がある。
 このあと、谷川はもう一度、いま書いたことを繰り返す。繰り返すことで別な世界へ入っていく。書き出しの「机」は「出来合いの机」に言い換えられる。「台」は「廃材で作られた不格好な台」と言い換えられる。繰り返しのなかに、いままでなかったものが紛れ込んでくる。これは繰り返しによって「意味」が固定されてしまうのを防ぐためだ。詩を「載せる」ための台では、台の「意味」が限定されておもしろくない。「論理」になりすぎる。その「論理」を破るために、「出来合い」とか「廃材で作られた」ということばが動く。そういうことばに出会うと、一瞬、「載せる」という動詞がひきつれている手近なものがふっと消える。修飾語によって意識が撹拌される。「論理」が一瞬ゆるむといえるかもしれない。「出来合いの」「廃材で作られた不格好な」ということばは、意識を論理から積極的にずらしていく、論理を砕くための表現である。そういうことばで谷川はいままで追ってきた論理とは別なところへ視線を動かそうとしている。
 そうやって、視線を揺さぶって、意識をゆるませておいて

むしろ海とか空そのものに

 という行が突然出てくる。「海」も「空」も「台」とは無関係である。机もテーブルも椅子も台も人間が作ることができるものである。海、空はつくれない。そんなものが机、テーブル、椅子、台の代わりになるものとして突然出てきては「論理」が破綻する。「論理」にならない。
 「論理」にならないはずなのだけれど、谷川は「論理」にしてしまう。

詩を載せる

 「詩」という名詞、さらに「載せる」という動詞によって、そこに書かれていることを最初に書いたこととつないでしまう。
 強引だが、こがおもしろい。こういう強引さと、海、空ということばが結びつくところが谷川のひとつの特徴だと思う。 たれでも知っているもの(ことば)をつかって強引さを隠しているところがある。
 「詩」「載せる」ということばで「論理」をつなぐと同時に、それを「切断」してしまう。ひっくりかえしてしまう。言い直し、繰り返し、つないできた「道」を叩き壊して、別な世界を展開する。「論理」の否定が詩ということになる。

もしかすると空のテーブルには
始めから載っているかもしれない

 詩は空のテーブルに載っている。テーブルは必要がない。「机が要る/テーブルが要る」と書き出したのに、違うことを言っている。「矛盾」している。あるいは「脱線」してしまっている。「論理」のたがが外れて、谷川の「肉体」のなかに動いていたものが暴走している感じだ。
 しかし、この変化を「矛盾」とか「脱線」という前に、私は驚いてしまう。暴走にうれしくなってしまう。「海とか空」ということばが出てきたときにびっくりしたが、ここでは「空のテーブル」ということばを読んだ瞬間、空がテーブルに見えたし、そこに詩が載っているというのはいいなあと思ってしまう。それまでの「論理」を忘れて、論理にならないものに(論理では追いきれないものに)、我を忘れてしまう。「我を忘れる」と「論理を忘れる」が区別がつかなくなる。こういう「めちゃくちゃ(論理にならないところ)」に詩(情)がある。
 何に感動しているのかな? 自分自身を見つめなおしてみる。「空のテーブル」という突然のことばにびっくりしている。それから「始めから」ということばにも驚いている。「始めから」とは、「黄ばんだ紙」とか「真新しい紙」というような変化とは関係のない「本質」のことなのだろう。「本質」として空のテーブルには詩が載っているのだ。
 詩、といいながら、谷川はそれをさらに否定してみせる。

無文字の詩

 最初の方には「詩らしい文字」「印刷されたばかり」の文字が出てくるが、ここでは「無」文字になっている。このとき「無」は何もないということとは違うかもしれない。何もないなら詩もない。何かあるのだけれど、まだ、世間で流通している「文字(ことば)」になっていない、という状態を「無文字」と呼んでいるのだろう。その存在に気づき、それをことばにする。そうするのが詩人。そうやって生まれてくるのが詩ということになる。
 「出来合いの」移行の繰り返しと脱線(暴走)のなかに「論理では」(散文では)汝切れない詩があると思う。

詩に就いて
クリエーター情報なし
思潮社
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嵯峨信之を読む(56)

2015-05-01 06:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(56)

100 言葉

ひとすじに遠く言葉をつたえながら
いたるところで数々の世界がつくられる

 「遠く」とは、そのことばがまだ届かないところだろう。あるいは、そのときことばはまだことばになっていないかもしれない。「遠く」、遠いところにあることばを聞き取り、それを自分のなかで言いなおすと読むと、それは詩との出会いになるかもしれない。
 そんなことを思うのは、次の四行があるからだ。

さつきまでたれかが腰掛けていた揺り椅子が
廊下のはずれでまだ静かに揺れている
そのひとはふいにある言葉をおもいついて外へ出ていつたのだ
それつきりどこかで別の世界がひらけはじめたのだろう

 「遠く」は「廊下のはずれ」と言いなおされている。そこで誰かが「ことば(声)」を聞いた。それに誘われて出ていった。聞いたことばなのだが、自分で「おもいついた」と言い換えてもいいような密着感がある。
 詩のインスピレーションのようなものだ。
 そのことばから「別の世界」(新しい世界)が始まる。

101 旅情

ぼくにはゆるされないことだつた
かりそめの愛でしばしの時をみたすことは
それは椅子を少しそのひとに近づけるだけでいいのに
ほんとうにそんな他愛もないことなのに

 三行目の具体的な描写、椅子ということばが落ち着いて聞こえる。椅子に座っている。動かない。動かない距離の近さがある。
 この距離の近さの喜びと不安は二連目で水車小屋の風景にかわる。

ぼくたちは大きく廻る水車をいつまでもあきずに見あげた
いわば一つの不安が整然とめぐり実るのを
落ちこんだ自らのなかからまた頂きにのぼりつめるのを

 そのとき二人は座ってみているのだが、この「座る」と一連目の「椅子」は、しかし、わたしにはしっくりこない。水車小屋の前で座るとき、そこに「椅子」はあるのだろうか。実際の体験ではなく、架空のことを書いたために、ことばが通い合わなくなっているのだろうか。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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