嵯峨信之を読む(70)
117 決別
「ぼく」と「きみ」が出てくる。
「ぼく」と「きみ」は同一人物である。「ぼく」が「きみ」を脱け出すとは、「ぼく」が「故郷」を脱け出すという具合にも読むことができる。
「きみ=故郷」は日に一度「きみ」ではなく「ぼく」になる。「故郷」を脱け出していくことを夢見る「ぼく」に。そのとき「きみ」はどうしているか。
「麦の野」で眠ってる。この「きみ」を「故郷」と言いなおすと、
故郷を捨てる嵯峨の姿がくっきりと見えてくる。「狂つた」とか「悲しげ」という否定的な修辞がついてまわっているのは、「故郷」を切り捨てるための「方便」、自分を納得させるための「方便」である。
「故郷」と書かずに「きみ」と書いたのは「故郷」を人称化しているということだけではない。「ぼく」の「分身=きみ」は、「ぼく」が去ったあともずっと「故郷」にいるからである。
この詩は実際に嵯峨が故郷を離れるときに書いたのではなく、故郷を離れててから書いたものだろう。それなのに、いま、まさに故郷を離れるときの切なさがあふれているのは、「ぼく」の分身の「きみ」がいまも故郷にいるからにほかならない。
117 決別
「ぼく」と「きみ」が出てくる。
きみは日にたつた一度だけきみではない時がある
その短いあいだにぼくはすばやくきみを脱け出してしまう
「ぼく」と「きみ」は同一人物である。「ぼく」が「きみ」を脱け出すとは、「ぼく」が「故郷」を脱け出すという具合にも読むことができる。
「きみ=故郷」は日に一度「きみ」ではなく「ぼく」になる。「故郷」を脱け出していくことを夢見る「ぼく」に。そのとき「きみ」はどうしているか。
狂つた麦の野でいつまでも睡りつづけるきみよ
衰えた太陽を悲しげに抱いているきみよ
ぼくは遠くからきみを振りかえつて
ふたたび背をむける
「麦の野」で眠ってる。この「きみ」を「故郷」と言いなおすと、
狂つた麦の野でいつまでも睡りつづける故郷よ
衰えた太陽を悲しげに抱いている故郷よ
ぼくは遠くから故郷を振りかえつて
ふたたび背をむける
故郷を捨てる嵯峨の姿がくっきりと見えてくる。「狂つた」とか「悲しげ」という否定的な修辞がついてまわっているのは、「故郷」を切り捨てるための「方便」、自分を納得させるための「方便」である。
「故郷」と書かずに「きみ」と書いたのは「故郷」を人称化しているということだけではない。「ぼく」の「分身=きみ」は、「ぼく」が去ったあともずっと「故郷」にいるからである。
この詩は実際に嵯峨が故郷を離れるときに書いたのではなく、故郷を離れててから書いたものだろう。それなのに、いま、まさに故郷を離れるときの切なさがあふれているのは、「ぼく」の分身の「きみ」がいまも故郷にいるからにほかならない。
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