詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(57)

2015-05-02 11:58:18 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(57)

102 こおろぎ 1

子供よ
子供よ
荒寥とした長堤をひた走る子供よ
夜明けまでそこの草むらで鳴いていたこおろぎは死んだ
太陽がのぼるとともに死んだ
草むらのしげみにナイフの切尖きがするどく光つている

 最終行の「ナイフ」が何かを象徴しているのかもしれない。それが何を象徴しているかを探すのが批評というものかもしれない。
 しかし、私はそれよりも「子供よ」ということばが三回繰り返されているところにこころが動く。なぜ三回も繰り返す必要があったのか。最初は「子供よ」とだけ繰り返され、三回目には長い修飾語がついている。
 この「子供」は嵯峨の幼い日の自画像かもしれない。自分に向かって語りかけている。「死」はおとなにとってもよくわからないものだが、子供にとってはもっとわかりにくい何事かである。わかりにくいけれど、子供の方が直観で正確につかみとってしまうかもしれない。
 長い堤を走っていたとき、こおろぎが鳴いているのが聞こえた。それは次の日(次の朝、あるいは昼に)来てみれば、もう鳴いていない。
 その突然の断絶。そういう「断絶」があるということを、子供は「事実」として受け止めてしまう。「意味づけ」をしない。「意味づけ」できない。
 嵯峨は、子供のように、いま、誰かの死と直面した。「意味づけ」できない「断絶」と出会った。そして、その「断絶」の厳しさに、ふと子供だったときのことを思い出したのかもしれない。あの「断絶」をおぼえている子供よ、子供よ、子供よ、呼びかけながら「子供」にもどろうとしている。
 そんなふうに読むことはできないだろうか。
 このとき「ナイフの切尖き」は「いま/そこにある死」を切り取って(切断して)、嵯峨を子供時代へかえしてくれる「いのり」のようなものを含んでいるかもしれない。「無垢ないのち」をもう一度生きることができたなら、「死」を「無垢な死(意味づけされない死/全体的な存在)」として受け入れることができたならと思いながら、いま/ここにある死と向き合っている。

102 こおろぎ 2

すべての友がつぎつぎにぼくを裏切つていつた
夜明けまで大きな車輪の下ですすり泣いていたこおろぎよ
太陽がふたたび登りはじめたときに
こおろぎは車輪の下で全く死んでいた

 「ころおぎ 1」と対になっている詩なのかもしれない。「こおろぎ」ということばのほかに「夜明け」「太陽」「のぼる(登る)」「死んだ(死んでいた)」ということばが重複する。「鳴いていた」「すすり泣いていた」は似ているが、かなり違う。
 「2」の「ぼく」は「1」の「子供」と同じひとだろうか。同じかもしれないが、「年代」が違うと思う。「2」の「車輪の下」はヘッセの小説を思い起こさせる。「ぼく」は思春期。いっぽう「長堤をひた走る子供」はそれよりも幼い。
 「子供」は、書いてはないのだが、泣きながら走った。泣きながら、走りながら、こおろぎの鳴くのを聞いた。このときこおろぎは「泣いていない」。子供に同調しない。この「断絶」が「死」を絶対的なものとして受け入れるときの、子供の「許容力(受容力)」を育てていると思う。子供は直感的に「断絶」を認識するのである。
 一方、「2」の方でも、「(思春期の)ぼく」が「泣いている」とは書いてはないのだが、こおろぎが「すすり泣いていた」と書かれるとき、そのこおろぎが「泣く」という動詞が人間(ぼく)を引き込んでしまう。「ぼく」は泣いていた。そのためにこおろぎが「鳴く」ではなく、「泣いている」と感じたのだ。「ぼく」と「こおろぎ」は同調している。その同調に「車輪の下」ということばが重なり、同調を強くする。
 「2」で「死んでいた」のは「(思春期の)ぼく」だろう。「ぼく」が「こおろぎ」になって「死んでいる」。友の裏切りによって、自分のなかの何か(友情とか、友人を信じる気持ち)が死んでしまう。この「死」は、「1」の子供が感じた「死」とは違って、「ぼく」に接続している。切ろうにも切れない。「断絶」がない。いつまでも「ぼく」についてくる「記憶(感情)」である。

 「断絶」と「接続」の違いが「1」と「2」の違い、「非情な(強い)美しさ」と「センチメンタルな(弱い)美しさ」の違いを産んでいるように感じられる。
 現実には(これは私の想像なのだが……)、思春期時代の学校の友達とは違って、嵯峨を裏切ることなどなかった無二の親友が死んだ。その死に直面して、嵯峨は自分が経験してきた「子供時代の死(こおろぎ/他人の死)」と「思春期の死(自分の精神的な死)」を思い出し、二つの思い出のなかで、死とはなんだろうかと思いながら友人の死と向き合っているのだろう。そう理解してもなお、しかし、私には「1」の方が絶対的な美しさに触れているように思える。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『詩に就いて』(3)

2015-05-02 09:41:09 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(3)(思潮社、2015年04月30日発行)



 詩と論理(散文的なことばの動き)はどんな関係があるのか。詩のなかには、どんな論理(ことばの運動)があるのか。



言葉に愛想を尽かして と
こういうことも言葉で書くしかなくて
紙の上に並んだ文字を見ている
からだが身じろぎする と
次の行を続けるがそれが真実かどうか

これを読んでいるのは書いた私だ
いや書かれた私と書くべきか
私は私という代名詞にしか宿っていない
のではないかと不安になるが
脈拍は取りあえず正常だ

朝の光に棚の埃が浮いて見える
私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて
それが生身のあなたであることに驚く
一日を始める前に言葉は詩に向かったが
それは魂のささやかな楽しみの一部だ

 一行目と二行目に「言葉」ということばが繰り返される。それは「同じ」ものなのか、「違った」ものなのか。「同じ」に見えるが、「違っている」のか。
 二つの「言葉」を区別しているのは「書く」という「動詞」であると思う。「書く」とは何かを反復することである。「言葉に愛想を尽かして」というときの「言葉」は何かを繰り返していない。つまり「対象」そのものである。ところが、それについて「書く」というとき、その「言葉」は対象ではなく、繰り返す運動そのものである。
 バラの花があり、それを描くとき、最初のバラ(実物のバラ)が「対象」であり、描かれたバラは「絵」である。バラとバラの絵。そういう「対象」と「表現」では「名詞」と「名詞」の比較になってしまう。そうではなくて、「対象」のバラを「絵のバラ(表現)」にするときの、鉛筆、絵の具、そしてそれを動かす「腕」、「腕」といっしょに動いている「目」--そうした「肉体」の「動き」(動詞)のなかで繰り返されるものが、「書く」という動詞のなかに動いている。「言葉」を「書く」、そこから生まれてくる「書かれた言葉」ではなく、「動詞」のなかで動いているものがある。「過程」といえばいいのか、「過程」を実現するエネルギーといえばいいのか。
 「言葉」で「書く」のだが、ほんとうに動いているのは「言葉」ではなく、「肉体」。「書く」という「動詞」のなかで、エネルギーが動いている。形にならないもの(書かれる前の言葉)が形のあるもの(書かれた言葉)に「なる」ときの推進力(エネルギー)そのものとしての「動詞/ことばの肉体」。それは人間の「肉体」とどこかで重なっているのだが……。
 でも、これは、なんだか、よく見えない動きだ。「書く」という「肉体」の動きははっきりとは見えない。認識できない。
 そのかわりに書かれたことば、バラの絵のようなもの、つまり「紙の上に並んだ文字」が見える。その「文字」を見ながら、「肉体」がどう動いたのか思い出そうとする。繰り返そうとする。そのとき「肉体」のなかで何かが動くのを感じ、「肉体」が反応する。「からだが身じろぎする」というのは、こういうことかもしれない。
 「言葉」は「文字」であり、「書かれる」。「言葉」は「文字」であり、書くことができる。「書く」というのは、ことばの勝手な運動(ことば自身の運動)ではなく、それを書く人間の「肉体」の運動である。だから、どうしても「からだ」に何かが跳ね返ってくる。ぶるっと、からだが揺れる。身じろぎ。その「肉体」の動きを、「みじろぎする」ということばで繰り返す。つまり「続ける」。
 五行目の「続ける」は「書く」という「動詞」を別なことばで言いなおしたものである。「次の行を続ける」は「次の行を書く」と言いなおすことができる。
 このことばと「肉体(動詞)」の関係を追うとき、そこに「ことば」と「肉体」の「論理」が見えそうになる。何かを繰り返し、言いなおすとき、どうしてもそこに「道」のようなものが生まれてくる。この「道」のようなものを、ひとはときに「真実」と読んだりする。論理的である、というのは真実である、ということと同じ意味で語られることがある。
 けれど、そうやってできた「論理」が「真実」であるかどうか。谷川は、疑問として、そのことを書いている。「書く」「書きつづける」。繰り返す、言いなおす。そのとき、「嘘のことば(真実かどうかわからないことば)」も続けることができる。
 一連目のことばは散文的だが、散文を書きながら、谷川はこんなふうにしてことばを続けることができる散文に対して「うさんくさい」と言っているようにも見える。

 二連目は一連目の、かなり奇妙な言い直し、繰り返しである。読んだ瞬間、「書いた」「書かれた」、「読む」「書く」ということばが交錯して、「論理」が錯乱する。つまり、何が書いてあるのか、わからなくなる。ことばのひとつひとつは全部知っている、わかっているのに、「論理」がわからなくなる。
 でも、そこには「論理」はあるはずなのだ。
 ひとは大事なことは何度でも繰り返して言いなおす。言いなおすことで、大事なことを「論理的」にしようとする。「論理」は「理性」によって他人と共有できるからである。他人と共有できる理性が「論理」と呼ばれるからである。
 ゆっくり読み直してみる。
 「これを読んでいるのは書いた私だ」の「これを」は「一連目を」と言いなおすことができる。「一連目を読んでいるのは、一連目を書いた私だ」。これは「言葉を読んでいるのは、言葉を書いた私だ」と言いなおすこともできる。一連目の冒頭の「言葉」が、この一行で反復されている。
 おもしろいのは、その次の「いや書かれた私と書くべきか」。「一連目を書いた私」ではなく、「一連目に書かれた私」。書くことによって存在してしまった言葉。書くことによって存在してしまった「書かれた私」。そういうものが、「一連目を書いた私」とは無関係に動き出して、ことばを「読んでいる」。そういうふうに「書く」ことができる。
 二連目二行目の「書く」は一連目二行目の「書く」と同じ「動詞」だ。一連目では「言葉で書くしかない」のだが、二連目では「言葉で書くべきか」自問している。「書くしかない」と「書くべきだ」は、いわば「反対」の動きだが、一連目を二連目で繰り返すとき、そういう「違い」が入り込んでしまう。「繰り返す」時、どうしても何かが違ってくるのである。この「違い(ずれ)」の拡大を「世界が広がる」とも言いなおすことができる。「論理」はいつでも「後出しじゃんけん」のようなもので、最後につけくわえられたものが「正しい結論」になってしまう。ことばが動いていってできる「道」が「論理」と呼ばれるからである。そこには「論理」を生み出す「論理の肉体/論理のエネルギー」のようなもの、「論理の本能」のようなものがあるのだが、そのことには深入りせず、谷川は、ただそうしたことがあるのだと書いている。
 「紙の上に並んだ文字(書いた私/書かれた私)を見ている」。そうすると「私は私という代名詞にしか宿っていない/のではないかと不安になる」。その「不安」で「からだが身じろぎする」。そう読むと、二連目が一連目の繰り返し、言い直しであることが、さらにはっきりとわかるだろう。もちろん、こういう「解釈」が「真実かどうか」、それはわからない。ことばが動く瞬間、その動きは全部「論理」になり、「論理」が動きを止めたとき、それは「結論」になる。「論理」は、ことばをつないでみせれば、そこになんとなく「存在」して見えてしまうものである。うさんくさいものである。
 その特徴があらわれているのが「私は私という代名詞にしか宿っていない」という一行だと言えるかもしれない。この一行の断定は論理を装っている。「書いた私/書かれた私」の「書く」という「動詞」が「私」をかってに動かしてしまう。たしかなのは「私」とという「代名詞」があるだけである。そう言うことができる。
 この「できる」、つまり「可能性」が「論理」の秘密かもしれない。それはあくまでもことばの上での「可能性」であり、それを人間の「肉体」が確かめられるかどうかは問題ではない。こういうことを考えるとき、ひとはついつい「肉体」のことを忘れて、頭のなかでことばを動かしてしまう。
 しかし、この断定は「真実かどうか」。真実ではないのではないかと「不安になる」。そう書いたあと、「脈拍は取りあえず正常だ」と谷川のことばは突然逸脱する。この逸脱が、とても谷川らしい。谷川の「特徴」がここにあると思う。
 頭が混乱するような複雑な(あいまいな?)論理を追い、精神を不安にさせておいて、突然、健康な肉体へと動いていってしまう。形而上学の「不安」から肉体の「健康」への移動、転換が、いままでの「論理」を内部から破壊してしまう。この「暴力」の強さ、美しさが谷川の特徴だ。
 この断定は「真実かどうか」。真実ではないのではないかと「不安」--それは「言葉」「書く」「私」というもことばを追ってきたからそう感じるだけのことである。一連目には「からだが身じろぎする」という行がある。その「からだ」と「脈拍」はきちんと呼応している。私が追ってこなかったことばが、きちんと繰り返され、言いなおされている。「肉体の論理」が「形而上学的論理(精神の論理/頭の論理)」の一方でしっかり動いているのだ。
 谷川俊太郎のことばの強さは、「形而上学的」に動いているように見えるときでも、それだけではなく、「肉体」も動いていることによる。「頭」だけでことばが動くときは、「論理」は精密になるかもしれないが、「肉体」は不健康に追いやられ、動くことができない。論理的にはそうかもしれないが、実際に「肉体」で生きることのできないということが起きたりする。谷川のことばは、そういう窮屈なところへは入っていかない。
 これは「現代詩」の書き手のなかでは「特異」なことであると私は思う。多くの「現代詩・詩人」は「肉体」を置き去りにして、「頭」のなかへどんどん動いている。「頭のなか」を動くことばの「可能性」を追いつづける。

 三連目。ここでは、ことばは何を反復し、何を言いなおしているのだろうか。
 「朝の光に棚の埃が浮いて見える」は誰もが目撃する日常の風景かもしれないが、誰もが目にするだけに、何か美しい。「脈拍は取りあえず正常だ」と同じように健康で、美しい。
 一、二連目のことばが「夜の思考」だったのに対し、三連目は「朝の肉体」の目覚めがある。一、二連目が「言葉」「書く」という表現で窮屈だったのに対して、三連目は「無言」があらわれて、すべての「言葉」を吹き飛ばしていく。形而上学的論理ではなく「生身」の肉体が「私」を驚かせる。目覚めさせる。
 だから、そのあとの「一日を始める前に言葉は詩に向かったが」の「言葉」は一連目、二連目の「言葉」とはまったく違ったふうに動いて見える。それは「書く」という「動詞」とは無関係である。「書かれない」。「朝の光に棚の埃が浮いて見える」と書かれているが、それは繰り返されない。言いなおされない。そこで中断し、そこへ「向かった」ことだけでやめている。
 これが、詩なのだ。
 繰り返して「論理」をつくってしまわない。「論理」を生み出すことを拒み、その前で立ち止まる。その、何と言えばといいのか、「論理」あるいは「散文」への裏切りのような瞬間。私は「魂」というものがあるとは考えていないが、この瞬間的な喜び、どんな結論(論理の果)とは無縁の楽しみを、谷川は「魂」のものと考えているようだ。そういうものを、最後にぽんとほうり出す。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする