詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『長田弘全詩集』

2015-05-10 21:27:28 | 詩集
長田弘『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年04月30日発行)

 長田弘が亡くなった。『全詩集』は長田が自分自身で目を通した最後の詩集になるのだろう。「結び」に、

 詩集十八冊、詩篇四七一篇を一冊に収める『長田弘全詩集』を編んで気づいたことは、時代を異にし、それぞれまったくちがって見えるそれぞれの詩集が、見えない根茎でたがいにつながり、むすばれ、のびて、こうして一つの生き方の物語としての、全詩集という結実に至ったのだという感慨でした。

 と書いている。「一つの生き方としての物語」に長田の詩への思いがこめられている。長田は「生き方」をたしかめるために詩を書いた。詩を書くことで「生き方」をととのえたのだと思う。ととのえるために、ゆっくり、着実に、ことばを選び抜く。
 そういう「ことば」の歩き方、歩かせ方がとてもよくあらわれた詩が、「花を持って、会いにゆく」。長い作品だが、全行引用する。

春の日に、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。

歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうではないということに気づいたのは、

死んでからだった。もう、
どこへもゆかないし、
どんな遠くへゆくこともない。

そう知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ
人生で最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。

病いに苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、私は信じる。

ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。

春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。

春の日に、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

 読みながら、私は、こうやって長田に会いにゆくのだと思った。詩を読むことで、長田に会う。
 詩の終わりの方に「話すこともなかった人とだって、/語らうことができると知ったのも、/死んでからだった。」という三行があるが、会ったことのない詩人とも、こうやって語らうことができる。そういうことを長田の詩を読みながら思う。
 そして読みながら、「死ではなく、その人が/じぶんのなかにのこしていった/たしかな記憶を、私は信じる。」という長田のことばを言いなおしてみる。「長田が私のなかに残していったたしかな記憶を、私は信じる。」長田の書いたことばが私のなかに残る。そのことばを、私は信じる。

ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。

 この三行には、長田の「いのり」がこめられている。
 長田の書いたこと、それは長田の思いを完全にあらわしているわけではない。そういうことはできない。書いても書いても書き切れない何か、それが「ある」ということをことばは指し示す。暗示する。その指し示そうとするときの正直さ--それを私は信じている。
 ことばを書きながら「けっしてことばにできない思いが、ここにある」と書く。その苦しさ、その矛盾。そこに「正直」を、私は感じる。「正直」だけがたどりつく「矛盾」というものがある。
 「矛盾」だけが正しい--というのは、

この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だ

 連をわたって書かれたこの三行。「破綻」を承知で書くこの三行の「遠い場所」と「近い場所」という「矛盾」の結びつきにあらわれている。
 この「矛盾」を、長田は「正直」と呼ばずに「ほんとう」と書いているのだが、そういう「矛盾」が「ほんとう」になるのは、私たちが「この世」に生きているからだ。「この世」というのは、「論理の整合性」だけでできているのではない。「この世」を生きる私たちの「思い」は「矛盾」している。だからこそ、その「矛盾」と正直に向き合い、自分をととのえていく必要がある。「矛盾」のなかで、自分がどの方向に歩くべきなのか、ことばにして確かめる(ことばを動かしてたしかめる)。自分にとっての「ほんとう」を探しつづける。

 かつて私は長田の『詩は友人を数える方法』(講談社)について、長田はことばを捨てるためにことばを書いている、と感想を書いたことがある。(『詩を読む 詩をつかむ』思潮社)いろいろな詩を読みながらアメリカを旅する。そうして、そこで読んだことばを捨てて、自分のなかに残るシンプルなものを最後に取り出す。そういうことをしていると思った。
 この「花を持って、会いにゆく」という詩を初期の作品と比較すると、そこに書かれていることばの「数」の少なさが印象的だ。たくさんのことばを読み、引用し、同時に、それを捨てる。捨てても残るシンプルなことばを少しずつ積み上げ、言いなおすことでととのえながら、この作品は書かれている。何度も同じことばが繰り返され、そのたびに、ことばが指し示すものがしぼられてくる。そういうととのえ方が、この作品そのものを成り立たせている。そして、それがそのまま長田の「生き方」に見えてくる。
 長田は書きながら、少しずつ「ほんとうの長田」になっていく。
 「ほんとう」ということば、長田にとってのキーワードなのだと思う。

この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だ

 この三行の意味は、そこに「ほんとうは」ということばがなくてもかわらない。でも長田は「ほんとうは」と書かずにはいられなかった。「ほんとう」を書きたかったのだ。
 この詩には、あらゆるところに「ほんとうは」を補うことができる。「ほんとう」は長田の「肉体」にしっかりとしみついている「思想」なのだ。
 あらゆることが「ほんとうは」なのである。だけれど、一度だけ、そう書きたかった。書かずにいられなかった。
 一か所だけ、「ほんとうは」を補って読んでみる。そうすると長田が「ほんとうは」と書かずにいられない気持ちがわかる。

病いに苦しんで
なくなった母は、
「ほんとうは」死んで、また元気になった。

 死んだ人が元気になるというのはありえない。そういうことが起きれば「矛盾」である。けれど、それが起きる。それが、「この世」を生きている私たちのこころの、ほんとうである。
 死んでしまった人間はもう二度とは死なない。いつも元気だった姿でこころに甦る。記憶に甦る。その甦ってくる母が長田にとって「ほんとう」の母である。信じられる母である。そして、その元気を母を思い出すのが長田のこころの「ほんとう」である。
 長田がそうやって母に会うように、そしてまたなつかしい友に会うように、私は長田の詩集を読み返しながら、一度も会ったことのない長田に何度でも会う。何度でも「ほんとう」の声を聞く。長田は「うるさい」と叱るかもしれないが、こうやって「対話」を試みる。
 長田が最後に長田自身の手で『全詩集』を残してくれたことに感謝したい。合掌。

長田弘全詩集
長田 弘
みすず書房

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谷川俊太郎『詩に就いて』(11)

2015-05-10 19:35:23 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(11)(思潮社、2015年04月30日発行)


苦笑い

詩はホロコーストを生き延びた
核戦争も生き延びるだろう
だが人間はどうか

真新しい廃墟で
生き残った猫がにゃあと鳴く
詩は苦笑い

活字もフォントも溶解して
人声も絶えた
世界は誰の思い出?

 一行目はアドルノの有名なことば「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」を思い起こさせる。でも、人間は苦しみや悲しみを語らずにはいられない。苦しみや悲しみを語ることが生きる方向性を示すこともある。だから詩は書かれつづけている。核戦争の後も生き延びるだろう。東京電力福島第一原発の事故の後も詩は書かれている。人間が生きているかぎり詩は書かれる。もしそれが「野蛮」なことだとしたら、「野蛮」なことも好きなのが人間というものなのだ。
 だがほんとうに核戦争が起きたなら、人間は生き延びることができるだろうか。
 二連目の「真新しい廃墟」とは何か。私は一連目の「核戦争」ということばから、核戦争後の廃墟を想像した。まだ誰も見ていない「真新しい」廃墟。そこには人間がいない。でも猫がいる。そして「にゃあ」と鳴いている。この「にゃあ」は「詩/ことば」なのか。詩に残された「ことば」は猫の「にゃあ」だけなのか。詩は苦笑いしている。
 この「苦笑いする詩」とはなんだろう。私たちの意識のなかにある「詩」というものか。概念としての詩か。詩という概念が人称化されて(比喩となって)、苦笑しているのか。
 三連目。各戦争後の「真新しい廃墟」には活字もない。フォントもない。それを使いこなす人間がいない。人間がいないのだから、人声がないのは、もちろんである。文字も声もない、ことばを伝達する手段がないから、当然、詩(作品)も存在しない。核戦争で人間はみんな死んでしまったのだから、そのとき「世界」というものは「誰の思い出」になるのか。思い出す人がいないのに世界が存在するとき、思い出はどうなるのか……。
 でも、これはほんとうかどうかわからない。核戦争後のことを誰も知らない。核戦争前に、そういうことを想像している。観念が思い描いた詩である。誰もいないのに世界が存在するとき「思い出」とは一体何なのか、というのは「問い」としては「詩的」だが、それは「観念」にとって詩的ということであって、そういう考えは、まあ、空想だなあ……。
 しかし三連目だけ、「詩」ということばがないのはどうしてだろう。

 こういう作品にはどう向き合えばいいのか。この作品から「詩について」何を語ることができるか。つまり、谷川とどんな対話ができるのか、私にはよくわからない。
 私が最初に思ったのは、一連一行目の「詩」と二連三行目の「詩」は同じものかどうかということである。またどうして三連目にだけ「詩」ということばがないのか、ということである。ひとは大事なことは何度でもことばを変えながら繰り返す。言いなおす。それがふつうなのに、ここではそういう繰り返しがない。三連目だけ、「詩」ということばが消えている。
 「詩」についてもう一度考えてみる。「詩」ということばを中心に読み直してみる。
 一連目の「詩」は現在私たちが読むことができる作品。現実に存在する詩。ことば、である。「野蛮」と言われながらも、生きている。書かれている。そういう詩。この「苦笑い」もその一篇である。
 でも二連目の「詩」は具体的な作品を指してはいない。「詩」というもの、「詩の概念」をあらわしている。「苦笑い」という詩が、猫が「にゃあ」と鳴くのを聞いて「苦笑い」するわけではない。「苦笑いする詩」という概念が想像されているだけだ。「苦笑いする」という「動詞」があるために(谷川は「詩は苦笑い」と体言で表現しているが、用言として私は読み直した)、「概念」が何か抽象でなくなっている。
 このことを少し考え直してみる。
 「詩は苦笑い」とは詩が苦笑い「する」こと。詩はことば。ことばは苦笑い「しない」。苦笑い「する」のは人間である。詩が「ひと」という比喩、苦笑い「する」という「動詞」を通ってきている。「詩は苦笑い」ということばを読むと、そこにどうしても「人間」を重ねて読んでしまう。「苦笑いする」という「動詞」と「人間」が動いて見える。「人間」の「動き」が見えると、それは「概念」ではなく「具体」に感じられる。
 「待つ」という作品では「詩」は「鬼っ子」「師父」という「人間」をあらわすことばで書かれていた。「詩人がひとり」では「胞衣」「子宮」ということばのなかに「胎児」となって隠れていた。「詩」はいつでも谷川にとっては「人間」である。そうであるなら、二連目の「詩」は「詩人」であり谷川であるとも言える。二連目の最終行は

詩人(谷川)は苦笑いする

 と書き直すことができると思う。
 「詩はひとである」という視点から、さらに作品を見つめなおす。
 一連目の「詩」は「人間(詩人)」と置き換えても成り立つ。「人間(詩人)はホロコーストを生き延びた」。だから詩を書くこともできる。(アドルノに言わせれば、アウシュビッツを生き延びるとき、人間の何かが奪われた、生き延びたのはアウシュビッツ以前の人間/詩人とは違う人間/詩人である、ということになるのかもしれないが……。)「詩」を「人間」と同一視するからこそ、三行目に「人間はどうか」という疑問が出てくる。「人間」と「詩」の区別をしないのが谷川なのである。
 二連目。「新しい廃墟」には人間はいない。猫がいるだけ。人間がいないということは、もう詩を共有するひとがいないということ。詩を共有するひとがいないのに、ひとり「詩人(谷川)」だけがいる。だから「苦笑い」している。詩を共有するひとがいないのに、詩人である必要はない。「え、私は必要ないの? なのにここにいるの?」と気づいたときの人間の苦笑いに似ているかなあ。「猫がにゃあと鳴いた」とことばにしても、それを受け止める「人間」がいない。「ことば」が「人間」と「人間」のあいだを動いていかない。
 三連目に「詩」(詩人)は登場しない。けれど「人声」ということばが出てくる。「人間」が「詩」と同一である、「人間」が「詩」が「人間」を代弁するのなら、「人声」、「人間の声」は「詩人の声」であるはずだ。「人声が絶えた」は「詩人が絶えた」「詩が絶えた」と言い換えることができる。
 そうであるなら、「世界は誰の思い出?」の「誰」を「詩人(谷川)」と読むことができるし、また「詩」と読むことができる。二連目で、谷川は「詩人」から「人」を省略して「詩」となっている。(人は自分にとって自明なことは「省略」してしまう。そうやって「ことばの経済学」を生きるというのが私の基本的な考え方である。省略されたことばこそ、キーワードであると私は考えている。)三連目は、そうした谷川の意識が引き継がれている。だから最終行は、

世界は詩の思い出?

 と読み直すことができる。私には、そういうふうに聞こえてくる。
 谷川はたくさんの詩を書いた。核戦争後、人間が滅んでしまうと、その詩の思い出として存在することになるのか。
 あまりにも虚無的で、あまりにも美しい。美しいと感じてはいけないのかもしれないけれど、このセンチメンタルなことばの運動は美しいと私は思ってしまう。
 そして多くのことばが相互に入れ代わることが可能なことを考えると、その行はまた、

詩は世界の思い出?

 と疑問の形で語りかけているようにも聞こえる。
 世界は人間のことばによって描かれ、思い出になる。いつでも思い出せるものになる。(私は、これを「肉体になる」というのだが、そう書いてしまうと谷川の「詩について」の考えとは違ってくるかもしれないので、保留。)そして「詩/ことば」は同時に世界の思い出にもなる。世界がことばを思い出し、世界自身をととのえる--そんなふうに世界が見えてくることがある。
 人間とことばと世界が、相互に「自分」になりながら動く。それが「詩」なのだと直感的に思う。
 「詩」がなくなるというのは「人間」がいなくなるとこ、「ことば」がなくなること。人間がいるかぎり、ことばがあり、ことばがあるかぎり世界がある。

 「あとがき」で谷川は「詩情」と「詩作品」をわけて書いていた。そして、そこには「詩人」ということばが書かれていなかった。そのことを考えてみたい。
 「詩情」とは「詩/情/こころ」である。「詩作品」「詩/ことば」である。「詩人」は「詩/人」である。「詩」ということばで「こころ/ことば/人」が引き寄せられながら、どこかで交錯する。「人(人間)」を中心に考えると、「人間」には「こころ」がある。何かを感じる力がある。そして「人間」は「ことば」をつかうことができる。「ことば」をつかって、まだことばになっていない「感じ」を生み出すことができる。まだ形になっていないものに、形を与えることができる。そうやって誕生するのが「詩(作品)」ということになる。
 「詩に就いて」、谷川はそういうことを繰り返し書いているのではないか。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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スジョイ・ゴーシュ監督「女神は二度微笑む」(★★★★)

2015-05-10 00:50:32 | 映画
スジョイ・ゴーシュ監督「女神は二度微笑む」(★★★★)

監督 スジョイ・ゴーシュ 出演 ビディヤ・バラン、パラムブラト・チャテルジー

 脚本が巧みにできている。妊婦が事件解決に取り組むというのはコーエン兄弟の「ファーゴ」のよう。妊婦はふつうの女性より動きにハンディがある。男に比べて、もちろんハンディがある。そこにどうしても目がいってしまう。意識が集中してしまう。これを巧みに利用している。
 疾走した夫が宿泊していたから、という理由で安ホテルに泊まる。事件を追うだけなら、別に泊まる必要はない。調べるだけ調べたらちゃんとしたホテルに泊まって体調をととのえながら調べればいいはずなのだが、そうしない。
 汚いホテルだからせっせと掃除をする。そういうことはホテルの従業員にまかせておけばいいのだが、「家でもそうしていたから」と気にしない。「ほこりに弱い」のだと言う。それならなおさら高級ホテルに移るべきなのだが……。
 で、これが最後に、実は「指紋を消していた」ということにつながる。女はただの妊婦ではない。ただ疾走した夫を探しに来たのではない。ある事件を捜査し、その犯人の殺害を目的に動いていたのだ。犯人を殺害した後、女が殺したということがわかる。その女は誰なのだ。指紋を採取しろ、ということになったら困るので、毎日せっせと指紋を拭き取っていたのだ。こういうことをするためには、高級ホテルでは駄目。まずホテルが汚れていない。さらにルームサービスがしっかりしていて、客が自分で掃除をするなどということはありえない。だから、部屋の掃除などしていたら、この女はおかしい。何か隠している、と観客に気づかれてしまう。
 安ホテルでも掃除をしていれば変だと思われるが、妊婦が自分の体調、さらに生まれてくる子供への影響を考えて掃除をしていると言われれば、どうしたって信じてしまう。そこにはまだいない「子供」の存在が、あらゆる想像力を「正しい」と思わせるのである。いやあ、すごいねえ。この観客を誘導する巧みさ。
 「不在」を利用する。不在の方が想像力を刺戟し、信じさせる力がある。「存在」しているものは、「存在感」が必要だが、「不在」のものにはせ「存在感」が必要ではない。一般的に「存在感」は「役者」が表現するものだが、「不在」の「存在感」は観客がかってに作り上げてしまう。
 で、この「不在/存在」の交錯は、映画全体のテーマともなっている。「夫」はほんとうにいるのか。「夫と顔の似た男」はほんとうにいるのか。もしかすると二人は「同一人物」なのではないのか。舞台となっているコルカタでは人は「二つの名前」をもっている。そうであるなら「夫」が二つの名前をもっていて、その一方だけを妊婦につたえていたということもありうる。(妊婦/妻はコルカタに暮らしているのではなく、イギリスから夫を探しにきた、という設定である。)
 で、最後の最後。その「不在/存在」のテーマは、あっと驚くことをやってのける。妊婦と思っていたら、妊婦ではなかった。「胎児」は、そのときはいなかった。女には妊娠の経験はあるが、コルカタで捜査をしているときは妊娠していなかった。変装していたのである。まわりの人間を騙す/信用させるためである。「妊婦」を前面にだすことで、女自身の任務を不在にさせていた。隠していた。
 あ、やられたね。
 唯一の「疵」を言えば、女が「夫」を探すふりをしているときの写真。夫の職場を訪ね、たった一枚の写真を職場の人事担当にみせる。その写真をそこに忘れていく。人事担当はその写真をあらためて見直して、「あの男だろうか」と思い出す。この「思い出し」そのものは変ではないのだが、女がたった一枚の写真を忘れていったのに、そのことを気にしていない。それが、あれっと思わせる。夫が映っている大事な写真。コルカタで夫の「存在」をひとにつたえるたった一枚の証拠。それを忘れていって、なぜ平気? 人事担当が忘れていった写真を取り上げ、ふと過去を思い出した瞬間、私は一瞬、あれっと思ったのだが、この人事担当はすぐに殺されてしまうので、その瞬間に疑問も忘れてしまった。

 「不在/存在」の交錯、という点で、この映画は「シックスセンス」のテーマを引き継いでいるかもしれない。インド人の「想像力」には「不在/存在」の関係が強く影響しているのかもしれない、とも思った。
                      (KBCシネマ1、2015年05月08日)


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