長田弘『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年04月30日発行)
長田弘が亡くなった。『全詩集』は長田が自分自身で目を通した最後の詩集になるのだろう。「結び」に、
詩集十八冊、詩篇四七一篇を一冊に収める『長田弘全詩集』を編んで気づいたことは、時代を異にし、それぞれまったくちがって見えるそれぞれの詩集が、見えない根茎でたがいにつながり、むすばれ、のびて、こうして一つの生き方の物語としての、全詩集という結実に至ったのだという感慨でした。
と書いている。「一つの生き方としての物語」に長田の詩への思いがこめられている。長田は「生き方」をたしかめるために詩を書いた。詩を書くことで「生き方」をととのえたのだと思う。ととのえるために、ゆっくり、着実に、ことばを選び抜く。
そういう「ことば」の歩き方、歩かせ方がとてもよくあらわれた詩が、「花を持って、会いにゆく」。長い作品だが、全行引用する。
読みながら、私は、こうやって長田に会いにゆくのだと思った。詩を読むことで、長田に会う。
詩の終わりの方に「話すこともなかった人とだって、/語らうことができると知ったのも、/死んでからだった。」という三行があるが、会ったことのない詩人とも、こうやって語らうことができる。そういうことを長田の詩を読みながら思う。
そして読みながら、「死ではなく、その人が/じぶんのなかにのこしていった/たしかな記憶を、私は信じる。」という長田のことばを言いなおしてみる。「長田が私のなかに残していったたしかな記憶を、私は信じる。」長田の書いたことばが私のなかに残る。そのことばを、私は信じる。
この三行には、長田の「いのり」がこめられている。
長田の書いたこと、それは長田の思いを完全にあらわしているわけではない。そういうことはできない。書いても書いても書き切れない何か、それが「ある」ということをことばは指し示す。暗示する。その指し示そうとするときの正直さ--それを私は信じている。
ことばを書きながら「けっしてことばにできない思いが、ここにある」と書く。その苦しさ、その矛盾。そこに「正直」を、私は感じる。「正直」だけがたどりつく「矛盾」というものがある。
「矛盾」だけが正しい--というのは、
連をわたって書かれたこの三行。「破綻」を承知で書くこの三行の「遠い場所」と「近い場所」という「矛盾」の結びつきにあらわれている。
この「矛盾」を、長田は「正直」と呼ばずに「ほんとう」と書いているのだが、そういう「矛盾」が「ほんとう」になるのは、私たちが「この世」に生きているからだ。「この世」というのは、「論理の整合性」だけでできているのではない。「この世」を生きる私たちの「思い」は「矛盾」している。だからこそ、その「矛盾」と正直に向き合い、自分をととのえていく必要がある。「矛盾」のなかで、自分がどの方向に歩くべきなのか、ことばにして確かめる(ことばを動かしてたしかめる)。自分にとっての「ほんとう」を探しつづける。
かつて私は長田の『詩は友人を数える方法』(講談社)について、長田はことばを捨てるためにことばを書いている、と感想を書いたことがある。(『詩を読む 詩をつかむ』思潮社)いろいろな詩を読みながらアメリカを旅する。そうして、そこで読んだことばを捨てて、自分のなかに残るシンプルなものを最後に取り出す。そういうことをしていると思った。
この「花を持って、会いにゆく」という詩を初期の作品と比較すると、そこに書かれていることばの「数」の少なさが印象的だ。たくさんのことばを読み、引用し、同時に、それを捨てる。捨てても残るシンプルなことばを少しずつ積み上げ、言いなおすことでととのえながら、この作品は書かれている。何度も同じことばが繰り返され、そのたびに、ことばが指し示すものがしぼられてくる。そういうととのえ方が、この作品そのものを成り立たせている。そして、それがそのまま長田の「生き方」に見えてくる。
長田は書きながら、少しずつ「ほんとうの長田」になっていく。
「ほんとう」ということば、長田にとってのキーワードなのだと思う。
この三行の意味は、そこに「ほんとうは」ということばがなくてもかわらない。でも長田は「ほんとうは」と書かずにはいられなかった。「ほんとう」を書きたかったのだ。
この詩には、あらゆるところに「ほんとうは」を補うことができる。「ほんとう」は長田の「肉体」にしっかりとしみついている「思想」なのだ。
あらゆることが「ほんとうは」なのである。だけれど、一度だけ、そう書きたかった。書かずにいられなかった。
一か所だけ、「ほんとうは」を補って読んでみる。そうすると長田が「ほんとうは」と書かずにいられない気持ちがわかる。
死んだ人が元気になるというのはありえない。そういうことが起きれば「矛盾」である。けれど、それが起きる。それが、「この世」を生きている私たちのこころの、ほんとうである。
死んでしまった人間はもう二度とは死なない。いつも元気だった姿でこころに甦る。記憶に甦る。その甦ってくる母が長田にとって「ほんとう」の母である。信じられる母である。そして、その元気を母を思い出すのが長田のこころの「ほんとう」である。
長田がそうやって母に会うように、そしてまたなつかしい友に会うように、私は長田の詩集を読み返しながら、一度も会ったことのない長田に何度でも会う。何度でも「ほんとう」の声を聞く。長田は「うるさい」と叱るかもしれないが、こうやって「対話」を試みる。
長田が最後に長田自身の手で『全詩集』を残してくれたことに感謝したい。合掌。
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長田弘が亡くなった。『全詩集』は長田が自分自身で目を通した最後の詩集になるのだろう。「結び」に、
詩集十八冊、詩篇四七一篇を一冊に収める『長田弘全詩集』を編んで気づいたことは、時代を異にし、それぞれまったくちがって見えるそれぞれの詩集が、見えない根茎でたがいにつながり、むすばれ、のびて、こうして一つの生き方の物語としての、全詩集という結実に至ったのだという感慨でした。
と書いている。「一つの生き方としての物語」に長田の詩への思いがこめられている。長田は「生き方」をたしかめるために詩を書いた。詩を書くことで「生き方」をととのえたのだと思う。ととのえるために、ゆっくり、着実に、ことばを選び抜く。
そういう「ことば」の歩き方、歩かせ方がとてもよくあらわれた詩が、「花を持って、会いにゆく」。長い作品だが、全行引用する。
春の日に、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。
どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。
どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。
歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、
遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうではないということに気づいたのは、
死んでからだった。もう、
どこへもゆかないし、
どんな遠くへゆくこともない。
そう知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、
いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、
いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。
十歳で死んだ
人生で最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。
病いに苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。
死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、私は信じる。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。
話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。
春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。
春の日に、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
読みながら、私は、こうやって長田に会いにゆくのだと思った。詩を読むことで、長田に会う。
詩の終わりの方に「話すこともなかった人とだって、/語らうことができると知ったのも、/死んでからだった。」という三行があるが、会ったことのない詩人とも、こうやって語らうことができる。そういうことを長田の詩を読みながら思う。
そして読みながら、「死ではなく、その人が/じぶんのなかにのこしていった/たしかな記憶を、私は信じる。」という長田のことばを言いなおしてみる。「長田が私のなかに残していったたしかな記憶を、私は信じる。」長田の書いたことばが私のなかに残る。そのことばを、私は信じる。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。
この三行には、長田の「いのり」がこめられている。
長田の書いたこと、それは長田の思いを完全にあらわしているわけではない。そういうことはできない。書いても書いても書き切れない何か、それが「ある」ということをことばは指し示す。暗示する。その指し示そうとするときの正直さ--それを私は信じている。
ことばを書きながら「けっしてことばにできない思いが、ここにある」と書く。その苦しさ、その矛盾。そこに「正直」を、私は感じる。「正直」だけがたどりつく「矛盾」というものがある。
「矛盾」だけが正しい--というのは、
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、
いちばん近い場所だ
連をわたって書かれたこの三行。「破綻」を承知で書くこの三行の「遠い場所」と「近い場所」という「矛盾」の結びつきにあらわれている。
この「矛盾」を、長田は「正直」と呼ばずに「ほんとう」と書いているのだが、そういう「矛盾」が「ほんとう」になるのは、私たちが「この世」に生きているからだ。「この世」というのは、「論理の整合性」だけでできているのではない。「この世」を生きる私たちの「思い」は「矛盾」している。だからこそ、その「矛盾」と正直に向き合い、自分をととのえていく必要がある。「矛盾」のなかで、自分がどの方向に歩くべきなのか、ことばにして確かめる(ことばを動かしてたしかめる)。自分にとっての「ほんとう」を探しつづける。
かつて私は長田の『詩は友人を数える方法』(講談社)について、長田はことばを捨てるためにことばを書いている、と感想を書いたことがある。(『詩を読む 詩をつかむ』思潮社)いろいろな詩を読みながらアメリカを旅する。そうして、そこで読んだことばを捨てて、自分のなかに残るシンプルなものを最後に取り出す。そういうことをしていると思った。
この「花を持って、会いにゆく」という詩を初期の作品と比較すると、そこに書かれていることばの「数」の少なさが印象的だ。たくさんのことばを読み、引用し、同時に、それを捨てる。捨てても残るシンプルなことばを少しずつ積み上げ、言いなおすことでととのえながら、この作品は書かれている。何度も同じことばが繰り返され、そのたびに、ことばが指し示すものがしぼられてくる。そういうととのえ方が、この作品そのものを成り立たせている。そして、それがそのまま長田の「生き方」に見えてくる。
長田は書きながら、少しずつ「ほんとうの長田」になっていく。
「ほんとう」ということば、長田にとってのキーワードなのだと思う。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、
いちばん近い場所だ
この三行の意味は、そこに「ほんとうは」ということばがなくてもかわらない。でも長田は「ほんとうは」と書かずにはいられなかった。「ほんとう」を書きたかったのだ。
この詩には、あらゆるところに「ほんとうは」を補うことができる。「ほんとう」は長田の「肉体」にしっかりとしみついている「思想」なのだ。
あらゆることが「ほんとうは」なのである。だけれど、一度だけ、そう書きたかった。書かずにいられなかった。
一か所だけ、「ほんとうは」を補って読んでみる。そうすると長田が「ほんとうは」と書かずにいられない気持ちがわかる。
病いに苦しんで
なくなった母は、
「ほんとうは」死んで、また元気になった。
死んだ人が元気になるというのはありえない。そういうことが起きれば「矛盾」である。けれど、それが起きる。それが、「この世」を生きている私たちのこころの、ほんとうである。
死んでしまった人間はもう二度とは死なない。いつも元気だった姿でこころに甦る。記憶に甦る。その甦ってくる母が長田にとって「ほんとう」の母である。信じられる母である。そして、その元気を母を思い出すのが長田のこころの「ほんとう」である。
長田がそうやって母に会うように、そしてまたなつかしい友に会うように、私は長田の詩集を読み返しながら、一度も会ったことのない長田に何度でも会う。何度でも「ほんとう」の声を聞く。長田は「うるさい」と叱るかもしれないが、こうやって「対話」を試みる。
長田が最後に長田自身の手で『全詩集』を残してくれたことに感謝したい。合掌。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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