詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(62)

2015-05-07 16:36:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(62)

109 永遠の目盛り

 生と死を見つめつづける嵯峨。「永遠の目盛り」にも嵯峨の思想が書かれている。

たれも自分の生命の終りについて知つていない
その計量できない全時間のなかで
ひとは遅すぎもせず早すぎもしない仕事をつづけている
村びとが熟れた麦の刈入れをいそぐのを眺めながら
あるものは大きな樹陰の道を歩いて行く

 最初の三行は、抽象的な表現である。ひとはたしかに自分の一生の終わりを知らない。知らないまま、日々の仕事をつづける。「遅すぎもせず早すぎもしない」という表現に、嵯峨がそのすべてを対等なものと見つめている視線を感じる。それぞれがそれぞれの時間に合わせて仕事をしている。
 そのあと、ことばが転調する。抽象的な表現から具体的な描写にかわる。変わるのだけれど、それは「調子」が変わっただけで、基本的なメロディーラインは同じである。
 「いそぐ」と「いそがない」が対比されている。「いそがない」という表現はつかわれていないが、一方に「日差し」(このことばも書かれているわけではないが)のなかで刈り入れをする村人がいて、そのひとたちは「いそいでいる」。他方に「樹陰」を「のんびりと」(このことばも書かれていないが)歩く「村びとではないひと」(旅人だろう)が描かれる。その対比が「遅すぎもせず早すぎもしない」と呼応する。「旅人」もまた「仕事」なのである。
 どういう「仕事」かというと、働いているひとに「旅人」の生き方もあると知らせる「仕事」である。
 そう書いたあとで、詩は再び「転調」する。

一つの生命は豊かな稔りを収穫し他の生命は何処ともなく道を急いでいる

 最初の「生命」は「村びと」。それは麦の「稔りを収穫し」ている。あとの「生命」は「旅人」。彼は「何処ともなく」、つまり「目的」が明確ではないまま「道を急いでいる」。
 私は先に旅人の歩みを「のんびりと」とことばを補って読んだが(村びとの労働と対比して、そう読んだが)、嵯峨はその「のんびり」を「急いでいる」と書き直している。涼しい「緑陰」を「のんびり」歩いているが、それは日差しのなかで刈り入れを「いそいで」いる村びとから見ればそう見えるというだけのことであって、旅人には旅人のせっぱつまった思いがある。歩かなければならない思いがある。旅人から見れば、村びとの姿は、みんなで楽しくいっしょに刈り入れをしているという姿に見えるかもしれない。自分は目的も分からないまま、分からないがゆえに、分からないものに向かって急いでいる、苦しんでいるということになるかもしれない。
 この一行を境にして、詩は、再び「抽象」のことばを動いていく。

すべての日常の殻の中にそつと這入りこむ
そしてまた何かの種子となつて四方に飛び散つて
つつましく匂やかに大地を富ましている
たれもがそれぞれの生命をふかめ熟れさせる
すべてが永遠なるものの目盛りとなつて刻まれるのだ

 「一粒の麦死なずば……」ということばを連想させる。だが嵯峨は「麦」のことだけを書いているわけではない。最終行の「すべて」は、詩のなかのことばで言いなおせば「村びと」と「旅人」である。互いに立場が違う。違うものであっても、それぞれが他者に対して何らかの「印象」を残す。立場の違う人を見ながら、ひとは何かを感じる。その「感じ」が「人生の目盛り」なのだ。その「目盛り」が増えるほど、人生(大地)の「時間」は「富み」、その生命の「稔り」は「ふかまり」「熟れる」。人生の「時間」の内部が豊かになる。すべての存在は人生の時間の内部を豊かにするために存在する。
 詩も、詩のことばも、と嵯峨は祈りをこめて書いている。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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 谷川俊太郎『詩に就いて』(8)

2015-05-07 10:22:04 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(8)(思潮社、2015年04月30日発行)

私、谷川

十代の私は何も考えずに書いていた
雲が好きだったから雲が好きだと書いた
音楽に心を動かされたらそれを言葉に翻訳した
詩であるかどうかは気にしなかった
ある言葉のつながりが詩であるのかないのか
そんなことは人が勝手に決めればいい
六十年余り詩を書き続けてきて今の私はそう思う

この一説は私のただの述懐に過ぎないのかそれとも
散文に変装して詩に近づこうとする言葉の策略なのか
虚構を排して可能な限り自分を正確に述べようとして
この文体は間違っていたと気づく
詩に近づこうとしてはいけない 詩に跳びこまねば!
こうして私、谷川はますます詩から遠ざかる
於台北詩歌節 二〇一四年一〇月二七日

 この作品は、谷川の自画像と詩の定義を書いたものである。
 この作品にも「対」の構造を読み取ることができる。一連目は「詩」、二連目は「散文」がキーワードになっている。
 そのことはあとで書くことにして(書くつもりだが、書いているうちに気が変わるかもしれない)、私は一行目をとてもおもしろいと思った。

十代の私は何も考えずに書いていた

 ここには「主語(私)」と「述語(書く)」はあるが、「目的語」がない。「目的語」がないけれど、それは「詩」であることが推測できる。(四行目に「詩」はやっと登場する。)なぜ「詩」であると推測できるかというと、谷川が詩人であること(詩を書く人であること)を私が知っているからである。
 でも、なぜ谷川は「詩を」ということばを省略したのか。
 これは私の考えでは、「詩」というものが谷川の「肉体」にしっかりと結びついてしまっているからである。谷川は「省略した」という気持ちがないままに書いている。「省略した」ことについて気がついていない。こんなふうに「肉体」にしみついてしまったことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「省略した」ことに気づいていないということは、また「何も考えずに」書いているということでもある。「坦々麺」には「思いがけずに」という表現があったが、「思いがけずに/無意識に」書いてしまったものが「詩」であるなら、この一行こそが「詩」というものである。省略されたことばが、省略されたまま説得力をもつとき、説明が不要なとき、それは詩である。というのは、私の「定義」であって、谷川はそう「定義」するかどうかはまた別の問題。
 谷川自身は、この、省略された「詩」というものを、言いなおしている。ひとは大事なことは何度でも言いなおすものである。「肉体」にしみ込んでいて、自分自身にはわかっているけれど、わかっていながら言いなおさずにはいられないことがある。大切なこと、というのがそれに当たる。「詩」は谷川の「肉体」にしみ込んでいる。そして、それはとても大切なものである。だから、言いなおす。
 好きなものを好きと「書く」ことが詩を書くこと。そして「書く」ということは、「心を動かされたとき(好きになったとき)」、「心を動かしたもの(好きなもの)」を「書く」ということ。「言葉に翻訳」するということ。「好き」というもの「心が動く」ことだが、「心が動いている」とき、それはまだ「言葉」になっていない。それを「言葉」にする。
 その「言葉にする」行為を「翻訳(する)」と谷川は言いなおしている。これはどういうことか。「心が動いたとき、そこにはまだ言葉はない」と私は書いたが、実は「言葉」はある。谷川の意識はそれを感じている。「未生の言葉」が「感動」の瞬間、心のなかにある。その「未生の言葉」を、「流通している言葉」に「翻訳する」。「書く」とは、「流通している言葉」をつかって書くということなのだから。
 最初の三行に「詩」ということばは出て来ないが、これは詩を定義した三行である。詩で書かれた定義である。「詩で」とことわったのは、繰り返しになるが、「詩」ということばが省略されている、つまり「詩」というものがその三行にしっかり絡み付いていて、詩とは意識されないものになっているからである。谷川は、この三行を詩で詩を定義しているとは思っていないだろう。
 こういう「無意識」を言いなおすと、「詩であるかどうかは気にしなかった」ということにもなる。大事なことは、こんなふうにして繰り返されるのである。
 で、そのあと谷川の考える「詩の定義」が書かれる。「詩であるのかないのか/そんなことは人が勝手に決めればいい」。つまり、ひとりひとりが勝手に決めればいいことであって、谷川自身は「詩を定義しない」と言っている。ここにも、最初の三行が詩の定義になっていることに対する「無自覚」が見てとれる。
 「定義」というのは谷川の「無意識」では「散文」で書かれるものなのだろう。だからこそ、二連目は「散文」に徹して詩を定義し直そうとする。一連目のことばを「散文に変装して」と批判して、「詩に近づこう」としたものだと続ける。「詩に近づく」とは「詩の定義に近づく(詩の定義を試みる)」ということだろう。
 そう考えるときの「散文」とはどういうものか。「散文」を定義すると、どうなるか。「虚構を排して可能な限り自分を正確に述べようとして」に、「定義」を読み取ることができる。散文は「虚構を排して」事実を「正確に」書くもの。「自分を」のかわりに「事実を」を補うと「散文」の定義になる。ここで谷川が「自分を」と書いているのは、ここに書かれているものが「自画像」だから「自分」ということばが動くのである。その「自分」ということばを「事実」に置き換えると、一般的な「散文の定義」そのものになる。
 そうして「散文」に徹しようとして(「散文」的に詩を定義しようとして)、

この文体は間違っていたとと気づく

 という「結論」に達する。これは、一連目で書いていることは「詩を定義したことにならない」という意味であり、また一連目は詩になっていない、という意味でもある。私は冒頭の三行を無意識に書かれた詩と定義して読んだが、谷川はそれを含めて詩ではない(詩として間違っている)と言っていることになる。間違っていることにどこかで気づいていたから「詩」ということばを省略していたのだ。
 こんなふうに、最初に書いたことを途中で変更してしまうのは私の癖だが、こういう書き方を「いい加減」過ぎて「論」になっていないという声がどこからか聞こえてきそうだ。だが、書いているうちに何かに気づくというのは私に言わせればふつうのことであり、最初から最後まで「考え」が変わらないとしたら、それは考えていないからだと思う。考えれば、考えはどんどん変わる。私の大好きなソクラテス(プラトン)は、対話篇の中で考え(知っていると思っていること)が変わるということだけを書いているし、谷川自身もこの作品の中で、「間違っていたと気づく」と書いて、そのあと詩を定義しなおしている。「書く(ことばを動かす)」ということは「考え」が変わることなのだ。「考え(ものの見方)」を変えるためにことばは書かれるのだ。

詩に近づこうとしてはいけない 詩に跳びこまねば!
こうして私、谷川はますます詩から遠ざかる

 この二行は「間違っていた」ことを言いなおしたもの、つまり詩を定義しなおしたものである。「詩に近づく」とは「詩を定義する」こと。「詩とは何であるか」をことばで説明しようとすること。それでは詩はつかめない。逆に詩から遠ざかることになる。詩にとって必要なことは「詩に跳びこむ」こと。詩にどっぷりつかって、それが詩であるか、詩でないか、考えないこと。「何も考えないこと」。そこにあることばをただ繰り返すこと。繰り返して自分の「肉体」のなかにいれてしまうこと。「考え」を省略する、というより、「考え」を捨ててしまう。「自分のこころ」を捨てて、「無心」になって、そこに書かれていることばそのものになる。
 ここで最初の一行にもどってしまう。
 「何も考えずに書いていた」。それが詩。そこに「詩を」ということばは省略されていたが、詩と考えなかったからこそ、それは詩だった。省略されたものだけが「本当」なのである。本当にその人に身に付いている、「肉体」になってしまっていることなのである。「何も考えずに詩を書いていた」では「嘘」になってしまうのだ。
 「詩は定義できない」というのが「詩の定義」になる。詩はただ「味わう」だけのものである。--ということは、私は、こんな文章など書いてはいけない、ということにもなるのだが……。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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