嵯峨信之を読む(62)
109 永遠の目盛り
生と死を見つめつづける嵯峨。「永遠の目盛り」にも嵯峨の思想が書かれている。
最初の三行は、抽象的な表現である。ひとはたしかに自分の一生の終わりを知らない。知らないまま、日々の仕事をつづける。「遅すぎもせず早すぎもしない」という表現に、嵯峨がそのすべてを対等なものと見つめている視線を感じる。それぞれがそれぞれの時間に合わせて仕事をしている。
そのあと、ことばが転調する。抽象的な表現から具体的な描写にかわる。変わるのだけれど、それは「調子」が変わっただけで、基本的なメロディーラインは同じである。
「いそぐ」と「いそがない」が対比されている。「いそがない」という表現はつかわれていないが、一方に「日差し」(このことばも書かれているわけではないが)のなかで刈り入れをする村人がいて、そのひとたちは「いそいでいる」。他方に「樹陰」を「のんびりと」(このことばも書かれていないが)歩く「村びとではないひと」(旅人だろう)が描かれる。その対比が「遅すぎもせず早すぎもしない」と呼応する。「旅人」もまた「仕事」なのである。
どういう「仕事」かというと、働いているひとに「旅人」の生き方もあると知らせる「仕事」である。
そう書いたあとで、詩は再び「転調」する。
最初の「生命」は「村びと」。それは麦の「稔りを収穫し」ている。あとの「生命」は「旅人」。彼は「何処ともなく」、つまり「目的」が明確ではないまま「道を急いでいる」。
私は先に旅人の歩みを「のんびりと」とことばを補って読んだが(村びとの労働と対比して、そう読んだが)、嵯峨はその「のんびり」を「急いでいる」と書き直している。涼しい「緑陰」を「のんびり」歩いているが、それは日差しのなかで刈り入れを「いそいで」いる村びとから見ればそう見えるというだけのことであって、旅人には旅人のせっぱつまった思いがある。歩かなければならない思いがある。旅人から見れば、村びとの姿は、みんなで楽しくいっしょに刈り入れをしているという姿に見えるかもしれない。自分は目的も分からないまま、分からないがゆえに、分からないものに向かって急いでいる、苦しんでいるということになるかもしれない。
この一行を境にして、詩は、再び「抽象」のことばを動いていく。
「一粒の麦死なずば……」ということばを連想させる。だが嵯峨は「麦」のことだけを書いているわけではない。最終行の「すべて」は、詩のなかのことばで言いなおせば「村びと」と「旅人」である。互いに立場が違う。違うものであっても、それぞれが他者に対して何らかの「印象」を残す。立場の違う人を見ながら、ひとは何かを感じる。その「感じ」が「人生の目盛り」なのだ。その「目盛り」が増えるほど、人生(大地)の「時間」は「富み」、その生命の「稔り」は「ふかまり」「熟れる」。人生の「時間」の内部が豊かになる。すべての存在は人生の時間の内部を豊かにするために存在する。
詩も、詩のことばも、と嵯峨は祈りをこめて書いている。
109 永遠の目盛り
生と死を見つめつづける嵯峨。「永遠の目盛り」にも嵯峨の思想が書かれている。
たれも自分の生命の終りについて知つていない
その計量できない全時間のなかで
ひとは遅すぎもせず早すぎもしない仕事をつづけている
村びとが熟れた麦の刈入れをいそぐのを眺めながら
あるものは大きな樹陰の道を歩いて行く
最初の三行は、抽象的な表現である。ひとはたしかに自分の一生の終わりを知らない。知らないまま、日々の仕事をつづける。「遅すぎもせず早すぎもしない」という表現に、嵯峨がそのすべてを対等なものと見つめている視線を感じる。それぞれがそれぞれの時間に合わせて仕事をしている。
そのあと、ことばが転調する。抽象的な表現から具体的な描写にかわる。変わるのだけれど、それは「調子」が変わっただけで、基本的なメロディーラインは同じである。
「いそぐ」と「いそがない」が対比されている。「いそがない」という表現はつかわれていないが、一方に「日差し」(このことばも書かれているわけではないが)のなかで刈り入れをする村人がいて、そのひとたちは「いそいでいる」。他方に「樹陰」を「のんびりと」(このことばも書かれていないが)歩く「村びとではないひと」(旅人だろう)が描かれる。その対比が「遅すぎもせず早すぎもしない」と呼応する。「旅人」もまた「仕事」なのである。
どういう「仕事」かというと、働いているひとに「旅人」の生き方もあると知らせる「仕事」である。
そう書いたあとで、詩は再び「転調」する。
一つの生命は豊かな稔りを収穫し他の生命は何処ともなく道を急いでいる
最初の「生命」は「村びと」。それは麦の「稔りを収穫し」ている。あとの「生命」は「旅人」。彼は「何処ともなく」、つまり「目的」が明確ではないまま「道を急いでいる」。
私は先に旅人の歩みを「のんびりと」とことばを補って読んだが(村びとの労働と対比して、そう読んだが)、嵯峨はその「のんびり」を「急いでいる」と書き直している。涼しい「緑陰」を「のんびり」歩いているが、それは日差しのなかで刈り入れを「いそいで」いる村びとから見ればそう見えるというだけのことであって、旅人には旅人のせっぱつまった思いがある。歩かなければならない思いがある。旅人から見れば、村びとの姿は、みんなで楽しくいっしょに刈り入れをしているという姿に見えるかもしれない。自分は目的も分からないまま、分からないがゆえに、分からないものに向かって急いでいる、苦しんでいるということになるかもしれない。
この一行を境にして、詩は、再び「抽象」のことばを動いていく。
すべての日常の殻の中にそつと這入りこむ
そしてまた何かの種子となつて四方に飛び散つて
つつましく匂やかに大地を富ましている
たれもがそれぞれの生命をふかめ熟れさせる
すべてが永遠なるものの目盛りとなつて刻まれるのだ
「一粒の麦死なずば……」ということばを連想させる。だが嵯峨は「麦」のことだけを書いているわけではない。最終行の「すべて」は、詩のなかのことばで言いなおせば「村びと」と「旅人」である。互いに立場が違う。違うものであっても、それぞれが他者に対して何らかの「印象」を残す。立場の違う人を見ながら、ひとは何かを感じる。その「感じ」が「人生の目盛り」なのだ。その「目盛り」が増えるほど、人生(大地)の「時間」は「富み」、その生命の「稔り」は「ふかまり」「熟れる」。人生の「時間」の内部が豊かになる。すべての存在は人生の時間の内部を豊かにするために存在する。
詩も、詩のことばも、と嵯峨は祈りをこめて書いている。
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