谷川俊太郎『詩に就いて』(9)(思潮社、2015年04月30日発行)
詩を書こうとしている。書き始めた。でも、行き詰まった。そういうときのことを書いているのだろう。
一行目「詩が言葉に紛れてしまった」は「詩の言葉」が「ふつうの言葉(詩ではない言葉)」に紛れてしまった。区別がつかなくなった、ということだろう。「紛れる」は、「見えなくなった」「消えた」「失われた」とも言い換えることができる。
「詩の言葉」が「ふつうの言葉」に紛れてしまうのは、「詩の言葉」よりも「ふつうの言葉」の方が数が多いからだ。で、この「数が多い」という感じが二行目の「群衆」という比喩になる。多数の、ふつうの言葉のなかから、数少ない「詩の言葉」を探す。
「詩の言葉」も「ふつうの言葉」も「ひと」ではないが、谷川はここでは「ひと」のように扱っている。それが最後に「鬼っ子」「師父」という「ひと」のあり方となってもう一度あらわれている。
この「言葉はひとである」という比喩はこころに留めておいていいと思う。この「意識」があるからこそ、
という「ひと」ではない自然の描写がとても新鮮に見える。新しい世界が、何かを突き破ってあらわれてる感じになる。「ひと」と無関係の自然(山鳩)、宇宙の動き(日影の変化)の登場によって「ひと」が、それまでと違った存在に見えてくる。「鬼っ子(親に似ていない子)」「師父(父親のように尊敬できる師」という「ひとの性質/本質」が問われることになる。
詩が消えたとき、どうするか。ただ待つしかない。谷川は、そう書いている。そういう「意味」ではなくて、この作品のなかにある「動き」、あることばと別のことばがどういう関係にあるかを見ていく。
詩を探すとき、谷川は「目が痛い」「(鼻が)臭う(臭いを嗅ぐ)」「耳が惑う」と肉体(五感)をつかっている。この「動詞」は二連目の「背筋を伸ばして座っている」と「対」になっている。前者の肉体は動く。けれど後者は動かない。そういう対比がある。そして、その「動かない」を強調するために「固い椅子」という動かないものが結びつけられている。この「固い椅子」ということばがあるために、「目で探す」「鼻で探す」「耳で探す」という「動詞」と、その「動詞」に結びついている「肉体」が「やわらかく」感じられる。「やわらかい」ということばは書かれていないが「固い」ということばが「対」の形で「やわらかい」を呼び出していることが分かる。ことばの順序から言うと逆で、書かれていない「やわらかい」が「固い」を呼び出しているのだが。
こういう「対」のなかには「意味」だけではなく、ほかのものもある。「対」が呼び出す存在の音楽というようなものがある。ことばの音楽というと、どうしても「韻」(ごろあわせ)のようなものを考えてしまうけれど、ことばが含む感覚の響きあい(調べの共通性)がある。目、鼻、見は動くが背筋は動かない。背筋を「伸ばす」という「動詞」は「動き」であるはずだが、「伸ばす」ことによって「動かない」という形になる。そういう不思議な響きあいがおもしろい。
「対」が呼び出す存在の音楽と言えるかどうかわからないが、「調べ」と「沈黙」の向き合い方にも、そういうものを感じる。
目、鼻、耳と動いてきた肉体(感覚)。その最後の耳は「調べ」を聞く。その耳と「聞く」という動詞の結びつきが「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という一行を挟んで「沈黙」ということばを呼び出す。この「沈黙」がとても自然なことばに感じられるのは、その前に「調べ」を聞く「耳」があるからだ。
この「意味」から考えると(感じると)、「沈黙」の反対のことば(対のことば)は「調べ」であるはずなのだが、谷川は「調べ」へ戻るのではなく「沈黙」を「騒がしい」ということばと「対」にさせ、さらにそれを「無意識」と結びつけていく。この急激な変化は二連目の「山鳩が鳴いて……」の変化のように、とても刺激的だ。そうか……と思わず立ち止まって考えてしまう。
「沈黙」が「調べ」「耳」と連続し、その「沈黙」がその肉体の連続を断ち切って、「騒がしい」「無意識」という肉体以外のものへ移行する。その接続/切断の感じが、急で、有無を言わせない。批評を拒絶している。そこにある「絶対」としての何か。それに詩を感じる。
最後の「鬼っ子」「師父」については、「群衆」について書いたとき触れたが、詩を「ひと」としてあつかっているのが、谷川の「本質」をあらわしていると思う。谷川にとっては「言葉」は「ひと」であり、「詩」は「ひと」である。
「師父」につけられている「無口な」という修飾語は「沈黙」と「対」になっている。詩は語らない。だから、聞きに行かなければならない。ことばになる前のところまで。
一連目の「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という問いの答えは、この「無口」にあるかもしれない。ただし、その「無口」は「鬼っ子」のように「騒がしい無意識」の別称かもしれない。「師父」と「鬼っ子」、「無口」と「騒がしい」はかけ離れた存在なのか、それともぴったりとくっついた表裏なのか。
どっちがあらわれてもいいと「観念して」向き合うのが詩かもしれない。
待つ
詩が言葉に紛れてしまった
言葉の群衆をかき分けて詩を探す
明示の点滅が目に痛い
含意がむんむん臭う
母語の調べに耳が惑う
詩はどこへ向かおうとしたのだろう
疲れて沈黙に戻ろうとするが
沈黙は騒がしい無意識に汚染されている
待っているしかないと観念して
固い椅子に背筋を伸ばして座っていると
山鳩が鳴いて日影が伸びてゆく
詩よ おまえは言葉の鬼っ子なのか
それとも言葉の無口な師父なのか
詩を書こうとしている。書き始めた。でも、行き詰まった。そういうときのことを書いているのだろう。
一行目「詩が言葉に紛れてしまった」は「詩の言葉」が「ふつうの言葉(詩ではない言葉)」に紛れてしまった。区別がつかなくなった、ということだろう。「紛れる」は、「見えなくなった」「消えた」「失われた」とも言い換えることができる。
「詩の言葉」が「ふつうの言葉」に紛れてしまうのは、「詩の言葉」よりも「ふつうの言葉」の方が数が多いからだ。で、この「数が多い」という感じが二行目の「群衆」という比喩になる。多数の、ふつうの言葉のなかから、数少ない「詩の言葉」を探す。
「詩の言葉」も「ふつうの言葉」も「ひと」ではないが、谷川はここでは「ひと」のように扱っている。それが最後に「鬼っ子」「師父」という「ひと」のあり方となってもう一度あらわれている。
この「言葉はひとである」という比喩はこころに留めておいていいと思う。この「意識」があるからこそ、
山鳩が鳴いて日影が伸びてゆく
という「ひと」ではない自然の描写がとても新鮮に見える。新しい世界が、何かを突き破ってあらわれてる感じになる。「ひと」と無関係の自然(山鳩)、宇宙の動き(日影の変化)の登場によって「ひと」が、それまでと違った存在に見えてくる。「鬼っ子(親に似ていない子)」「師父(父親のように尊敬できる師」という「ひとの性質/本質」が問われることになる。
詩が消えたとき、どうするか。ただ待つしかない。谷川は、そう書いている。そういう「意味」ではなくて、この作品のなかにある「動き」、あることばと別のことばがどういう関係にあるかを見ていく。
詩を探すとき、谷川は「目が痛い」「(鼻が)臭う(臭いを嗅ぐ)」「耳が惑う」と肉体(五感)をつかっている。この「動詞」は二連目の「背筋を伸ばして座っている」と「対」になっている。前者の肉体は動く。けれど後者は動かない。そういう対比がある。そして、その「動かない」を強調するために「固い椅子」という動かないものが結びつけられている。この「固い椅子」ということばがあるために、「目で探す」「鼻で探す」「耳で探す」という「動詞」と、その「動詞」に結びついている「肉体」が「やわらかく」感じられる。「やわらかい」ということばは書かれていないが「固い」ということばが「対」の形で「やわらかい」を呼び出していることが分かる。ことばの順序から言うと逆で、書かれていない「やわらかい」が「固い」を呼び出しているのだが。
こういう「対」のなかには「意味」だけではなく、ほかのものもある。「対」が呼び出す存在の音楽というようなものがある。ことばの音楽というと、どうしても「韻」(ごろあわせ)のようなものを考えてしまうけれど、ことばが含む感覚の響きあい(調べの共通性)がある。目、鼻、見は動くが背筋は動かない。背筋を「伸ばす」という「動詞」は「動き」であるはずだが、「伸ばす」ことによって「動かない」という形になる。そういう不思議な響きあいがおもしろい。
「対」が呼び出す存在の音楽と言えるかどうかわからないが、「調べ」と「沈黙」の向き合い方にも、そういうものを感じる。
目、鼻、耳と動いてきた肉体(感覚)。その最後の耳は「調べ」を聞く。その耳と「聞く」という動詞の結びつきが「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という一行を挟んで「沈黙」ということばを呼び出す。この「沈黙」がとても自然なことばに感じられるのは、その前に「調べ」を聞く「耳」があるからだ。
この「意味」から考えると(感じると)、「沈黙」の反対のことば(対のことば)は「調べ」であるはずなのだが、谷川は「調べ」へ戻るのではなく「沈黙」を「騒がしい」ということばと「対」にさせ、さらにそれを「無意識」と結びつけていく。この急激な変化は二連目の「山鳩が鳴いて……」の変化のように、とても刺激的だ。そうか……と思わず立ち止まって考えてしまう。
「沈黙」が「調べ」「耳」と連続し、その「沈黙」がその肉体の連続を断ち切って、「騒がしい」「無意識」という肉体以外のものへ移行する。その接続/切断の感じが、急で、有無を言わせない。批評を拒絶している。そこにある「絶対」としての何か。それに詩を感じる。
最後の「鬼っ子」「師父」については、「群衆」について書いたとき触れたが、詩を「ひと」としてあつかっているのが、谷川の「本質」をあらわしていると思う。谷川にとっては「言葉」は「ひと」であり、「詩」は「ひと」である。
「師父」につけられている「無口な」という修飾語は「沈黙」と「対」になっている。詩は語らない。だから、聞きに行かなければならない。ことばになる前のところまで。
一連目の「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という問いの答えは、この「無口」にあるかもしれない。ただし、その「無口」は「鬼っ子」のように「騒がしい無意識」の別称かもしれない。「師父」と「鬼っ子」、「無口」と「騒がしい」はかけ離れた存在なのか、それともぴったりとくっついた表裏なのか。
どっちがあらわれてもいいと「観念して」向き合うのが詩かもしれない。
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