詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(9)

2015-05-08 19:52:02 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(9)(思潮社、2015年04月30日発行)



待つ

詩が言葉に紛れてしまった
言葉の群衆をかき分けて詩を探す
明示の点滅が目に痛い
含意がむんむん臭う
母語の調べに耳が惑う
詩はどこへ向かおうとしたのだろう
疲れて沈黙に戻ろうとするが
沈黙は騒がしい無意識に汚染されている

待っているしかないと観念して
固い椅子に背筋を伸ばして座っていると
山鳩が鳴いて日影が伸びてゆく
詩よ おまえは言葉の鬼っ子なのか
それとも言葉の無口な師父なのか

 詩を書こうとしている。書き始めた。でも、行き詰まった。そういうときのことを書いているのだろう。
 一行目「詩が言葉に紛れてしまった」は「詩の言葉」が「ふつうの言葉(詩ではない言葉)」に紛れてしまった。区別がつかなくなった、ということだろう。「紛れる」は、「見えなくなった」「消えた」「失われた」とも言い換えることができる。
 「詩の言葉」が「ふつうの言葉」に紛れてしまうのは、「詩の言葉」よりも「ふつうの言葉」の方が数が多いからだ。で、この「数が多い」という感じが二行目の「群衆」という比喩になる。多数の、ふつうの言葉のなかから、数少ない「詩の言葉」を探す。
 「詩の言葉」も「ふつうの言葉」も「ひと」ではないが、谷川はここでは「ひと」のように扱っている。それが最後に「鬼っ子」「師父」という「ひと」のあり方となってもう一度あらわれている。
 この「言葉はひとである」という比喩はこころに留めておいていいと思う。この「意識」があるからこそ、

山鳩が鳴いて日影が伸びてゆく

 という「ひと」ではない自然の描写がとても新鮮に見える。新しい世界が、何かを突き破ってあらわれてる感じになる。「ひと」と無関係の自然(山鳩)、宇宙の動き(日影の変化)の登場によって「ひと」が、それまでと違った存在に見えてくる。「鬼っ子(親に似ていない子)」「師父(父親のように尊敬できる師」という「ひとの性質/本質」が問われることになる。

 詩が消えたとき、どうするか。ただ待つしかない。谷川は、そう書いている。そういう「意味」ではなくて、この作品のなかにある「動き」、あることばと別のことばがどういう関係にあるかを見ていく。
 詩を探すとき、谷川は「目が痛い」「(鼻が)臭う(臭いを嗅ぐ)」「耳が惑う」と肉体(五感)をつかっている。この「動詞」は二連目の「背筋を伸ばして座っている」と「対」になっている。前者の肉体は動く。けれど後者は動かない。そういう対比がある。そして、その「動かない」を強調するために「固い椅子」という動かないものが結びつけられている。この「固い椅子」ということばがあるために、「目で探す」「鼻で探す」「耳で探す」という「動詞」と、その「動詞」に結びついている「肉体」が「やわらかく」感じられる。「やわらかい」ということばは書かれていないが「固い」ということばが「対」の形で「やわらかい」を呼び出していることが分かる。ことばの順序から言うと逆で、書かれていない「やわらかい」が「固い」を呼び出しているのだが。
 こういう「対」のなかには「意味」だけではなく、ほかのものもある。「対」が呼び出す存在の音楽というようなものがある。ことばの音楽というと、どうしても「韻」(ごろあわせ)のようなものを考えてしまうけれど、ことばが含む感覚の響きあい(調べの共通性)がある。目、鼻、見は動くが背筋は動かない。背筋を「伸ばす」という「動詞」は「動き」であるはずだが、「伸ばす」ことによって「動かない」という形になる。そういう不思議な響きあいがおもしろい。

 「対」が呼び出す存在の音楽と言えるかどうかわからないが、「調べ」と「沈黙」の向き合い方にも、そういうものを感じる。
 目、鼻、耳と動いてきた肉体(感覚)。その最後の耳は「調べ」を聞く。その耳と「聞く」という動詞の結びつきが「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という一行を挟んで「沈黙」ということばを呼び出す。この「沈黙」がとても自然なことばに感じられるのは、その前に「調べ」を聞く「耳」があるからだ。
 この「意味」から考えると(感じると)、「沈黙」の反対のことば(対のことば)は「調べ」であるはずなのだが、谷川は「調べ」へ戻るのではなく「沈黙」を「騒がしい」ということばと「対」にさせ、さらにそれを「無意識」と結びつけていく。この急激な変化は二連目の「山鳩が鳴いて……」の変化のように、とても刺激的だ。そうか……と思わず立ち止まって考えてしまう。
 「沈黙」が「調べ」「耳」と連続し、その「沈黙」がその肉体の連続を断ち切って、「騒がしい」「無意識」という肉体以外のものへ移行する。その接続/切断の感じが、急で、有無を言わせない。批評を拒絶している。そこにある「絶対」としての何か。それに詩を感じる。

 最後の「鬼っ子」「師父」については、「群衆」について書いたとき触れたが、詩を「ひと」としてあつかっているのが、谷川の「本質」をあらわしていると思う。谷川にとっては「言葉」は「ひと」であり、「詩」は「ひと」である。
 「師父」につけられている「無口な」という修飾語は「沈黙」と「対」になっている。詩は語らない。だから、聞きに行かなければならない。ことばになる前のところまで。
 一連目の「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という問いの答えは、この「無口」にあるかもしれない。ただし、その「無口」は「鬼っ子」のように「騒がしい無意識」の別称かもしれない。「師父」と「鬼っ子」、「無口」と「騒がしい」はかけ離れた存在なのか、それともぴったりとくっついた表裏なのか。
 どっちがあらわれてもいいと「観念して」向き合うのが詩かもしれない。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(1)

2015-05-08 09:30:15 | 詩集
江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(1)(思潮社、2015年04月30日発行)

 江代充の詩は、感想を書くのがむずかしい。書かれていることが、「直接的」であるというより、「間接的」である。「間接的」に感じられる。そして、それが「間接的」であるにもかかわらず、「存在感」がある。「抵抗感」がある。「間接的」なら、直接かかわってくるわけではないから半分無視してもいいのに、無視することを拒む力がある。
 この「文体」の力はどこから来ているのか。
 私は今回はじめて『公孫樹』の詩篇を読んだ。そして、そこに江代の「文体」の原点を見たように感じた。
 「2」の部分。

夏に朽ちる木がある
おんなのひとと遊んでいると
庭を隔てた壁に蛇がしずかに這うことがある
壁のむこうの神社にはひともとの公孫樹があって
そのまわりに人だかりのすることがある
夏に朽ちる木がある
祖母の死をおもって啼くことがある
おんなのしとと遊んでいると
庭を隔てた壁に蛇がしずかに這うことがある

 「おんなのひとと遊んでいると」という行と「おんなのしとと遊んでいると」という行の、微妙なずらしに目を奪われてしまう。「ひと」「しと」の交錯に「江戸っ子訛り」を感じ、そういうことを書きたくなるが……。
 そのことに目をつむると違うものに気がつく。
 「動詞」のつかい方がとてもかわっている。
 「おんなのひとと遊んでいると」「おんなのしとと遊んでいると」の二行には「遊んで+いる」という動詞があるが、その他の行は「ある」という動詞で統一されている。ほんとうはこの二行も「ある」でしめくくりたかったのだろうと思う。しかし、このときの江代には、そのことができなかった、ということだろう。
 「ある」という動詞は、動詞といいながら「動かない」。江代は、世界を「動かない」状態で把握している。世界を「名詞」の組み合わせで把握している。動詞を排除して把握している。そのために、読んでいて何かが迫ってくるという感じがない。直接的に自分にかかわってくるという感じがしない。世界が「視覚化」されて、固定されている。その「固定化」が強固すぎて、うーん、どうすれば打ち解けることができるかなあ、と困った感じになってしまう。
 世界を「名詞」で把握している、ということを別の言い方で表現すると、世界を「名詞化」することで把握するということだ。「動詞」をそのまま書いてしまうのではなく「動詞」を「名詞化」する。
 たとえば、「庭を隔てた壁に蛇がしずかに這う」ならば、這う「ことがある」と、「こと」をつけくわえることで「名詞化」する。この方法は他の行でも「することがある」「啼くことがある」という具合に繰り返されている。
 江代は「名詞(こと)+ある」という「状態」として世界を表現する。「庭を隔てた壁に蛇がしずかに這う」は、ある意味では(ほんとうは?)「庭を隔てた壁に蛇がしずかに這う」+「のを(私は)見た」かもしれない。「私」が見ないかぎり、その世界は存在していたとしても、存在の意味を持たない。だが、江代はそうは絶対に書かない。だから、この「名詞化+ある」という文体は、「私」を消しながら、世界だけを存在させる文体(表現方法)だと言えるかもしれない。「私」を消しながら、しかし、「私が見た」ということを読者に意識させるという入り組んだ構造が、なにかしら「抵抗感」となって読者に響いてくる。あ、読者と書いたけれど、私だけに限定されることかもしれない。
 このことから逆のことも言える。一行目には「こと」がない。「こと」を補うと「夏に木が朽ちることがある」というのがいちばん簡便な文かもしれないが、そう書かないのは、江代はそう考えていないからだ。「夏に朽ちる木になることがある」。たぶん、そう考えているのだ。「木が、木になる」、「木」をそんなふうに「動詞」として考えている。(これは、説明ができない。私は直感的に、そう感じている。)「名詞」には「名詞」+「に+なる」という「動詞」が含まれている。短縮して言うと、「名詞」は究極の「動詞」である。そしてそのことから考えるならば、ここに書かれていない「私」も「私になる」という形で隠れて存在している。

おんなのしとと遊んでいると



おんなのしとと遊んでいる「私になると」と

 と読み直すと江代の世界にのみこまれてしまう。「私になると」の「私」が「江代」ではなく「読んでいる私(読者)」の体験のようになまなましくなる。

 「動詞」のつかい方も変わっているが、「名詞」のつかい方も、とても変わっているのだ。「動詞」は「名詞」、「名詞」は「動詞」という、変わった「文体」が、江代のことばを「間接的」に感じさせるのだ。

 ところで、どうして「おんなのひとと遊んでいると」「おんなのしとと遊んでいると」の二行だけ、「こと+ある」と書けなかったのだろう。書かなかったのだろう。「おんなのひとと遊ぶことがある そのとき」という具合に書けるはずなのに書かなかった。
 なぜだろう。
 一つは、このときはまだ江代の「文体」は確立途上であったということがあるかもしれない。私はこの時代の江代の作品を知らなかったので、この作品を読むことができなのは江代を理解する上でとてもよかった。
 もう一つは、先に書いたことと関係するが、「おんなのひとと遊んでいると」には「私が」という主語が省略されていることが影響しているかもしれない。「私」というのは「ひと」。「ひと」については「ある」という「動詞」のかわりに「いる」をつかう。その日本語の習慣に影響されていると言える。このとき、まだ江代は「江代語」ではなく「日本語」で詩を書いている。そんなことも感じさせる。この「いる」がやがて「なる」に変わる。「日本語」が「江代語」に変わる。


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