詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(63)

2015-05-09 11:08:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(63)

110 鎮魂歌

 詩はいつでも矛盾のなかにある。不可能のなかにある、ということもできるかもしれない。

あのひとはさつきから横たわつたまゝです
花々の匂いすら もうあのひとを起こすことができないのです

 死者は再び目覚めない。分かっていても「花々の匂いすら もうあのひとを起こすことができないのです」という不可能な行を美しいと思う。不可能なことばのなかに祈りがあるからだ。できない。できないから、祈る。もう一度目を覚ましてくれたなら、と。矛盾を超えたいという熱い思いがそこにある。矛盾を言ってしまう熱い思いが詩なのだろう。
 また「祈り」とは違う形の矛盾もある。(矛盾ということばは正しくないかもしれないが……。)

(たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている)
と 云つていたあのひとは
いまたれの周りで亡くなつているのでしよう

 ことばを「論理」的に追っていくと、追いきれないものがある。それをとりあえず「矛盾」と呼んでみるのだが。
 「あのひと」は生前、人間は「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と言っていた。それは彼の「思想」である。そのことばを嵯峨はきちんと聞いていたつもりである。聞いていたからおぼえているのだが、そのときは「あのひと」が死ぬということは想定していなかった。生きているから、滅ぶもの(死んでいくもの)を認識し、それ死者に取り囲まれていると言うことができる。死んでしまったら、そういうことは言えない。言えないのだけれど、彼のことばが「真実」なら、彼はまた誰かを囲む死者のひとりとなって誰かを囲んでいるはずである。
 だれを囲んで?
 嵯峨を囲む死者のひとりになって、いま、そこにいる。
 それを実感しようとする。しかし、実感したくない。死んだとは思いたくない。--この気持ちが「矛盾」。彼の「論理」を彼が生きているときは「正しい」と思った。感動した。けれど、いま彼が死んでしまうと、その「論理」を信じたくない。そういう「矛盾」が生まれてくる。

あのひとは自分のこころに書きつけていたものを 全部もつていつてしまいました
まだそれがあのひとにとつて用でもあるように

 彼は自分のこころのなかに思っていることをすべて語って死んだのではない。そういうことのできるひとはいない。だれでも何かをいい残したまま(こころに書きつけることしかしなかったことを残したまま)、それを全部持っていってしまう。
 これは本当かな?
 違うと思う。たとえば、嵯峨は、「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と彼が言ったことをおぼえている。そのことばは、彼が死んだあとも生きている。嵯峨のこころに残っている。
 「全部」を持っていくわけではない。
 それなのに、そういうものが残っているからこそ「全部もつていつてしまいました」という思いが生まれる。ほかに、もっともっと、こころに書きつけられていたことばがあったはずだ、という思いが「全部」という表現になっている。
 「全部」という表現は「論理的」には間違っている。しかし「心情的」には正しい。こういう「矛盾」なのかに、詩が生きて、動いている。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(10)

2015-05-09 10:51:50 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(10)(思潮社、2015年04月30日発行)


詩人がひとり

詩人がひとり高みから大地に身を抛って
この世を中座した
その報を聞いてもうひとりの詩人は
言葉に縋るしかなかった

烏が鳴き続けている曇天の午後
言葉は滞っている
どんな言葉も彼の死と無関係でないが
どんな言葉も彼の死に関われない

そして詩は
言葉の胞衣に包まれて
生と死を分かつ川の子宮に
ひっそりと浮かんでいる

 わかるところ(わかったつもりになるところ)と、わからないところがある。
 一連目は「詩人」が投身自殺をした。それを聞いて「もうひとりの詩人(谷川)」が驚き、自分を落ち着かせる、あるいは死んだ詩人を追悼するために詩を書こうとした、という具合に読むことができる。
 二連目は、詩を書こうとしたのだが、なかなかことばが動かない。「彼の死に関われない」というのは、彼(彼女かもしれないが)を思って動くことばは、生きている彼につながることばだけである。思い出せるのは生きている彼であって、彼の死そのものを思うわけではない、ということだろうか。知らせが急であり、驚いたので、ことばが動いてくれないのかもしれない。そのため「烏が……」という死を連想させることばがまず動いているのかもしれない。
 三連目は、彼の死というよりも、詩そのものについて書いているような、とても奇妙な、わかりにくい四行である。私はに投身自殺した詩人というのがだれのことかわからないが、一、二連目まではまだその詩人が詩のなかに姿をみせていた。しかしここでは完全に姿を消してしまっている。死んだ詩人を思い浮かべるためのことばがない。死んだ詩人を思い浮かべることができない。
 これはいったい何を書いている四行なのだろうと、不思議な気持ちになる。何のために書いたのだろう。

 どんなふうに読み直そうか。

 各連に共通して出てくることばに「言葉」がある。しかし、その「言葉」は同じものとは思えない。
 一連目の「言葉」は「詩」と言い換えることができるかもしれない。「言葉に縋る」は「詩に縋る」「詩に頼る」ということのように思える。詩を書くことで、彼を追悼する。それ以外に谷川にできることはなかった。そして、このとき「追悼する」とは「中座した」詩人のいのちのつづきを詩のなかにつなげることである。詩のなかで生きている詩人ともう一度出会うということになると思う。詩に縋って、詩の力で、死んだ彼を甦らせるということだろう。
 二連目は、谷川の気持ちと、実際に書かれる「言葉(詩)」とのあり方を書いている。詩を書く(言葉に縋る)が、その言葉は滞って動いていかない。つまり詩になってくれない。この詩になってくれない言葉を「滞っている」と表現し、さらに「彼の死に関われない」と言いなおしている。「関わる」ためにはことばは対象の方へ近づいていく、先へ進まないといけないが、進まない。滞っている。だから関われない。
 ただし、その「関われない言葉」と「彼の死とは無関係ではない」、つまり「関係がある」とも書かれている。彼を思い出しながらことばは動くのだから、そこには「思い出す」という意識の深い部分での関係がある。全くの「無関係ではない」が、「関われない」。この「対」になった「矛盾」が複雑だ。
 「言葉」をもう一度読み直す。
 「言葉は滞っている」の「言葉」は、一連目の「言葉に縋るしかなかった」というときの「言葉」と同じものである。「詩」と言い換えることができる。「もうひとりの詩人/谷川」の「言葉」である。
 ところが、そのあとの「どんな言葉も彼の死と無関係でないが/どんな言葉も彼の死に関われない」の「言葉」は「谷川の言葉」であると同時に「谷川の言葉」ではない。「誰の」ということのできない「言葉一般」を含んでいる。自殺した詩人の書いてきた「言葉」もそこには当然含まれる。「言葉一般」はひとの暮らしのまわりに存在する。だから、それはすべてひとの生と関係がある。生と関係がある以上、死とも関係がある。「無関係ではありえない」。けれど、どの「言葉」を選べば、どの言葉を「谷川の言葉」にして、「追悼」すればいいのか。その選択ができない。選択に悩んでしまう。どの言葉も「谷川の言葉」になってくれない。「滞っている」とは、「言葉」が「谷川の言葉」にならないという意味だ。
 「詩」は書かれない。書くことができない。このとき、「詩」はどこにあるのか。それについて書いたのが三連目になるだろう。「言葉に縋るしかなかった」と一連目で書かれていた「言葉」は、三連目で「詩」という表現になって登場している。
 この三連目に書かれていることばのすべてを追っていくと、どうにもわからなくなるので、わかる部分を中心に三連目を読んでみる。「詩(谷川が縋ろうとした言葉)は」「言葉の胞衣に包まれて」「子宮に」「浮かんでいる」。「胞衣」は胎児をつつむ膜、胎盤。それは「子宮」と「対」になっている。呼応している。このとき「胎児」は「詩になる前の詩」のこと、「詩として生まれる前の詩」のことかもしれない。谷川の「肉体」のなかで動いている「詩」ということになる。「詩」は胎児のまま、「子宮」に「滞っている」のだ。
 「詩」というのは「言葉」だから、「未生の言葉」が「言葉」につつまれて、「子宮」のなかで動いている(滞っている)ということかもしれない。詩は、まだ生まれていない。けれど胎児のようにすでにいのちをもって動いている。そう書いているのだろう。
 詩は、簡単に書けるものではない。詩は、簡単に誕生するのものではない。詩は、詩になろうとして、いつでも動いているが、誕生までには時間がかかる。そういう意味だろうか。
 そうだと仮定して、私は、「生と死を分かつ川」につまずく。「生と死を分かつ川」というのは「三途の川」を思い起こさせる。死ぬために渡らなければならない川。そこに「詩の胎児」が生きている。しかも、「胞衣」とか「子宮」とか、「肉体」を強く感じさせることばといっしょに生きている。肉体を感じさせるということはいのちを感じさせることと同じだが、それが「死」を強く連想させる「三途の川」というのが、私には何とも理解できない。不可解である。では、どこの「川」ならいいのかと問われたら、どんな答えも持っていないのだけれど……。
 なぜ、ここに「死」を連想させることばが出てくるのか。「詩人が死んだ」ということが影響しているのか。そうかもしれない。死んだ詩人がわたっていく川、そこに「詩」がことばになる前のことば、詩になる前の形で生きている。そう感じるのだが、それを具体的な詩にできずに、抽象的な形で書いている、ということなのか。

 わからないことだらけなのだけれど、谷川が「詩」を「言葉の胞衣に包まれて」とか「子宮」という比喩で、胎児を連想させていることには注目すべきだと思う。「未生のことば」が「詩」そのものである。生まれてきたことばよりも、未生の段階の方が「詩」なのである。三連目は「詩は」ということばで、それ以後の三行が詩の定義であることを語っている。この連だけ「言葉」とは別に「詩」という表現もつかわれている。

 この詩は、とても抽象性の強い作品だが、三連目の「生と死を分かつ川(三途の川)」と同様、少し不思議なことばがある。二連目の「烏が鳴き続けている曇天の午後」という具象。具象なのだけれど、「烏」は死を連想させる。「鶯」だったら、この作品は奇妙な感じになる。ことばを動かすとき、谷川は、かなり頻繁に、こういう「定型」をつかう。「烏」が死を引き継ぎ、それにつづく「曇天」が次の行の「滞っている」をスムーズに引き寄せる。「晴天」だったら「滞っている」がやってこない。そういうことばを利用しながら、谷川は「抽象」的思考へと読者をスムーズに移行させている。抽象的なことばの前には、具象と意識/感覚を結びつける「定型」の踏み切り台があり、それを通過することでスムーズに抽象的思考へ移行できる。谷川の詩の具象と抽象の関係が象徴的にあらわれている。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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