嵯峨信之を読む(63)
110 鎮魂歌
詩はいつでも矛盾のなかにある。不可能のなかにある、ということもできるかもしれない。
死者は再び目覚めない。分かっていても「花々の匂いすら もうあのひとを起こすことができないのです」という不可能な行を美しいと思う。不可能なことばのなかに祈りがあるからだ。できない。できないから、祈る。もう一度目を覚ましてくれたなら、と。矛盾を超えたいという熱い思いがそこにある。矛盾を言ってしまう熱い思いが詩なのだろう。
また「祈り」とは違う形の矛盾もある。(矛盾ということばは正しくないかもしれないが……。)
ことばを「論理」的に追っていくと、追いきれないものがある。それをとりあえず「矛盾」と呼んでみるのだが。
「あのひと」は生前、人間は「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と言っていた。それは彼の「思想」である。そのことばを嵯峨はきちんと聞いていたつもりである。聞いていたからおぼえているのだが、そのときは「あのひと」が死ぬということは想定していなかった。生きているから、滅ぶもの(死んでいくもの)を認識し、それ死者に取り囲まれていると言うことができる。死んでしまったら、そういうことは言えない。言えないのだけれど、彼のことばが「真実」なら、彼はまた誰かを囲む死者のひとりとなって誰かを囲んでいるはずである。
だれを囲んで?
嵯峨を囲む死者のひとりになって、いま、そこにいる。
それを実感しようとする。しかし、実感したくない。死んだとは思いたくない。--この気持ちが「矛盾」。彼の「論理」を彼が生きているときは「正しい」と思った。感動した。けれど、いま彼が死んでしまうと、その「論理」を信じたくない。そういう「矛盾」が生まれてくる。
彼は自分のこころのなかに思っていることをすべて語って死んだのではない。そういうことのできるひとはいない。だれでも何かをいい残したまま(こころに書きつけることしかしなかったことを残したまま)、それを全部持っていってしまう。
これは本当かな?
違うと思う。たとえば、嵯峨は、「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と彼が言ったことをおぼえている。そのことばは、彼が死んだあとも生きている。嵯峨のこころに残っている。
「全部」を持っていくわけではない。
それなのに、そういうものが残っているからこそ「全部もつていつてしまいました」という思いが生まれる。ほかに、もっともっと、こころに書きつけられていたことばがあったはずだ、という思いが「全部」という表現になっている。
「全部」という表現は「論理的」には間違っている。しかし「心情的」には正しい。こういう「矛盾」なのかに、詩が生きて、動いている。
110 鎮魂歌
詩はいつでも矛盾のなかにある。不可能のなかにある、ということもできるかもしれない。
あのひとはさつきから横たわつたまゝです
花々の匂いすら もうあのひとを起こすことができないのです
死者は再び目覚めない。分かっていても「花々の匂いすら もうあのひとを起こすことができないのです」という不可能な行を美しいと思う。不可能なことばのなかに祈りがあるからだ。できない。できないから、祈る。もう一度目を覚ましてくれたなら、と。矛盾を超えたいという熱い思いがそこにある。矛盾を言ってしまう熱い思いが詩なのだろう。
また「祈り」とは違う形の矛盾もある。(矛盾ということばは正しくないかもしれないが……。)
(たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている)
と 云つていたあのひとは
いまたれの周りで亡くなつているのでしよう
ことばを「論理」的に追っていくと、追いきれないものがある。それをとりあえず「矛盾」と呼んでみるのだが。
「あのひと」は生前、人間は「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と言っていた。それは彼の「思想」である。そのことばを嵯峨はきちんと聞いていたつもりである。聞いていたからおぼえているのだが、そのときは「あのひと」が死ぬということは想定していなかった。生きているから、滅ぶもの(死んでいくもの)を認識し、それ死者に取り囲まれていると言うことができる。死んでしまったら、そういうことは言えない。言えないのだけれど、彼のことばが「真実」なら、彼はまた誰かを囲む死者のひとりとなって誰かを囲んでいるはずである。
だれを囲んで?
嵯峨を囲む死者のひとりになって、いま、そこにいる。
それを実感しようとする。しかし、実感したくない。死んだとは思いたくない。--この気持ちが「矛盾」。彼の「論理」を彼が生きているときは「正しい」と思った。感動した。けれど、いま彼が死んでしまうと、その「論理」を信じたくない。そういう「矛盾」が生まれてくる。
あのひとは自分のこころに書きつけていたものを 全部もつていつてしまいました
まだそれがあのひとにとつて用でもあるように
彼は自分のこころのなかに思っていることをすべて語って死んだのではない。そういうことのできるひとはいない。だれでも何かをいい残したまま(こころに書きつけることしかしなかったことを残したまま)、それを全部持っていってしまう。
これは本当かな?
違うと思う。たとえば、嵯峨は、「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と彼が言ったことをおぼえている。そのことばは、彼が死んだあとも生きている。嵯峨のこころに残っている。
「全部」を持っていくわけではない。
それなのに、そういうものが残っているからこそ「全部もつていつてしまいました」という思いが生まれる。ほかに、もっともっと、こころに書きつけられていたことばがあったはずだ、という思いが「全部」という表現になっている。
「全部」という表現は「論理的」には間違っている。しかし「心情的」には正しい。こういう「矛盾」なのかに、詩が生きて、動いている。
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