詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(2)

2015-05-12 11:13:45 | 詩集
江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(2)(思潮社、2015年04月30日発行)

 「悲しみ」(『梢にて』)という短い作品。

その日のうちに二度通りすぎた山裾へ近付き
そのときもまた傍らへ行き過ぎようとしていたが
過去の日にその山肌へ向かい
地を這って目前を移動する蛇を見たことや
裾には岩があり
上るに連れておい繁る草の種類の見分けのつかぬまま
岩を経たおなじ蛇が
ささやかな茎の合間を縫っていたそのありさまが
わずかのあいだ
わたしをここに留まらせることを知るようになる

 奇妙な文体だと思う。そして、その奇妙さを強調するのが「繰り返し」である。「二度通りすぎた」の「二度」、「また傍らへ行き過ぎようと」の「また」は繰り返しである。さらに「過去の日に」ということばも「いま」と重なるので繰り返しになる。
 繰り返して、どうなるのか。
 なかほどに「おなじ」ということばがある。「岩を経たおなじ蛇が」という形になっているが、この「おなじ」は「繰り返し」である。「繰り返す」というのは「おなじ」確認することなのだ。
 しかし、ふつうは「おなじ」とは言わない。さっき岩を上っていた蛇が、いまは草を茎を縫っている。「時間」の前後を書くことで、そこに「違い」を書くことはあっても、「おなじ」は書かない。
 「この蛇、さっき岩を上っていた蛇かね」
 「そうだと思う。おなじ蛇だと思う」
 というような「確認」のためなら「おなじ」をつかうことはあるかもしれないが、ずーっと蛇を見ていて、それを「おなじ」とはわざわざいわない。ことばの不経済だ。
 どうも江代のことばは「不経済」なのである。
 「その日のうちに二度通りすぎた山裾へ近付き」という行動が「不経済」であると同時に、そのことを書くことばも「不経済」である。「繰り返す」ことじたいが、とても「不経済」である。
 現代は、おなじことを繰り返さない。繰り返さずに先へ進む。江代のやっていることは逆である。同じことを繰り返し、先へ進まない。先へ進むことを拒絶している。
 繰り返すことによって最初の行為と次の行為のあいだに「間」をつくる。その「間」は長いか、短いか。判断がむずかしいが、繰り返していると、その「間」がどんなに長くても短く感じる。知っていることだけが繰り返されるので、ひとは「認識」を省略してしまう。だから短く感じるのだろう。
 終わりから二行目の「わずかのあいだ」は、そうやってできた「繰り返し」の「間」ではないのかもしれないが、繰り返すことによって余裕のできた「間」のように感じられる。何度も何度も繰り返しているので、繰り返しの部分は無意識でできる。そのぶん、意識に余裕ができて、それに「間」が生まれる。「余裕」が「間に」になるともいえる。
 だからそれは「繰り返し」がつくり出してしまう「長さ」と言い換えることもできる。で、そう言い換えてしまうと、先に書いたことと「矛盾」する。先に私は「繰り返し」が「短さ」をつくると書いた。--これでは「繰り返し」は「短さ」と「長さ」を同時につくり出すという矛盾が起きる。
 この矛盾を江代は「なる」という変化のなかで言い切ってしまう。それが、非論理的、非散文的で不思議。「非散文的」だから「詩」なのか。
 前回書いた感想のつづきでいえば、「繰り返し」が「ある」。「繰り返すこと」が「ある」。その「ある」が「間」を生み出す。それは、「繰り返し」そのものが「なる」を作りだすようにも感じられる。
 その「なる」なのだが、

わたしをここに留まらせることを知るようになる

 この最終行が、また、不思議。
 ことばの経済学からいえば「わたしをここに留まらせるようになる」で十分なのだが、そこに「ことを知るように」という奇妙なことばが差し挟まれる。「なる」を「知る」。認識する。
 あらゆることを「動詞(肉体の動き)」ではなく、「認識(名詞)」にして世界を把握する。どうしても、そういう感じがしてしまう。「認識(名詞)」にして「ある」という世界を把握するのだが、その「ある」を「あるになる」という感じで江代はとらえているように思える。
 なんだか面倒くさいことを書いているが……。
 江代のことばを借りて言いなおせば「ある」と「なる」の「わずかのあいだ」に留まって、江代の世界を「知る」ことが、江代の詩を読むことになるのか。
江代充詩集 (現代詩文庫)
江代充
思潮社

*

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谷川俊太郎『詩に就いて』(13)

2015-05-12 09:56:27 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(13)(思潮社、2015年04月30日発行)



十七歳某君の日記より

菱形の日
詩が落ちていた。拾ったら泥だらけだった。洗ったら生っ白くなった。振って
みた、乾いた良い音がした。箱に入れてはいけないような気がした。私有しな
いで誰かに渡そう。リレーみたいに詩が次から次へ続いて行くといい。

輪の日
輪は環じゃない、もちろん和ではない。吾の<わ>は一人称にも二人称にも使
われたということだ。わたしとあなた、おんなじ人間だよ、おんなじ哺乳類だ
よっていうことか。幼い頃、物陰に隠れていて誰かを脅かすとき、「わっ」っ
て叫んだのは懐かしい思い出。

土の日(土曜日ではない)
商店街の真ん中よりちょっと南寄りに、新しい店が開店するらしい。
客が五人も入れば一杯になるだろう。ワイングラスが六つほど、逆さにぶら下
がっているから、何か飲ませたり食べさせたりするのだろう。
百円ショップやスーパーや保険の代理店に挟まれて、それはなにか寂しい句読
点のように見える。他の店が散文なら、その店は詩だ、とぼくは言いたい。
でも開店してしまえば、それもすぐに散文化する。それは分かっているのだけ
れど。

小石の日
ひとり言を言いながら歩いて来る人がいる。すれ違うとき「そういうことでは
ない」という言葉が聞こえた。前後に何を言っていのたかは分からない。
その一行で始まる詩を書きたいと思った。頭の中でその言葉を繰り返している
と、だんだんおまじないみたいになってきた。これを祈祷の言葉に変換出来る
かどうか。

ゴブラン織りの日
ヴァレリーは詩の特質として<宇宙的感覚>をあげている。詩的状態、或いは
詩的感動は世界のすべての関係を音楽化し、相互に共鳴し合うものにするのだ
と。不正確な引用かもしれないが。

なんでもない日
雪女がいるのなら、詩女がいてもいいじゃないか。詩女は人見知りでいつも物
陰に隠れているけど、性質は暗くない。むしろ明るくておっちょこちょいだ。
そして意外かもしれないが無口だ。言葉を口に出すまでに時間がかかるので、
苛々せずに待っていなければならない。

紙屑の日
毎日何か書いては紙を捨てている。つまり言葉を捨てているんだ。言葉は石油
や石炭と違って無尽蔵だから、いくら捨ててもかまわないと分かっているのだ
が、捨てた言葉がゾンビになるのではないかと心配。
文学者の墓はあっても、言葉の墓はない。言葉は死ねないのだ。

雲の日
ぼくはいつ詩に捨てられるのだろう。捨てられたら松の木の見え方が変わるだ
ろうか。女のひとの見え方が変わるだろうか、もしかすると海の見え方も、星
の見え方も。

 さまざまな形で詩が語られる。谷川のことばに合わせて、少しずつ思ったことを書いていく。
 「菱形の日」。落ちていた詩。振ると「乾いた音がした」の「乾いた」と「音」に谷川を感じる。「好み」が谷川らしいと思う。「リレーみたいに詩が」「続いて行くといい」は谷川の夢/願いだが、「意味」が強すぎる。
 「和の日」。最後の思い出がおもしろい。「わっ」と叫ぶ。そこには「音/声」がある。「意味」が消えて「音/声」だけがあるというのは、谷川らしい。

 「土の日」。開店前の店を「寂しい句読点」と呼ぶ。この「比喩」がおもしろい。「句読点」は「ことば」そのものではない。だから「散文」のように「具体的(論理的)意味」を持たない。ただし息継ぎ、意味を切断するという「文体」の「肉体的な意味」は持っている。「意味」にはなりにくいけれど、それがないとちょっと困る。それを谷川は「詩」と読んでいる。「意味」にならないけれど、「意味」をととのえる「空白」のようなもの。
 「開店する前の店」を、谷川の詩に何度も出てくることばをつかって「未生の店」と言い換えることができるかもしれない。「未生の店」は「未生のことば」でもある。「句読点」は「未生のことば」。ことば以前のことばなのか。あるいはことばをこえてる特権的な「ことばの肉体」なのか。「意味」ではなく、「肉体」の動き、存在感のような感触がある。それに「詩」を感じている。
 「意味を持つ」ことを「散文化する」と呼んでいる。「散文化」しないものが「詩」である。

 「小石の日」。「前後に何を言っていたのか分からない。」とは、脈絡がわからない/脈絡がないということ。つまり「意味」がない。「無意味」。そこから始まる詩を書きたいとは、「無意味」だけれど「具体的」なのものから詩を書きたいということだ。
 「ゴブラン織りの日」。「意味」がとても強い。そのなかにあって、「音楽化」「共鳴」という「音(音楽)」登場するところが谷川らしい。もっとも、これは「ヴァレリーらしい」というべきなのかもしれない。そうだとしても、ヴァレリーから音楽を引き継ぐところが谷川らしい。「論理性」を引き継いでもいいのだが、「論理」よりも「音楽」を優先し、「論理」については「不正確な引用かもしれない」とはぐらかしている。ヴァレリーについて語るなら「散文」を取り上げてもいいのだが、谷川は「詩」にしぼって言及している。

 「なんでもない日」。「詩女」ということばを先行させて、それから、詩について思いめぐらしている。「詩女」というのは、存在しない。存在しないもの(嘘/虚構)を想定し、そこへ向けてことばを動かしていく。
 これは谷川の詩では、かなり珍しい、と思う。
 最後に「ことばを口に出すまで時間がかかる」という表現が出てくるのがおもしろい。「ことば」になりにくい。それが詩なのだ。そういうことを言うために「詩女」というものを想定している。

 「紙屑の日」。「言葉を捨てる」。でも、捨てても捨てても「無尽蔵」に存在する。これは「ほんとう」のことなのか、私にはよくわからない。
 谷川の言いたいことは「言葉は死ねないのだ。」に集約されている。「死なない」ではなく「死ねない」。それが、ことばだ。「苦笑い」の冒頭のホロコーストを生き延びる詩とは、結局、「言葉が死ねない」ということ。アウシュビッツのあと詩を書くことは「野蛮」なのか、それとも詩をかかないことが「野蛮」なのか。人間の悲しみ、苦しみ、怒り、絶望を語らず、それを強いるものを許すことの方が「野蛮」かもしれない。

 「雲の日」はとても変わっている。詩に選ばれた谷川だけが書けることばだろう。詩を捨てたら(詩を書くことをやめたら)ではなく、詩に捨てられたら、と谷川は書く。詩の方が谷川よりも力があって、谷川を支配している。詩は、谷川の力を超えて存在し、谷川をととのえている。
 谷川は書くことで谷川自身(暮らし)をととのえている、と私は何度か書いたことがある。けれど谷川に言わせれば逆なのだ。詩が先にやってきて、谷川をととのえていく。谷川は詩にととのえられるままに生きている。
 この「実感」はすごい。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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