江代充『現代詩文庫212 江代充詩集』(2)(思潮社、2015年04月30日発行)
「悲しみ」(『梢にて』)という短い作品。
奇妙な文体だと思う。そして、その奇妙さを強調するのが「繰り返し」である。「二度通りすぎた」の「二度」、「また傍らへ行き過ぎようと」の「また」は繰り返しである。さらに「過去の日に」ということばも「いま」と重なるので繰り返しになる。
繰り返して、どうなるのか。
なかほどに「おなじ」ということばがある。「岩を経たおなじ蛇が」という形になっているが、この「おなじ」は「繰り返し」である。「繰り返す」というのは「おなじ」確認することなのだ。
しかし、ふつうは「おなじ」とは言わない。さっき岩を上っていた蛇が、いまは草を茎を縫っている。「時間」の前後を書くことで、そこに「違い」を書くことはあっても、「おなじ」は書かない。
「この蛇、さっき岩を上っていた蛇かね」
「そうだと思う。おなじ蛇だと思う」
というような「確認」のためなら「おなじ」をつかうことはあるかもしれないが、ずーっと蛇を見ていて、それを「おなじ」とはわざわざいわない。ことばの不経済だ。
どうも江代のことばは「不経済」なのである。
「その日のうちに二度通りすぎた山裾へ近付き」という行動が「不経済」であると同時に、そのことを書くことばも「不経済」である。「繰り返す」ことじたいが、とても「不経済」である。
現代は、おなじことを繰り返さない。繰り返さずに先へ進む。江代のやっていることは逆である。同じことを繰り返し、先へ進まない。先へ進むことを拒絶している。
繰り返すことによって最初の行為と次の行為のあいだに「間」をつくる。その「間」は長いか、短いか。判断がむずかしいが、繰り返していると、その「間」がどんなに長くても短く感じる。知っていることだけが繰り返されるので、ひとは「認識」を省略してしまう。だから短く感じるのだろう。
終わりから二行目の「わずかのあいだ」は、そうやってできた「繰り返し」の「間」ではないのかもしれないが、繰り返すことによって余裕のできた「間」のように感じられる。何度も何度も繰り返しているので、繰り返しの部分は無意識でできる。そのぶん、意識に余裕ができて、それに「間」が生まれる。「余裕」が「間に」になるともいえる。
だからそれは「繰り返し」がつくり出してしまう「長さ」と言い換えることもできる。で、そう言い換えてしまうと、先に書いたことと「矛盾」する。先に私は「繰り返し」が「短さ」をつくると書いた。--これでは「繰り返し」は「短さ」と「長さ」を同時につくり出すという矛盾が起きる。
この矛盾を江代は「なる」という変化のなかで言い切ってしまう。それが、非論理的、非散文的で不思議。「非散文的」だから「詩」なのか。
前回書いた感想のつづきでいえば、「繰り返し」が「ある」。「繰り返すこと」が「ある」。その「ある」が「間」を生み出す。それは、「繰り返し」そのものが「なる」を作りだすようにも感じられる。
その「なる」なのだが、
この最終行が、また、不思議。
ことばの経済学からいえば「わたしをここに留まらせるようになる」で十分なのだが、そこに「ことを知るように」という奇妙なことばが差し挟まれる。「なる」を「知る」。認識する。
あらゆることを「動詞(肉体の動き)」ではなく、「認識(名詞)」にして世界を把握する。どうしても、そういう感じがしてしまう。「認識(名詞)」にして「ある」という世界を把握するのだが、その「ある」を「あるになる」という感じで江代はとらえているように思える。
なんだか面倒くさいことを書いているが……。
江代のことばを借りて言いなおせば「ある」と「なる」の「わずかのあいだ」に留まって、江代の世界を「知る」ことが、江代の詩を読むことになるのか。
*
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
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「悲しみ」(『梢にて』)という短い作品。
その日のうちに二度通りすぎた山裾へ近付き
そのときもまた傍らへ行き過ぎようとしていたが
過去の日にその山肌へ向かい
地を這って目前を移動する蛇を見たことや
裾には岩があり
上るに連れておい繁る草の種類の見分けのつかぬまま
岩を経たおなじ蛇が
ささやかな茎の合間を縫っていたそのありさまが
わずかのあいだ
わたしをここに留まらせることを知るようになる
奇妙な文体だと思う。そして、その奇妙さを強調するのが「繰り返し」である。「二度通りすぎた」の「二度」、「また傍らへ行き過ぎようと」の「また」は繰り返しである。さらに「過去の日に」ということばも「いま」と重なるので繰り返しになる。
繰り返して、どうなるのか。
なかほどに「おなじ」ということばがある。「岩を経たおなじ蛇が」という形になっているが、この「おなじ」は「繰り返し」である。「繰り返す」というのは「おなじ」確認することなのだ。
しかし、ふつうは「おなじ」とは言わない。さっき岩を上っていた蛇が、いまは草を茎を縫っている。「時間」の前後を書くことで、そこに「違い」を書くことはあっても、「おなじ」は書かない。
「この蛇、さっき岩を上っていた蛇かね」
「そうだと思う。おなじ蛇だと思う」
というような「確認」のためなら「おなじ」をつかうことはあるかもしれないが、ずーっと蛇を見ていて、それを「おなじ」とはわざわざいわない。ことばの不経済だ。
どうも江代のことばは「不経済」なのである。
「その日のうちに二度通りすぎた山裾へ近付き」という行動が「不経済」であると同時に、そのことを書くことばも「不経済」である。「繰り返す」ことじたいが、とても「不経済」である。
現代は、おなじことを繰り返さない。繰り返さずに先へ進む。江代のやっていることは逆である。同じことを繰り返し、先へ進まない。先へ進むことを拒絶している。
繰り返すことによって最初の行為と次の行為のあいだに「間」をつくる。その「間」は長いか、短いか。判断がむずかしいが、繰り返していると、その「間」がどんなに長くても短く感じる。知っていることだけが繰り返されるので、ひとは「認識」を省略してしまう。だから短く感じるのだろう。
終わりから二行目の「わずかのあいだ」は、そうやってできた「繰り返し」の「間」ではないのかもしれないが、繰り返すことによって余裕のできた「間」のように感じられる。何度も何度も繰り返しているので、繰り返しの部分は無意識でできる。そのぶん、意識に余裕ができて、それに「間」が生まれる。「余裕」が「間に」になるともいえる。
だからそれは「繰り返し」がつくり出してしまう「長さ」と言い換えることもできる。で、そう言い換えてしまうと、先に書いたことと「矛盾」する。先に私は「繰り返し」が「短さ」をつくると書いた。--これでは「繰り返し」は「短さ」と「長さ」を同時につくり出すという矛盾が起きる。
この矛盾を江代は「なる」という変化のなかで言い切ってしまう。それが、非論理的、非散文的で不思議。「非散文的」だから「詩」なのか。
前回書いた感想のつづきでいえば、「繰り返し」が「ある」。「繰り返すこと」が「ある」。その「ある」が「間」を生み出す。それは、「繰り返し」そのものが「なる」を作りだすようにも感じられる。
その「なる」なのだが、
わたしをここに留まらせることを知るようになる
この最終行が、また、不思議。
ことばの経済学からいえば「わたしをここに留まらせるようになる」で十分なのだが、そこに「ことを知るように」という奇妙なことばが差し挟まれる。「なる」を「知る」。認識する。
あらゆることを「動詞(肉体の動き)」ではなく、「認識(名詞)」にして世界を把握する。どうしても、そういう感じがしてしまう。「認識(名詞)」にして「ある」という世界を把握するのだが、その「ある」を「あるになる」という感じで江代はとらえているように思える。
なんだか面倒くさいことを書いているが……。
江代のことばを借りて言いなおせば「ある」と「なる」の「わずかのあいだ」に留まって、江代の世界を「知る」ことが、江代の詩を読むことになるのか。
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