詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(60)

2015-05-05 12:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(60)

107 生と死

 生きている嵯峨と、死んでしまった友。死んだ友を思いながら、生きていることについて考えている。その冒頭の四行。

ずつと川かみの急流だつた
波もなく 音もしない まるで油を流したような目もくらむ急流を
夕方
ただひとりで泳ぎわたつた

 川の上流の急流。急流なら波があり、音もあると思うが、嵯峨は「波もなく 音もしない」と書いている。そして「まるで油を流したような」とその滑らかさを描写している。これは、思い描くことはできるが、私の知っている急流のどれとも結びつかない。そのために、私は、異様な感じをおぼえる。知っていることを突き破って、知らない何かが動いているのを見るような、まるで夢を見ているような感じになる。
 その急流を渡り切った「生(生きる力)」について書いているのだが、あまりに異様な急流なので、それはもしかしたら「死の急流」だったのかもしれないと感じてしまう。死の危険があった、というよりも、その急流には死そのものが流れている。そういう感じがする。
 そういう体験をした嵯峨が友の死と向き合っている。

死がさけられぬと知つてから友はふしぎな落ちつきをました
あるとき蟻地獄の話をしながら
「いまぼくは 透明な大きな円錐型の底にひきこまれようとしている一匹の蟻の
 ようなものだ」
といつて
しずかな笑いを顔にうかべたことがある

 嵯峨は急なもの(激しいもの)を乗り越えた。友は「急(激しい)」とは対極にある「静かさ」と向き合っている。「生」を「死」に向けて、静かに動いている。
 嵯峨と友の違いが、そこにある。
 嵯峨は死と向き合って生き抜いた。友は生と向き合って、その生をまっとうしようとしている。
 友が死んでしまったあとの次の三行がとても印象に残る。

屋上の水槽に水を汲みあげる電動機(モーター)の音が急に高くなつた
その震動で炎えあがるような葉鶏頭がふるえ
窓硝子から長椅子にかすかな微動が伝わつてくる

 急流や蟻地獄が「比喩」なのに対して、ここには「現実」そのものが書かれている。そして、それが「現実」であるだけに、友の死もまた現実だと知らされる。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(6)

2015-05-05 08:53:52 | 谷川俊太郎「詩に就いて」

詩よ

言葉の餌を奪い合った揚げ句に
檻の中で詩が共食いしている
まばらな木立の奥で野生の詩は
じっと身をひそめている

華やかな流行の言葉で身を飾って
人々が笑いさざめきながら通り過ぎる
中には詩集を携えている女もいる
物語を見失ってしまったらしい

活字に閉じ込められた詩よ
おまえはただいるだけでいいのだ
何の役にも立たずにそこにいるだけでいい
いつか誰かが見つけてくれるまで

 「対」の構造から読んでみる。
 一連目は前半の二行と後半の二行が「対」になっている。「詩」と「野生の詩」が対になっている。「詩」の方は「流通している詩」と言い換えると「野生の詩」との対比が明確になるかもしれない。
 「(流通している)詩」は「言葉の餌」を奪い合っている。共食いをしている。同じことばを奪い合い、それを食べているということだろうか。「流通している」ものとは「同じもの」ということでもある。「同じ」を出ることができない。「野生」に対して「檻の中」で飼われている詩ということになるかもしれない。「檻の中」と「野生(木立の奥)」が、やはり「対」になっている。
 「野生の詩」は「流通していない」。「木立の奥で」「身をひそめている」。ひとに知られていない。

 三連で構成されているが、二連目は、私には一連目の前半の二行と「対」になっているように思える。言いなおしているように思える。三連目は、一連目の後半の二行と「対」になっているように思える。
 言葉の餌を奪い合い、共食いしている詩を「流通している詩」と私は言い換えてみたが、その「流通している」は二連目では「流行」という表現になっている。「流行の言葉で身を飾って」は「流行の言葉を奪い合って」とも、「流行の言葉の檻に閉じ込められて」とも読みええることができるだろう。「流行」とは「同じもの」を奪い合い、共食いすることでもあるだろう。
 二連目の後半の二行は、一連目の後半の二行と向き合っているようにも見えるが、そこに書かれている「詩集」は「野生の詩」とは違うと思う。この「詩集」は「流行の言葉」のひとつの「形式」である。「流行の物語」ではなく「流行の詩集」を「着飾るもの」として携えているということだろう。「詩集」と「物語」が「対」になっているのだが、「対」になっているということ以上のことは、はっきりとはわからない。(私には読み取れない。)

 三連目は二連目の「詩集」について語っているようにも見える。また「閉じ込められた」という表現から「檻の中」を連想してしまうので、「共食いしている詩」のようにも見えるが、後半の三行は「野生の詩」の定義と重なる。「木立の奥で」「身をひそめる」ようにして、「ただいるだけでいい」。「身をひそめている」かぎりは「何の役にも立たない」。けれど、誰かが自分の役に立つと思ってくれる。見つけてくれる。そうやって見つけられた詩は「流行」はしないかもしれないが、つまり多くのひとに共有される(奪い合われる/共食いされる)ということにはならないが、しっかりとひとりの人間の役には立つ。
 詩は、ひととことばの「一対一」の関係を生きればそれでいいのだ、と言っているように思える。

 この詩には二連目の「詩集」と「物語」のように、ことばとしては向き合っているらしいのに、どう向き合っているのか(「対」になっているか)わかりにくいものがある。意味がひとつにしぼられていないということかもしれない。
 一行の中にも、意味が複数にとれることばもある。
 書き出しの「言葉の餌を奪い合った」という表現も意味が取りにくい。「言葉という餌を奪い合っている」のか、「言葉が食べる餌(言葉のための餌)を奪い合っている」のか。前者なら「主語」がどこかにある。後者なら「言葉」が「主語」である。二行目に「詩」という表現がある。この「詩」を「主語」にして、詩が「言葉という餌を奪い合っている」と読むと、意味が通りやすい。ただし、そうすると「詩が共食いしている」の「共食い」が論理的ではなくなる。「共食い」とは「詩」が「詩」を食うときを指す。「詩」は「言葉という餌」を奪い合っているのであって、詩を奪い合って食べているわけではない。だから、ここでは「詩」をもう一度「言葉」と置き換えて「言葉が言葉を食べている/言葉が言葉を餌として奪い合っている」と読んだ見た方が意味が通じる。
 「言葉」はあるときは「詩」と書かれ、「詩」もあるときは「言葉」と書かれている。その視点で二連目のことばを入れ換えるとどうなるだろうか。

華やかな流行の詩で身を飾って
人々が笑いさざめきながら通り過ぎる
中には言葉を携えている女もいる
物語を見失ってしまったらしい

 三行目の「言葉」は「詩にならなかった言葉」ということになる。「詩という物語(流行装置)」にならなかった「言葉」。もし、そう読むことができるなら、それは「野生の詩(野生の言葉)」とも読むことができる。
 そう読むと一連目の前半の二行と二連目の前半の二行が「対」になり、一連目の後半の二行と二連目の後半の二行が「対」になる。
 読み方によって、詩はどんどん変わっていってしまう。

 これは変なことだろうか。私の読み方が間違っているのだろうか。
 私は私の読み方が「正しい」と言い張るつもりはないが、こんなふうにして読む度に違ってしまうのが詩なのではないかと思っている。「論理的」になろうとしても「論理的」にはなりきれない。何か、「論理」からはみ出したものにぶつかり、そこでつまずいて、「書かれていること」よりも、「自分の考えていること」の方へことばがふらついてしまう。「自分の考えていること」が書かれていることば(詩)に誘い出されて、知らなかった方向へ動いていく。
 こういう瞬間の、わけのわからない迷路をさまよっているような時の方が、私には「結論」に到達できたときよりも、詩に近づいているような気がする。詩といっしょにいるような気がする。
 詩は散文と違って、何かが「わかる」ためのことばではなく、逆に何かが「わからなくなる」ためのことばのようにも思える。
 「結論」に到達できない私の自己弁護かもしれないが。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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