谷川俊太郎『詩に就いて』(32)(思潮社、2015年04月30日発行)
「ぬらぬら」
「ぬらぬら」という店名だった
林の中の簡潔な木の小屋
店番をしているお河童頭の女の子
辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ
私はそう思っている 真剣に
「ぬらぬら」は書店ではないが
そんなことを私に思わせる空気が漂っている
大正時代にどこかの薬局が配った鉛筆
三日前に出たばかりの河馬のモノクロ写真集
小学生たちが作った蛇の針金細工
偽物と但し書きがついたバッハ自筆の楽譜
雑貨屋さんと言えばいいのか
「ぬらぬら」の一隅のスタンドでレモネード飲んでいたら
隣で詩が立ち上がる気配がした
「その男」の感想の最後で、私は「一元論」について書いた。それは「知ったかぶり」のことばである。ほんとうは何もわかっていない。聞きかじったことばをつないだだけである。「論理」はほんとうにわかっていないことでも、つなぎあわせてわかっているかのように動かしてしまうことができる。「借り物」のことばの方が無責任に「論理」を組み立てることができる。自分で考えるわけではないから、つまずかないのだ。(これは他人のことを批判しているのではなく、私自身の反省として書いている。)
この詩を読んだ瞬間、私は反省した。「借り物」のことばでは読みきれないものがある。自分自身のことばでも読みきれないものがある。
「ぬらぬら」
どこかの山の中(詩では「林の中」と書いてあるが、都会ではなく、辺鄙な、ひとの世界から離れた場所のような感じがする)で出合った、何でも売っている小さな店のことを書いているように思える。私は田舎育ちなので、中学校の近くにあった文房具も雑誌も駄菓子も惣菜も売っている「よろず屋」を思い出した。その地区でたった一軒の店であった。
「ぬらぬら」は詩のなかでは「店の名前」ということになっている。しかし、店の名前にしては奇妙である。変である。そんな名前をつける店などないだろう。そう思い、私は、ここでつまずく。「ぬらぬら」とどう向き合っていいかわからない。「借り物」の「一元論」を持ち出すこともできないし、ほかの聞きかじった「論」も持ち出すことができない。何も持ち出すものがない。そう気づいて、あ、「その男」で書いた私の感想は、結局誰かのことばを借用しただけのいい加減なものだったと気がつく。
何も頼るものがない。
ここから、何を読み取ることができる。
不思議な店に入った。(一連目)そこで谷川は「辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ」と思った。そこで体験したことを書くには、そうしないと書けない。(二連目)そして実際に詩を書いた。(三連目)
詩をそんなふうに動いていくことばとして読んだが、「ぬらぬら」がやっぱりわからない。いや、「ぬらぬら」ということばは知っている。「ぬるぬる」と似ている。すべるような、そのくせ粘着力があるような「液体」、その「感触」を指すのにつかう。「べたべた」というのは、少し似ているが、すべる感じが少し違う。
この私の知っていること(肉体で覚えていること)が、谷川の書いている「ぬらぬら」が重ならない。どう向き合えばいいのか、さっぱりわからない。私の知っている「ぬらぬら」が、動いていかない。
こういうとき、どうするか。
私はわからないものを無視して、自分がわかると感じるものを中心にことばを追ってみる。「論理」や「構造」を探してみる。それをたよりにことばの大体の感じを探ってみる。自分の覚えていることばと重ならないか、思いめぐらしてみる。外国語で知らない単語にぶつかったときに、前後の感じから適当に意味を判断するのに似ている。
『詩に就いて』書かれた詩なので、どこかに「詩」ということばがある。それが今回の谷川の詩集の特徴だ。この作品では、最終行に出てくる。
隣で詩が立ち上がる気配がした
詩が人称化されている。詩や言葉を人称化することは、谷川には珍しいことではない。「放課後」では「詩」が「少年の姿をして言葉を待っていた」という一行がある。そして人称化された「詩」は「立ち上がる」という「動詞」といっしょに動いている。「立ち上がる」は、このとき「動詞」であり、同時に「比喩」である。
この「立ち上がる」は二連目の「辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ」の「起こす」という動詞と似ている。通い合うものがある。そして、それは「寝ている」とは反対の「動詞」でもある。
「寝ている言葉」が「起きて」「立ち上がる」。そのとき「詩が立ち上がる」。目覚めて、立ち上がったことばが「詩」なのである。たとえ「辞書のページの上で寝ている言葉」でも現実に触れて動き出せば、その動きのなかに詩が生まれてくる。それは「ひそんでいた」詩が姿をあらわす、ということかもしれない。そう考えると、この作品にも、谷川が繰り返している「詩の定義」に重なるものがある。一連目をわきに置いておいて考えると、そう読むことができる。
「対」になる「動詞」を手がかりに、「枠」をつくり、そのなかで「論理」を動かしてみることができる。
その「論理」の「枠」のなかには何があるか。
三連目に、不思議な四行がある。
大正時代にどこかの薬局が配った鉛筆
三日前に出たばかりの河馬のモノクロ写真集
小学生たちが作った蛇の針金細工
偽物と但し書きがついたバッハ自筆の楽譜
「名詞」が並列されている。「鉛筆」「写真集」「針金細工」「楽譜」。それをつなげる「論理」が私には見出せない。
目につくのは「大正時代」「三日前」という「時間」の書き方である。「名詞(主語?)」が一行一行違うと同時に、「時制」が一行一行違うのである。「大正時代」「三日前」につづく行の「時代(時間)」はわかりにくいが、「小学生(の時間/時代)」「バッハの時代(時間)」と読むと、一行一行が時間をもっていることがわかる。
この変わっていく「時間」こそが、それぞれの行の「主語」であり、「鉛筆」「写真集」「針金細工」「楽譜」は、「時間」の存在の仕方の「比喩」なのだ。その「比喩」を書くことで、「寝ていた言葉」ではなく「寝ていた時間」が動く。
「寝ていた」を「ひそんでいた」と言い直し、私はふたたび、谷川が繰り返し書いている「詩の定義」にもどる。
そして、いま浮かび上がった「時間」の動きと「ぬらぬら」をつないでみることはできないだろうか、とも思う。
「ぬらぬら」というのは、各行の「時間」と「時間」との関係かもしれない。「大正時代」「三日前」「小学生の時間」「バッハの時代」と、ことばにすると、それは別々の「時間」だが、「区別」が「もの(鉛筆や写真集)」ほど明確ではない。意識のなかで「時間/時代」を方便として区切っているだけであった、「いま」この瞬間に「大正時代」を思い起こし、次に「三日前」を思うとき、その二つの「時間」の「あいだ」にある「時間の隔たり(?)」はっきりしない。「大正時代」が「三日前」よりも遠くにあるのか。「小学時代」は「大正時代」と「三日前」のあいだにあるのか。そこから「バッハの時代」まで、どんな隔たりがあるのか。「同時」に思い起こすことができてしまう。思い起こすとき、どの「時間」も瞬時にあらわれ、その「瞬時」と「瞬時」の「間」は存在しない。ビッグバンの瞬間のようだ。
「方便」として「年(日にち)単位」で、そこに数字を割り振りすることはできるが、「数字」と「思い起こす」意識の動きは関係がない。「三日前」よりも「小学生時代」を近くに感じることがある。
「時間」には「遠い/近い」はない。「歴史」の遠近法は「時間の遠近」を描くが、現実の人間にとっては、どの時間も「いま」とぴったりくっついている。離れているのに「思い出す」という意識の運動のなかで、しっかり接続している。
この「接続/分離(切断)」の感覚を、肉体が日常的に味わっていることばで、どういう具合に言えるだろうか。
そう思うとき、
ぬらぬら
ということばが、重なってくる。
「時間」をつかもうとすると、それは滑って手の中から逃げていく。「時間」の区別が「もの」のようにはっきりと手に残らない。「時間」を区別してつかんだという感じがしない。
この「時間」の「手触り」を、私は「ぬらぬら」と感じたことはない。どう感じているか、そもそもそこに「手触り」を意識したことがない。けれども、谷川は、これを「ぬらぬら」と呼んでいるのではないか、と思う。
この私の感想は強引である。なんの根拠もない。「ぬらぬら」をわきに置いておいて読むといいながら、ずっーと「ぬらぬら」を抱えてことばを読み、あ、ここなら「ぬらぬら」を結びつけることができるかもしれないと感じ、その感じを強引に拡大したのだ。
こういう「論理」のでっちあげは、一回目は単なる「でっちあげ」に過ぎないが、二回、三回と繰り返すと「論理」に育ってしまうところがある。繰り返し言うことができるということは、そこには繰り返しに耐えうる「真実」があると、頭はかってに考え、自分自身の脳を騙しはじめるのである。私は「ぬらぬよ」について書いたことを、自分で半分以上信じはじめている。
「他人の論理(既成のことば/哲学)」を借りてくると、その「既成の哲学」というものはすでに繰り返されているので、もっとすばやく「脳」を騙してしまう。
「その男」について書いたときにつかった「一元論」は、そういう「他人の論理」である。私の考えのふりをしているが、それは他人の考えに乗り掛かり、私の脳を騙しながら書いていることでもあるのだ。ほんとうに私が考えた「一元論」なら、そこから「ぬらぬら」へまっすぐに入っていける。それができない。そして、こんなふうに「ねじくれた」感想を書いている。
「論理」とは「嘘」であり、「嘘」をつくと、「嘘」がやめられなくなる。
ここから私は「詩」へもどっていくことができるか。