詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ローワン・ジョフィ監督「リピーテッド」(★★+★)

2015-05-24 20:51:48 | 映画
ローワン・ジョフィ監督「リピーテッド」(★★+★)

監督 ローワン・ジョフィ 出演 ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロング

 イギリス映画だなあ。イギリスならではだなあ、とうなった。
 ストーリーは記憶障害(朝起きると、前日の記憶が消えてしまう)のニコール・キッドマンが過去を取り戻す過程を描いている。レイプされたときに頭に衝撃を受け、そのために記憶障害になっている。過去を取り戻すとは、言い換えるとレイプした男を突き止めるということ。
 まあ、想像どおり、うさんくさい美男子(夫を演じている)コリン・ファースが、定石どおりに「犯人」なのだけれど。
 感心したのが(イギリス映画だなあ、と思ったのが)コンパクトカメラのつかい方。今のコンパクトカメラには動画機能もついている。それをつかってニコール・キッドマンがカメラ日記をつけ、「記憶がわり」に利用する。
 コンパクトカメラを利用するのは、ストーリー上は、カメラを隠しておくということと関係があるのだが、映画としては、この工夫がとってもおもしろい。
 ニコール・キッドマンはカメラに向かって一日のことを語りかける。つまり「ことば」を記録する。カメラをつかっているが、機能はテープレコーダーである。映像は、トイレに張ってあった写真が消えているという部分で活用されているけれど、それ以外は「ことばの記録」でしかない。この「ことば」主体というところが、映画を逆手にとって、さすがシェークスピアの国、「ことば国」を感じさせる。(アメリカ映画ではこうはならない。どうしても映像で記録しようとする。ことばの力を無視してしまう。)
 「ことば」を記録しながら、それを再生するときはカメラのアップのニコール・キッドマンが度アップになる。超度アップ。カメラの粒子が見えるくらい。それに目が奪われて「ことば」の印象が薄くなる。ニコール・キッドマンの顔しか映っていないのに、顔なんて「記憶」でもなんでもないのに、顔に刻まれた不安や感情の乱れが「事実」を超えて「記憶の真実」になる。それを「ことば」が定着させる。
 いやあ、すごい。
 「ことばの力」をそうやって観客の「肉体」にしみ込ませた上で、映画なのに「ことば」で重要な部分を展開する。
 ニコール・キッドマンには子どもがいる。「ことば」で死んだと知らされる。しかし、コリン・ファースのふとしたことば尻から、ニコール・キッドマンは子どもが生きていることを知る。(これがきっかけで、ニコール・キッドマンはコリン・ファースの言っていることが嘘だと完全に気づく。)女友達がコリン・ファースが偽の夫であることを告げる(気づかせる)のも、映像ではなく、「ことば」。「髪の色は? 右頬に傷がある?」という「質問」。
 さらに、子どものことを完全に思い出すきっかけが「くまのプーさん」(だと思う)の「ことば」のやりとり。そこにはニコール・キッドマンと幼い子どもの「映像」はなく、ただ「ことば」だけが再現され、それが記憶を取り戻す力になっている。
 まるで「舞台劇」そのままの「ことば」の力をつかった映画なのだが、これを「舞台劇」ではなく「映画」にしているのが、最初に書いたコンパクトカメラの活用。掌におさまる小さな映像をスクリーン一杯に広げて、その無意味なアップで「ことば」を隠してしまうというとんでもないトリック。
 まいったね。「脱帽」というのは、こういうときにつかうことばだね。ストーリーのトリック自体は、うさんくさい美男子を起用したときから見え透いている。それを、どうやって映画にしていくか--そのトリックに脱帽。

 この映画に対する私の不満は……。
 映画を見ながら、「ガス灯」を思い出していた。女が「記憶」に苦しむ。男に追い詰められる。こういうとき、女は美女でないといけない。ニコール・キッドマンは「美女ではない」とは言わないが、イングリット・バーグマンに比べると「強すぎる」。弱い美女が追い詰められて苦しむときの顔の魅力に欠ける。あ、もっといじめて、苦しめたい。あの苦しむ顔がたまらない、という欲望を引き起こさない。イングリット・バーグマンはすばらしかった。シャルル・ボワイエ(美男子!)に追い詰められて苦しむのを見ていると、かわいそうと感じると同時に、もっともっといじめてみたいという欲望を引き起こす。矛盾した感情のなかで、私は映画を忘れ、イングリット・バーグマンに夢中になる。そのとき私はイングリット・バーグマンを追い込むシャルル・ボワイエにもなっている。「一人二役」で映画の「なか」にいる。スクリーンを忘れてしまう。
 ニコール・キッドマンは「アザーズ」で幽霊をやったくらいだから、もともとが「怖い」顔なのだ。「我が強い(執念深い?)」顔なのだ。これでは、同情はできないし、もっといじめたいという気持ちにもなれない。復讐されると怖いから。矛盾した気持ちになってこそ、「映画」が「映画」であることを忘れ、夢中になれる。
 個人的な好みかもしれないが、個人的な好みというのは大切なのだ。この映画、イングリット・バーグマンでリメイクできないかなあ。ヒッチコックがリメイクしてくれたら最高だろうなあ。
                 (2015年05月23日、t-joy 博多・スクリーン10)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ガス燈 [DVD]
クリエーター情報なし
ファーストトレーディング
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『詩に就いて』(25)

2015-05-24 19:06:53 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(25)(思潮社、2015年04月30日発行)


小景

テラスのテーブルに
チャイのポットと苺が出ている
古風な静物画のような構図
音楽は言葉を待たずに
キャベツ畑を渡っていく
音楽がどこへ行くのか気になって
言葉は立ち止まってしまう

「詩みたいなものを書いた」と男が言う
「やめてよ」と女
気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている
「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女
言葉はみな意味に疲れ果てている
部屋の奥で着信音が小さく鳴った

 この作品から三つ目の章になる。
 いままで読んできた作品と大きく違う点がある。女が登場し、男と対話している。登場人物が二人いて、「対話」している。ひととひとの哄笑がある。
 「朝」にも「私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて」という一行があり、そこにも「対話」があると言えば言えるけれど、その「対話」は「小景」のように「対立」していない。
 「小景」では「対話」が「対立」している。逆なことばで言えば「調和していない」。「朝」の「無言の微笑」は「調和」である。
 音楽に「不協和音」という言い方があるが、谷川がこの詩で書いているのは「不協和音」のようなものかもしれない。ふつうとは違う和音。ことばの響きあい。
 そのとき、そこに「詩」は存在しているのか。
 男は詩を書き、女は詩を拒絶している。このとき、詩は存在しているのか。それとも存在していないことになるのか。存在しているけれど、それが拒絶されているだけなのか。詩人と詩人ではないひとが対話し、その対話のなかで詩が否定されたとき(拒絶されたとき)、詩人は、どういう存在なのだろう。否定されても詩人か、それとも詩人ではなくなるのか。詩はそのとき「どこにある」のか。

 最初から読み直してみる。
 一連目は、いわゆる「詩」である。二連目で男が「詩みたいなものを書いた」と言うが、その「詩みたいなもの」が指しているのは一連目である。
 「テラス」「テーブル」が出てくるので、思わず詩集の巻頭の「隙間」を思い出してしまう。「詩の靄らしい」ものが「うっすら漂っている」光景は、「小景」の世界を先取りしていっているような気がする。それくらい、一連目は「詩っぽい」(詩みたいなもの)。「古風な静物画のような構図」と谷川が書いているが、「構図」が「詩っぽい」。さらに「音楽は言葉を待たずに/キャベツ畑を渡っていく」が谷川の「音楽好き」をそのまま浮かび上がらせて、とても「詩っぽい」。「言葉を待たずに」と「言葉」が無視されているのも詩を逆手にとって(ことばを突き放すことによって)、より深い詩を感じさせる。「言葉が存在しない」ときに「詩」がいちばん美しい形で存在する。また、「音楽がどこへ行くのか気になって/言葉は立ち止まってしまう」という保留の感じ、ためらっている感じが、感情が肉体のなかにたまってくるようで、おもしろい。最初から最後まで、すべてのことばが「詩」になっている。
 これを男は「詩みたいなもの」と言う。「詩」と断定していない。なぜだろう。「謙遜」か。あるいは、詩は読まれてこそ、誰かにとどいてこそ詩であって、それまでは「詩みたいなもの」に過ぎないということか。
 これに対して女は「やめてよ」と言う。それを私に読ませる(聞かせる)のはやめて、という意味だろう。女は男が書いた「ことば」を受け取ることを拒絶している。
 ここが、微妙だ。
 女は「ことば」を拒絶したから、「詩みたいなもの」がどんなものか知らない。けれど、男(谷川?)は知っている。また、この作品を読んでいる私も知っている。女のところまではとどかず、立ち止まってしまったことばを知っている。一連目の最後の部分と微妙に重なる。「対」になる。
 詩(詩みたいなもの)は男と読者の意識(内部)には存在する。しかし女がそのことばを拒絶したために、男の「外部」には存在しない(ことに、この詩ではなっている)。
 これは谷川がつかうことばを借りて言えば、「未生のことば」が生まれようとするのを、反対側(?)から見つめたような感じだ。
 「言葉」はもう「未生」のものではない。けれど、それは女が拒絶したために「外部」に「生まれ出る」わけにはかいかない。しかし、引き返そうにも、引き返せない。「未生の言葉」にはもどれない。「言葉は立ち止まってしまう」。
 こういうことを、谷川は

気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている

 と書いている。魅力的で、刺激的で、ことばを誘われる。この行について何か書きたい、という欲望を刺戟される。
 「沈黙」の奥に「詩」が隠れているのではない。
 「沈黙」と「詩」が、対等の感じで「かくれんぼ」している。互いが「鬼」であり、互いが「子」である。「対」になっていないと「かくれんぼ」は成立しない。
 「未生のことば」は「未生」であるけれど、そこに存在しているということが意識されないかぎりは「未生のことば」ではない。意識される(感じがある)けれど、それが「外部」に形となって出て来ないのが「未生」という状態。「胎児」のようなものだ。「生きている」、存在している。けれど「外部」に出てきて「自立」しているわけではない。
 このとき「詩みたいなもの(未生のことば)」は男のものだが、「沈黙」はだれのものだろう。男のもの? 女のもの? それとも男と女のあいだにあるもの? だれのものでもなく、もうひとつの「未生のことば」のように存在している。「沈黙」自体が「未生のことば」となって、それが「詩みたいなもの(未生のことば)」と響きあっている。
 これが、この作品の「不協和音」だ。
 「ふつうの和音」(?)は一連目。「詩(みたいなもの)」。世界がことばとなって表出され、そのことばが互いに響きあって、テラスの情景を描き出している。そこには、そこにいるひとの「感情(情緒)」が反映されている。そこにも「沈黙」はあるだろうけれど、その「沈黙」はことばによって静かにととのえられている。あるいは「沈黙」は、生まれてくることばが美しく響くように、沈黙自身をととのえている。
 けれど二連目では「沈黙」と「詩」がぶつかりあって、「ことば」を沈黙させ、「沈黙」をざわつかせる。「詩」が聞こえず、「沈黙」が聞こえる。会話は声にならないまま、男と女の肉体のなかでざわめいている。その「声にならない沈黙」は一連目の「言葉」のように立ち止まりはしない。「沈黙」は自己主張して、詩が隠れたままでいるようにしている。出てきたら(見つけたら)、つかまえてしまうぞ、と騒いでいる。
 どうすればいいのだろう。
 男の方は隠れつづけていることが退屈になって出て行く子どものように、わざと自分の姿をあらわすのだが、女の方はかくれんぼをしていたことさえ否定するように知らん顔をしてしまう。「沈黙」で男と「詩(みたいなもの)」を圧倒してしまう。

「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女

 高等な駆け引き、「人事」。
 それは、しかし、こんなふうに書かれてしまうと、それはそれで「詩」として姿をもってしまう。「不協和音」が「和音」の位置を締めてしまう。つまり、「描写/情景」としてはっきり読者に迫っている。こういう「対立」(気まずさ)のようなものを、架空のものとしてではなく、自分の「肉体」が覚えていることとして思い出すことができる。
 この不思議な手触り、「現実感」をつたえることばに比較すると、一連目は「絵空事(詩みたいなもの)」になってしまう。二連目が「詩」であり、一連目は「空想」になってしまう。
 「不協和音」は「リアリティ」を別なことばで言ったもののよう思えてくる。忘れていた「リアリティ」が動くので、それを「事実」と思い、そこに「ほんとうの詩/詩のほんとう」を感じてしまう。

 この「不協和音」を谷川は、別な表現で言いなおしている。

言葉はみな意味に疲れ果てている

 「意味」が「不協和音」である。「意味」が引き起こす「疲れ」が「不協和音」である。「どこだっけここは」は「意味」である。それが「どこ」であろうと、そういうことと無関係に人間はすでにそこに存在している。「知らない」も「意味」である。どこであろうと人間は存在していると言うこと自体が「意味」なのだ。
 「詩みたいなもの」にも「意味」がある。「意味」をつたえようとして(あるいは、世界はこういうふうに見れば美しいという「意味/見方」をつたえようとして)書かれている。そこにはととのえられた「意味」がある。
 そういう「意味」に女は疲れ、疲れている女を見ることに男は疲れている、という「意味」がさらに加わるかもしれない。

 最後の一行は、それまでのことばとは無関係である。つまり「無意味」な一行である。「意味」から解放されているがゆえに、その一行こそがこの作品では「詩」として存在していることになる。
 騒がしい「不協和音」に向き合って、「小さく鳴った」その音。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする