嵯峨信之を読む(65)
112 小さな灯
死んでゆく友との最後の瞬間か。
「対いあつて」は「むかいあって」と読むのだと思う。「対」という漢字がつかわれているのは、「私ときみ」が二人で「ひとつ」の存在であるという意識が強いからだろう。「対」でなければ、私でもきみでもない。
でもまた「対」は「ひとつ」ではないからこそ「対」なのである。そこには「隔たり」がある。
「対」が失われていく。それを痛切に感じている。すぐそばにいるのに「遠い星」のように感じられる。ただ、それが「悲しい」ではなく「なつかしい」。
友が死んでゆく。その友との日々を思い出す。思い出は「なつかしい」が、こういうときに、ふつうは「なつかしい」とはいわずに「悲しい」という。でも「悲しい」を通り越して「なつかしい」。この「悲しい」を通り越してしまうところに「実感」がある。「実感」をあらわすことばというのは、どうしても「ふつう」をはみだしてしまう。
そのはみだしてゆくものを、どうやって、はみだしたままの形でことばにするか。これが、むずかしい。「常識」の方がことばをととのえてしまう。その力に抗い、「常識/ふつう」を突き破り、超えると、それが詩になる。
読んだとき、ふつうとは違う。ふつうは、こうは言わない。けれど私の言いたかったのはこれだ、と思ったとき、そのことばこそが詩。あたらしいことばを発見し、それを自分の「感情」にする瞬間が、詩。いままであったことばが新しくなる瞬間が、詩。
「明日はもうどちらかがこの世にいない」はとても奇妙なことばである。友が死んでゆく。嵯峨は生き残る。「この世」から出てゆくのは、常識的に言えば「友」であって嵯峨ではない。「どちらか」ということではない。
でも、嵯峨は「どちらか」と、あたかも嵯峨が死ぬ可能性があるように書いている。なぜだろう。「きみ」がいない世界は嵯峨にとっては「この世」ではないからだ。「この世」の「定義」が常識とは違っている。違っているけれど、それを説明しない。そんなことは嵯峨にはわかりきっているので、説明を省略してしまうのだ。
説明を省略されたことばのなかに、その詩人の「本質/思想/肉体」がある。
詩の最後にも、そういうことばが出てくる。
友が死んだ。「それをいま誰も知らない」というのは、間違っている。嵯峨はそれに立ち会い、それを知っている。だから、最後の一行は
と書かれるべきものなのだ。けれど、「私(嵯峨)以外の人間は」というのは、嵯峨にはあまりにもわかりきっていることなので、そういうことを書かない。そんなことばの寄り道をすれば、ことばは「実感」と違ってきてしまう。
「実感」のことばは「合理的に」、最短距離を進むものなのだ。
友の死んだ場所が病院ならば、そこには医師や看護婦がいるから、「私(嵯峨)以外の人間は」それを誰も知らない、というのも間違っているが、友の死に立ち合っている言えるのは、友と「対」になっている嵯峨だけである、という意識(思想)が、ここでは省略されて書かれている。
医師や看護婦は、友とむきあっているかもしれないが、その友は「病気の友」、つまり「病気」と向き合っているのであって、嵯峨が友に「対」を感じるようには向き合っていない。友が死ぬとき、この世から去っていくのは友ではなく自分かもしれないと感じるようには向き合っていない。
詩を読むとは、「省略されたことば」(行間)を読むことなのだ。
112 小さな灯
死んでゆく友との最後の瞬間か。
対いあつていても
別々に離れていることが感じられてくる
眼をつむると
遠い星のひかりのようになつかしい
「対いあつて」は「むかいあって」と読むのだと思う。「対」という漢字がつかわれているのは、「私ときみ」が二人で「ひとつ」の存在であるという意識が強いからだろう。「対」でなければ、私でもきみでもない。
でもまた「対」は「ひとつ」ではないからこそ「対」なのである。そこには「隔たり」がある。
「対」が失われていく。それを痛切に感じている。すぐそばにいるのに「遠い星」のように感じられる。ただ、それが「悲しい」ではなく「なつかしい」。
友が死んでゆく。その友との日々を思い出す。思い出は「なつかしい」が、こういうときに、ふつうは「なつかしい」とはいわずに「悲しい」という。でも「悲しい」を通り越して「なつかしい」。この「悲しい」を通り越してしまうところに「実感」がある。「実感」をあらわすことばというのは、どうしても「ふつう」をはみだしてしまう。
そのはみだしてゆくものを、どうやって、はみだしたままの形でことばにするか。これが、むずかしい。「常識」の方がことばをととのえてしまう。その力に抗い、「常識/ふつう」を突き破り、超えると、それが詩になる。
読んだとき、ふつうとは違う。ふつうは、こうは言わない。けれど私の言いたかったのはこれだ、と思ったとき、そのことばこそが詩。あたらしいことばを発見し、それを自分の「感情」にする瞬間が、詩。いままであったことばが新しくなる瞬間が、詩。
だが明日はもうどちらかがこの世にいない
たれもかれも孤独のなかから出てきて
ひと知れず孤独のなかへ帰つてゆく
「明日はもうどちらかがこの世にいない」はとても奇妙なことばである。友が死んでゆく。嵯峨は生き残る。「この世」から出てゆくのは、常識的に言えば「友」であって嵯峨ではない。「どちらか」ということではない。
でも、嵯峨は「どちらか」と、あたかも嵯峨が死ぬ可能性があるように書いている。なぜだろう。「きみ」がいない世界は嵯峨にとっては「この世」ではないからだ。「この世」の「定義」が常識とは違っている。違っているけれど、それを説明しない。そんなことは嵯峨にはわかりきっているので、説明を省略してしまうのだ。
説明を省略されたことばのなかに、その詩人の「本質/思想/肉体」がある。
詩の最後にも、そういうことばが出てくる。
また一つ小さな灯が消えた
それをいま誰も知らない
友が死んだ。「それをいま誰も知らない」というのは、間違っている。嵯峨はそれに立ち会い、それを知っている。だから、最後の一行は
「私(嵯峨)以外の人間は」それを誰も知らない
と書かれるべきものなのだ。けれど、「私(嵯峨)以外の人間は」というのは、嵯峨にはあまりにもわかりきっていることなので、そういうことを書かない。そんなことばの寄り道をすれば、ことばは「実感」と違ってきてしまう。
「実感」のことばは「合理的に」、最短距離を進むものなのだ。
友の死んだ場所が病院ならば、そこには医師や看護婦がいるから、「私(嵯峨)以外の人間は」それを誰も知らない、というのも間違っているが、友の死に立ち合っている言えるのは、友と「対」になっている嵯峨だけである、という意識(思想)が、ここでは省略されて書かれている。
医師や看護婦は、友とむきあっているかもしれないが、その友は「病気の友」、つまり「病気」と向き合っているのであって、嵯峨が友に「対」を感じるようには向き合っていない。友が死ぬとき、この世から去っていくのは友ではなく自分かもしれないと感じるようには向き合っていない。
詩を読むとは、「省略されたことば」(行間)を読むことなのだ。
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