詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(65)

2015-05-19 10:33:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(65)

112 小さな灯

 死んでゆく友との最後の瞬間か。

対いあつていても
別々に離れていることが感じられてくる
眼をつむると
遠い星のひかりのようになつかしい

 「対いあつて」は「むかいあって」と読むのだと思う。「対」という漢字がつかわれているのは、「私ときみ」が二人で「ひとつ」の存在であるという意識が強いからだろう。「対」でなければ、私でもきみでもない。
 でもまた「対」は「ひとつ」ではないからこそ「対」なのである。そこには「隔たり」がある。
 「対」が失われていく。それを痛切に感じている。すぐそばにいるのに「遠い星」のように感じられる。ただ、それが「悲しい」ではなく「なつかしい」。
 友が死んでゆく。その友との日々を思い出す。思い出は「なつかしい」が、こういうときに、ふつうは「なつかしい」とはいわずに「悲しい」という。でも「悲しい」を通り越して「なつかしい」。この「悲しい」を通り越してしまうところに「実感」がある。「実感」をあらわすことばというのは、どうしても「ふつう」をはみだしてしまう。
 そのはみだしてゆくものを、どうやって、はみだしたままの形でことばにするか。これが、むずかしい。「常識」の方がことばをととのえてしまう。その力に抗い、「常識/ふつう」を突き破り、超えると、それが詩になる。
 読んだとき、ふつうとは違う。ふつうは、こうは言わない。けれど私の言いたかったのはこれだ、と思ったとき、そのことばこそが詩。あたらしいことばを発見し、それを自分の「感情」にする瞬間が、詩。いままであったことばが新しくなる瞬間が、詩。

だが明日はもうどちらかがこの世にいない
たれもかれも孤独のなかから出てきて
ひと知れず孤独のなかへ帰つてゆく

 「明日はもうどちらかがこの世にいない」はとても奇妙なことばである。友が死んでゆく。嵯峨は生き残る。「この世」から出てゆくのは、常識的に言えば「友」であって嵯峨ではない。「どちらか」ということではない。
 でも、嵯峨は「どちらか」と、あたかも嵯峨が死ぬ可能性があるように書いている。なぜだろう。「きみ」がいない世界は嵯峨にとっては「この世」ではないからだ。「この世」の「定義」が常識とは違っている。違っているけれど、それを説明しない。そんなことは嵯峨にはわかりきっているので、説明を省略してしまうのだ。
 説明を省略されたことばのなかに、その詩人の「本質/思想/肉体」がある。
 詩の最後にも、そういうことばが出てくる。

また一つ小さな灯が消えた
それをいま誰も知らない

 友が死んだ。「それをいま誰も知らない」というのは、間違っている。嵯峨はそれに立ち会い、それを知っている。だから、最後の一行は

「私(嵯峨)以外の人間は」それを誰も知らない

 と書かれるべきものなのだ。けれど、「私(嵯峨)以外の人間は」というのは、嵯峨にはあまりにもわかりきっていることなので、そういうことを書かない。そんなことばの寄り道をすれば、ことばは「実感」と違ってきてしまう。
 「実感」のことばは「合理的に」、最短距離を進むものなのだ。
 友の死んだ場所が病院ならば、そこには医師や看護婦がいるから、「私(嵯峨)以外の人間は」それを誰も知らない、というのも間違っているが、友の死に立ち合っている言えるのは、友と「対」になっている嵯峨だけである、という意識(思想)が、ここでは省略されて書かれている。
 医師や看護婦は、友とむきあっているかもしれないが、その友は「病気の友」、つまり「病気」と向き合っているのであって、嵯峨が友に「対」を感じるようには向き合っていない。友が死ぬとき、この世から去っていくのは友ではなく自分かもしれないと感じるようには向き合っていない。

 詩を読むとは、「省略されたことば」(行間)を読むことなのだ。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『詩に就いて』(20)

2015-05-19 09:22:09 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(20)(思潮社、2015年04月30日発行)



詩の妖精2

子どもの肩に詩の妖精がとまった
子どもはゲームに夢中
妖精は一休みしてモンゴルに向かう
子どもがふっと顔をあげた

母親は玉葱をみじん切りにしながら
子どもの未来を思い描くが
どうしても死が想像出来ない
ゲームに飽きて子どもは立ち上がる

机の上の地球儀を回してみる
何か感じるがそれが何か分からない
詩の妖精がもう帰ってきている
モンゴルの丘からの風に乗って

 この作品のなかの「詩の妖精」は、いかにも「妖精」っぽい。「妖精」を物語(童話)などにでてきそうな感じ。「モンゴルに向かう」「モンゴルの丘からの風に乗って」とは想像力で思い描いた情景だ。「現実(部屋にいて地球儀を回している」と「モンゴル」という「想像」の離れ方と、くっつき方が「詩」なのかな? 妖精といっしょに「モンゴル」も「丘」も「風」も見える。いや、「妖精」は見えないけれど、「モンゴル」と「丘」と「風」が見えるいま、ここにない何かが「見える」。そう感じさせてくれたのは、きっと「詩の妖精」。
 でも、この作品で、谷川は詩の「何に」ついて語っているのだろうか。

 「詩の妖精1」で書いたことのつづきを書いてみる。谷川の詩の特徴のひとつは、「主語(登場人物/主役)」が次々に変わっていくこと。この詩でも一連目は「子ども」、二連目は「母親」が「主役」。三連目は? 書いていない。詩人・谷川だろう。この作品の一、二連目を書いたひとだ。
 その「主語(主役)」と「詩の妖精」との関係が書かれている。そのときの「述語」は?
 一連目。「子ども」は「詩の妖精」に気がつかない。ゲームに夢中である。何にも気づかない。けれど、詩の妖精が立ち去ったとき「ふっと顔をあげた」。何かに気がついた。何かが去って行ったことに気がついたのだ。
 二連目。「子どもの死が想像出来ない」。わからない。死があることは確実なのだが、実感出来ない。ここには直接「詩の妖精」は出て来ないが、「子どもは立ち上がる」と書くことで、母親が子どもを見て何かを感じたことがわかる。何かに気がついたから、それをことばにしているのだ。
 一連目の子どもが、詩の妖精が立ち去ったことに気づいたが、立ち去ったのが何か想像出来ない。わからない。「気がつかない/想像ができない/わからない」という動詞は、二連目の母親のなかで、そんなふうにつながっている。
 三連目。

何かを感じるがそれが何か分からない

 一連目と二連目で書いてきたことが言いなおされている。子どもは何かを感じた。けれど、それが「妖精が立ち去った」ということとは「分からない」。二連目では母親が、子どもの未来を思い描く。当然、そこに「死」があることは知っている(わかっている)のに、「子どもの死」が何であるか、「分からない」。どういうことか「分からない」。「理論(?)」と「実感」が矛盾してしまう。その不安定な感じのなかで「子どもが立ち上がる」のを見て、何かを感じる。「わからない」けれど、何かを感じる。
 三連目では「詩の妖精」が帰ってきている。でも、「詩の妖精」と認識できるわけではない。「分からない」が「感じる」。そういうものが、詩であるとするならば……。
 「分からない」が詩ならば、「想像出来ない」も詩である。「気づかない」も詩。言いなおすと「分からない」ことが「ことば」になったとき、それが詩。「想像出来ない」ことが「ことば」となって動いたとき、それが詩。「気がつかない」ことが「ことば」となって動いたとき、それが詩。
 この「詩の妖精2」に書かれている「ことば」が「分かる/知っている」。知らないことばはない。「意味」を説明しろと言われたらこまるけれど、そこに書かれているのは「知っていることば」。その「知っていることば」が気づかなかったものを気づかせてくれる。「気」を導いてくれる。想像できなかったことを「想像」を導いてくれる。
 人間をととのえ、育ててくれる。

 こんなめんどうくさいことを書かずに、私がいちばん詩を感じた部分について書けばよかったのかもしれない。「詩の妖精」にこだわりすぎたのかもしれない。
 この詩のいちばん感動的な部分は、私にとっては、

子どもの未来を思い描くが
どうしても死が想像出来ない

 の二行である。私は「母親」ではないのだが、この二行を読んだ瞬間「母親」になってしまった。「誤解」(誤読)かもしれないが、そうなのか、母親は子どもの死というものを想像ができない、子どもといっしょに生きることしかできないかの、とびっくりし、自分の母のことを思った。母はそんなふうに私を見てくれていたのだと突然気づいた。うれしくなった。
 子どもだった私は「ゲームに飽きる」ように「母の愛情に飽きて」、母のそばから立ち去ったけれど、母から見れば「立ち去った」ということはありえないのだな。自分の「肉体」として、いつもいっしょに動いている。
 それは「思いがけない真実」である。谷川のことばといっしょに、それが私の肉体のなかで動いた。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする