詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村草弥『無冠の馬』

2015-05-26 10:41:07 | 詩集
木村草弥『無冠の馬』(角川学芸出版、2015年04月25日)

 木村草弥『無冠の馬』は歌集。いくつかの連作から構成されている。巻頭の作品は「ゴッホの耳」。その最初の作品、全体の巻頭の歌。

白鳥の帰る頃かもこぶし咲き白き刹那を野づらに笑ふ

 「白鳥」は「はくちょう」か「しらとり」か。「しらとり」の方が「白き」と響きあうが「刹那」という強いことばと向き合うには「はくちょう」の方がいいかもしれない。
 歌の「意味」を私はいちいち考えないが、この歌の最後の「野づらに笑ふ」の「主語」について書きたい。「笑ふ」のはだれ?
 私は「こぶし」と読んだ。
 野の遠くにこぶしが咲いている。そのぼんやりと白い色が、野の風景を明るくする。「山笑う」という季語に通じる「笑ふ」。自然全体の印象の変化と読んだ。
 そして、その変化に刺戟されて、「白鳥の帰る頃かも」と想像している。白鳥は見えないのだけれど、遠くで咲いているこぶしの花の連なりが白鳥の飛んで行く姿に見えないこともない。
 現実と幻想が交錯する美しい歌だと思う。
 「刹那」というのは、この歌にとってどういう位置を占めているのかわからないが、私が高校生の頃、こういう漢語の多い短歌を読んだ記憶がある。そういう意味では、少しなつかしいものが木村の歌にはある。

一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる

 「青い夜」ということば、「夜が来てゐる」という描写の仕方も、その当時読んだ「短歌の抒情」のひとつの形のように感じられる。
 それが良い、悪い、ということではなくて、私はそういうことばのつかい方に自然になつかしさを覚えるというだけのことである。

 三首目が、とても印象的だ。

三椏の花はつかなる黄に会ふは紙漉きの村に春くればゆゑ

 音の響きがうつくしい。どこかごつごつした部分がのこっていて、それがことば(声)を発する欲望を刺戟してくる。
 「はつかなる」の「つ」の音は私の発音では「母音」をふくまない。音が短縮してしまう。「黄に会ふ」の「黄」の音は私は苦手で、口語では私は「黄色」ということばしかつかわない。文字に書くときもたいてい「黄色」と書いてしまう。「黄」では、私には音が短すぎる。明確にするには強く発音しないといけない。--この「つ」の「弱音」と「黄」の「強音」の交錯が、とても刺激的だ。
 「紙漉き」の「す」も私は「母音」が弱くなる。省略してしまうかもしれない。「春くれば」の「く」も同じ。ところが「くれば」の「ば」は逆に「母音」が強くなる。濁音特有の「母音の豊かさ」がここにあって、それが「ゆゑ」という半母音+母音のつらなりへ広がっていくのも、妙に「肉体」を刺戟してきて、うれしくなる。
 この音の交錯と、意味の「倒置法」の感じもとてもいい。
 まっすぐにことばが進むのではなく、前後がひっくりかえりながら動いていく感じが、意識のばらつきというか、新しい風景を見て、どれから描写すればいいのか迷っている感じ、迷いながら感動をつたえたくて急かされている感じをそのまま再現している。
 春を見つけた、その浮き立つような感覚の動きが、そのまま音になっていると思う。
 「は」の音が繰り返し、それも「終わりの方(三椏の花/会ふは)」と「先頭の方(はつかなる/春)」という具合に乱れるというのか、リズムの取り方が二種類あるというのか、……これも刺激的だ。

松の芯が匂ふおよそ花らしくない匂ひ--さうだ樹脂(やに)の匂ひだ

 この歌は、いま若者が書いているような、ことばのラフな動きと似通ったところがあるが、あえて「匂ふ/匂ひ」を繰り返しているところに、感覚の「剛直さ」があらわれていて、私は好きだ。

 私は音の輪郭が強い歌が好きなのだ。
 万葉の音に比べると、その大声に拮抗する声の強さを持っている歌人は少ない。木村の声が万葉のように強靱であるとは言えないけれど、声の強さが聞こえてくる歌はいいなあ、と思う。
 これは「感覚の意見」であり、それ以上説明できないけれど。

 「無冠の馬」の次の二首も好き。

草原を馬上にかける少年よアルタンホヤグ・イチノロブよ

十戦十勝かつ英国首位種牡馬-セントサイモンは《無冠馬》だった

 言い換えのきかない「固有名詞」の強さが魅力だ。「無冠馬」は「首位種牡馬」という大声を出さないと言えない音の連なりが肉体をはつらつとさせる。「無冠馬」という母音の欠落した音と濁音が交錯しながら「だった」とさらに濁音+母音のない音へと動いていくところが、やっぱり大声を必要とするので楽しい。


歌集 無冠の馬
クリエーター情報なし
KADOKAWA/角川学芸出版

*

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谷川俊太郎『詩に就いて』(27)

2015-05-26 09:12:31 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(27)(思潮社、2015年04月30日発行)


同人

詩をことばから解放したい
と彼女は言う
漂白されたような顔で
じゃ踊れば?と私は言う
肉体は恥ずかしいと彼女
都合よく大空を雁が渡って行く
あれが詩よ 書かなくていいのよ
書くと失われるものがあるのは確かだが
草の上にシートを敷いて二人は寝転がっている
他の同人たちは下の川に釣りに行っている

天から見れば私たちは点景人物
誰が描いた絵なんだろう この世界は
型通りの発想も時には詩を補強する
結局言葉なのね 何をするにも
唇は語るためだけにあるんじゃない
まだお握り残ってるわよ
食べるためだけにある訳でもない
愛でもっともすばらしいものは口づけ……
とトーマス・マンは書いている
おおい!と誰かが下から呼んでる

 「小景」「二人」「同人」と三篇、女と男(私/詩人/谷川?)の「やりとり」が書かれている。「小景」「二人」の女は詩は書いていないようにみえる。「同人」の女は詩を書いている、ように見える。谷川が若い時代、「櫂」で他の仲間といっしょに詩を書いていた時代に体験したことを思い出して書いているのかもしれない。
 詩を書きながら、女は「詩を言葉から解放したい」という夢を持っている。「書かなくていい」ものが詩であると、言いたい。これに対して、谷川は「書くと失われるものがあるのは確かだが」という形で、女のことばを半分受け入れながら、違うことを考えている。谷川の考えは明確には書かれていないが、「……は確かだが」というのは、その意見に対して「態度保留」という感じの部分がある。
 谷川は、谷川が詩だと思っているものと、他人が詩と思っているものの違いから、詩を定義しようとしているのだろう。
 女は「詩は言葉ではない(書かなくていい)」と考えている。「私」は、明確には書いていないのだが「詩は言葉である」と考えている。ただし「未生の言葉」(まだはっきりとした形になっていない言葉)と考えている。
 少し強引な「論理」になるかもしれないが、そのことを私は、二連目の

型通りの発想も時には詩を補強する

 という一行に読み取る。
 「型通りの発想」とは「定型」のことである。「既成の言葉」「表現として確立された言葉」。ふつうは、そういうことばを「詩ではない」と否定するのが、谷川は否定しない。それは「詩=未生の言葉」を「補強する」。
 どんなことばも、それひとつだけでは自立しない。動かない。ほかのことばに支えられながら、動きはじめ、他の力を借りて「生まれてくる」。既成のことばから動き方を学びながら、その既成を超えるものを手探りで探し出す。
 それは見つけられないかもしれない。
 けれど、「未生の言葉」を見つけようとする「動き(欲望/本能)」が詩である。
 
 「型通り(定型)」は「都合がいい」。一連目に「都合よく大空を雁が渡って行く」という行があるが、ことばではなく「大空を渡る雁」という「存在」が詩であるというのも、一種の「詩の感覚」の「定義」にあっている。「定型」のひとつである。「都合」にあわせられるのが「定型」というものなのか、「定型」だから「都合」がいいのか、わからないが、それは、ほとんど同じものである。既成の「美」が、「いま/不安定」なことばにならないものを、ことばへ向けて動かしてくれる。
 二連目では、「定型」はもっと明確に「既成のことば」そのままに引用されている。トーマス・マンの「愛でもっともすばらしいものは口づけ……」。その「定型」を通って、谷川は「未生の言葉」を動かそうとしている。トーマス・マンのことばに接続する形で、それを乗り越える(切断していく)ことを夢見ている。そこに、詩がある、と思っている。
 最後は、しかし、その「未生の言葉」を誕生させるのではなく、別なことばで、それまでの「世界」を叩き壊し、解放する。

おおい!と誰かが下から呼んでる

 呼んだ誰かは「同人」仲間なのだが、彼は、谷川と女が詩とことばについて「やりとり」していたことを知らない。そういう「やりとり」を叩き壊して、無関係に、呼んでいる。
 この「無関係」は「無意味」ということでもある。
 「無意味」にこそ詩がある、という谷川の哲学がここにあらわれている。
 「無意味」という点、自分たちとは無関係な「存在」という「意味」では、それは「大空を渡っていく雁」と同じものである。
 これを「都合よく」と読んでしまうと、この形式が谷川の詩の「定型」になってしまうが……。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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