木村草弥『無冠の馬』(角川学芸出版、2015年04月25日)
木村草弥『無冠の馬』は歌集。いくつかの連作から構成されている。巻頭の作品は「ゴッホの耳」。その最初の作品、全体の巻頭の歌。
「白鳥」は「はくちょう」か「しらとり」か。「しらとり」の方が「白き」と響きあうが「刹那」という強いことばと向き合うには「はくちょう」の方がいいかもしれない。
歌の「意味」を私はいちいち考えないが、この歌の最後の「野づらに笑ふ」の「主語」について書きたい。「笑ふ」のはだれ?
私は「こぶし」と読んだ。
野の遠くにこぶしが咲いている。そのぼんやりと白い色が、野の風景を明るくする。「山笑う」という季語に通じる「笑ふ」。自然全体の印象の変化と読んだ。
そして、その変化に刺戟されて、「白鳥の帰る頃かも」と想像している。白鳥は見えないのだけれど、遠くで咲いているこぶしの花の連なりが白鳥の飛んで行く姿に見えないこともない。
現実と幻想が交錯する美しい歌だと思う。
「刹那」というのは、この歌にとってどういう位置を占めているのかわからないが、私が高校生の頃、こういう漢語の多い短歌を読んだ記憶がある。そういう意味では、少しなつかしいものが木村の歌にはある。
「青い夜」ということば、「夜が来てゐる」という描写の仕方も、その当時読んだ「短歌の抒情」のひとつの形のように感じられる。
それが良い、悪い、ということではなくて、私はそういうことばのつかい方に自然になつかしさを覚えるというだけのことである。
三首目が、とても印象的だ。
音の響きがうつくしい。どこかごつごつした部分がのこっていて、それがことば(声)を発する欲望を刺戟してくる。
「はつかなる」の「つ」の音は私の発音では「母音」をふくまない。音が短縮してしまう。「黄に会ふ」の「黄」の音は私は苦手で、口語では私は「黄色」ということばしかつかわない。文字に書くときもたいてい「黄色」と書いてしまう。「黄」では、私には音が短すぎる。明確にするには強く発音しないといけない。--この「つ」の「弱音」と「黄」の「強音」の交錯が、とても刺激的だ。
「紙漉き」の「す」も私は「母音」が弱くなる。省略してしまうかもしれない。「春くれば」の「く」も同じ。ところが「くれば」の「ば」は逆に「母音」が強くなる。濁音特有の「母音の豊かさ」がここにあって、それが「ゆゑ」という半母音+母音のつらなりへ広がっていくのも、妙に「肉体」を刺戟してきて、うれしくなる。
この音の交錯と、意味の「倒置法」の感じもとてもいい。
まっすぐにことばが進むのではなく、前後がひっくりかえりながら動いていく感じが、意識のばらつきというか、新しい風景を見て、どれから描写すればいいのか迷っている感じ、迷いながら感動をつたえたくて急かされている感じをそのまま再現している。
春を見つけた、その浮き立つような感覚の動きが、そのまま音になっていると思う。
「は」の音が繰り返し、それも「終わりの方(三椏の花/会ふは)」と「先頭の方(はつかなる/春)」という具合に乱れるというのか、リズムの取り方が二種類あるというのか、……これも刺激的だ。
この歌は、いま若者が書いているような、ことばのラフな動きと似通ったところがあるが、あえて「匂ふ/匂ひ」を繰り返しているところに、感覚の「剛直さ」があらわれていて、私は好きだ。
私は音の輪郭が強い歌が好きなのだ。
万葉の音に比べると、その大声に拮抗する声の強さを持っている歌人は少ない。木村の声が万葉のように強靱であるとは言えないけれど、声の強さが聞こえてくる歌はいいなあ、と思う。
これは「感覚の意見」であり、それ以上説明できないけれど。
「無冠の馬」の次の二首も好き。
言い換えのきかない「固有名詞」の強さが魅力だ。「無冠馬」は「首位種牡馬」という大声を出さないと言えない音の連なりが肉体をはつらつとさせる。「無冠馬」という母音の欠落した音と濁音が交錯しながら「だった」とさらに濁音+母音のない音へと動いていくところが、やっぱり大声を必要とするので楽しい。
*
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
木村草弥『無冠の馬』は歌集。いくつかの連作から構成されている。巻頭の作品は「ゴッホの耳」。その最初の作品、全体の巻頭の歌。
白鳥の帰る頃かもこぶし咲き白き刹那を野づらに笑ふ
「白鳥」は「はくちょう」か「しらとり」か。「しらとり」の方が「白き」と響きあうが「刹那」という強いことばと向き合うには「はくちょう」の方がいいかもしれない。
歌の「意味」を私はいちいち考えないが、この歌の最後の「野づらに笑ふ」の「主語」について書きたい。「笑ふ」のはだれ?
私は「こぶし」と読んだ。
野の遠くにこぶしが咲いている。そのぼんやりと白い色が、野の風景を明るくする。「山笑う」という季語に通じる「笑ふ」。自然全体の印象の変化と読んだ。
そして、その変化に刺戟されて、「白鳥の帰る頃かも」と想像している。白鳥は見えないのだけれど、遠くで咲いているこぶしの花の連なりが白鳥の飛んで行く姿に見えないこともない。
現実と幻想が交錯する美しい歌だと思う。
「刹那」というのは、この歌にとってどういう位置を占めているのかわからないが、私が高校生の頃、こういう漢語の多い短歌を読んだ記憶がある。そういう意味では、少しなつかしいものが木村の歌にはある。
一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる
「青い夜」ということば、「夜が来てゐる」という描写の仕方も、その当時読んだ「短歌の抒情」のひとつの形のように感じられる。
それが良い、悪い、ということではなくて、私はそういうことばのつかい方に自然になつかしさを覚えるというだけのことである。
三首目が、とても印象的だ。
三椏の花はつかなる黄に会ふは紙漉きの村に春くればゆゑ
音の響きがうつくしい。どこかごつごつした部分がのこっていて、それがことば(声)を発する欲望を刺戟してくる。
「はつかなる」の「つ」の音は私の発音では「母音」をふくまない。音が短縮してしまう。「黄に会ふ」の「黄」の音は私は苦手で、口語では私は「黄色」ということばしかつかわない。文字に書くときもたいてい「黄色」と書いてしまう。「黄」では、私には音が短すぎる。明確にするには強く発音しないといけない。--この「つ」の「弱音」と「黄」の「強音」の交錯が、とても刺激的だ。
「紙漉き」の「す」も私は「母音」が弱くなる。省略してしまうかもしれない。「春くれば」の「く」も同じ。ところが「くれば」の「ば」は逆に「母音」が強くなる。濁音特有の「母音の豊かさ」がここにあって、それが「ゆゑ」という半母音+母音のつらなりへ広がっていくのも、妙に「肉体」を刺戟してきて、うれしくなる。
この音の交錯と、意味の「倒置法」の感じもとてもいい。
まっすぐにことばが進むのではなく、前後がひっくりかえりながら動いていく感じが、意識のばらつきというか、新しい風景を見て、どれから描写すればいいのか迷っている感じ、迷いながら感動をつたえたくて急かされている感じをそのまま再現している。
春を見つけた、その浮き立つような感覚の動きが、そのまま音になっていると思う。
「は」の音が繰り返し、それも「終わりの方(三椏の花/会ふは)」と「先頭の方(はつかなる/春)」という具合に乱れるというのか、リズムの取り方が二種類あるというのか、……これも刺激的だ。
松の芯が匂ふおよそ花らしくない匂ひ--さうだ樹脂(やに)の匂ひだ
この歌は、いま若者が書いているような、ことばのラフな動きと似通ったところがあるが、あえて「匂ふ/匂ひ」を繰り返しているところに、感覚の「剛直さ」があらわれていて、私は好きだ。
私は音の輪郭が強い歌が好きなのだ。
万葉の音に比べると、その大声に拮抗する声の強さを持っている歌人は少ない。木村の声が万葉のように強靱であるとは言えないけれど、声の強さが聞こえてくる歌はいいなあ、と思う。
これは「感覚の意見」であり、それ以上説明できないけれど。
「無冠の馬」の次の二首も好き。
草原を馬上にかける少年よアルタンホヤグ・イチノロブよ
十戦十勝かつ英国首位種牡馬-セントサイモンは《無冠馬》だった
言い換えのきかない「固有名詞」の強さが魅力だ。「無冠馬」は「首位種牡馬」という大声を出さないと言えない音の連なりが肉体をはつらつとさせる。「無冠馬」という母音の欠落した音と濁音が交錯しながら「だった」とさらに濁音+母音のない音へと動いていくところが、やっぱり大声を必要とするので楽しい。
歌集 無冠の馬 | |
クリエーター情報なし | |
KADOKAWA/角川学芸出版 |
*
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。