詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(17)

2015-05-16 09:56:34 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(17)(思潮社、2015年04月30日発行)


家と私

夏の終わりに家を壊した
古い手紙の束が出てきた
硝子戸を古物商が持って行った
敷地が更地になってぺんぺん草が生えた
表札は捨てたが番地は残っている

新しい家を建てたい
平屋がいい
広いワンルームの片隅にベッド
仕事机と禁欲的な椅子
庭に一本の樹木

更地になった敷地に雪が積もった
この白に詩が書けるか と
道に佇んで自問する
私はこれでいい だが他の人々はどうか
この国のこの星の未来は

夢を見た
新しい家が出来上がった夢
だが私はどこにもいない
夢の中で私が私を探している
地面が揺れて目が覚めた

 詩の「定義」は難しい。私は何度か「詩は無意味である」、あるいは谷川のことばを借りて「未生のことばが詩である」というようなことを書いた。
 この作品に一回だけ出てくる「詩」ということば。それに、いま書いた「定義」はあてはまるか。どうも、あてはまらない。降り積もった雪。誰の足跡もない。そこに詩が書けるかと自問する。そのとき詩はきっと定義されていない。「美しい詩」「真実に触れる詩」「ことばの響きがおもしろい詩」「感動的な詩」「意味を破壊する詩」「形而上学的な詩」。そういう「修飾語」を抜きにして、ただ「詩」と考えている。「内容/意味」を考えずに、ただ「詩」を思っている。「無意味」でさえない「詩」、どんな「定義(修飾語)」も持たない「詩」が、ぽんと書かれている。
 これはやっかいだなあ。
 詩は、谷川にとっては、谷川が住む「家」のようなものかもしれない。「家と私」というタイトルだが、そして実際に家を壊し、家を建て直す夢のことが書かれているのだが、この「家」は「詩」かもしれないなあ。
 詩を壊した。すると、その詩のなかのことばから「古い手紙」のことばが出てきた。古い(?)硝子戸のような一行を愛好家が「ください」といって奪って行った。貴重なものがなくなった意識の領域(詩の敷地?)に、ことばをつていでゆく「てにをは」のようなものが動いている。
「詩のタイトル」も消してしまったが、詩を書いたという「記憶」は消えずに残っている。そんなふうに読むこともできる。
 古い詩は捨て去って、「新しい詩」を書きたい。それが二連目になる。平屋のように、簡単な詩、部屋は広くて、ベッドと、机と椅子という必要最小限のものだけでできた詩。けれど、それだけではなくて、庭には木があってそこには小鳥もやってくるというような「余分」もどこかにあるような詩。
 でも、詩を書いてしまうと、そこには「私」がいない。「詩」というものがあるだけで、「私」は見当たらない。--それが四連目。
 これは、しかし、考えすぎ、読みすぎかもしれないなあ。

 違う読み方をしてみる。
 「詩」ということばは一回しか出て来ない。これに対して「夢」ということばは三回出てくる。しかも最終連に集中して出てくる。「夢」は何を言いなおしたものだろう。ひとは大事なことを繰り返すものである。(逆に、大切が身にしみついていて、本人にはわかりきっているので一度もことばにならないこともある。)
 最終連より前に「夢」は描かれていないか。

新しい家を建てたい

 この「……したい」は「願望」、つまり「夢」だ。「平屋がいい」は「平屋が理想だ」。つまり「いい」も「夢(理想)」をあらわしている。そのあとのことばには「いい」が省略されているが「いい」が含まれている。
 二連目全体が「夢」なのである。それは眠っているあいだに見る夢ではなく、目を覚ましながら見る「夢」だけれど。
 「夢」と「対」のことばに「現実」というものがある。夢に二種類あるとしたら、「現実」も二種類あるかもしれない。無意識(意識が眠っている)ときに見る「現実」と、意識が目覚めたときに見る「現実」。
 一連目は、どちらになるだろう。
 私は、家を壊すことによって目覚めた意識が見た「現実」だと思う。「古い手紙」や「硝子戸」に何か価値があるとは思っていなかった。そんなものにこころが動くとは思っていなかった。それが存在することすら忘れていた。(無意識のうちに、存在を消し去っていた。)けれど「無意識」が解体されてしまうと、その奥から突然あらわれた。無意識から目覚めて、その存在に気がついた。
 このときの「意外な驚き」。それは、無意識から覚めて見る「夢」ではなく、「詩」かもしれない。「意外性」がさらに、「夢」を覚醒させ、意識にはりついてくる。「表札は捨てたが番地は残っている」という行は、そういう瞬間に見る「幻覚」のように生々しく肉体を揺さぶる。
 詩の「定義」は難しいが、「表札は捨てたが番地は残っている」という行を読んだ瞬間、あ、詩だと思うでしょ?
 これに比較すると二連目はすでに書いたが、目覚めながら見る「夢(理想)」。そしてそこには、ある種の「ととのえ方」がある。「理想の家の形」をととのえながら、谷川は自分の生き方をととのえている。
 で、また一連目にもどると、それは「理想の生き方」を夢見る(ととのえる)というよりは、いままで自分を縛っていた生き方(無意識のうちの、生き方のととのえ方)を壊して見る。何を隠して(抑制して)、自分をととのえていたのかな、と振り返った姿にも見える。
 「古い」と「新しい」、「壊す」と「建てる」、「記憶」と「未来」が「対」になりながら、動いている。二連目の「禁欲的な」というのは自己規制のようなものだが、その「夢」が一連目の「ぺんぺん草が生えてきた」ということばのなかにある「野放図な/暴力的な」という「対」になっているところなど、谷川の詩の感性のいちばん魅力的なところだ。こんなふうに、人間のことばは「奥深く」でつながっているのか、と気づかされる。そして、あ、こういうつながりが動き出すのが詩なのだなあと思う。私は何度も谷川の詩の構造が「対」を踏まえていると書いてきたが、こういう「対」は谷川以外にはなかなか書けない。
 「家」と「詩」、「現実」と「夢」がどこかで「対」になりながら、絶妙な感じで動いている。それが「私(谷川)」という存在なのか。

 とりとめもなく書いてしまうが……。
 三連目にもどってみる。
 ここに書かれている「詩」と「対」になっているのは何だろう。「詩」ということばではなく「書く」という動詞に目を向けると、違ったものが見えるかもしれない。
 一連目、二連目は、谷川の「書いた詩(の一部)」である。雪の白の上に「詩が書けるか」と自問するとき、そこには「詩」はまだ存在していない。存在しないものを「書く」とき、その「書く」という運動のなかに詩は姿をあらわす。
 一連目。家を壊した。そのことを書くと、その「書く」に釣られて「古い手紙の束が出てきた」ということばが動く。「古い手紙の束」は意識の中では存在しなかった。二連目。「平屋」も「広いワンルーム」も「書く」ことで存在する。それまでは形になっていない。
 「書く」ことが「現実」も「夢」も、同じように存在させる。その存在のさせ方(ととのえ方)を詩というのかもしれない。詩は「名詞」ではなく、世界のととのえ方の、その「ととのえる」という「動詞」のなかにある。
 で、

私はこれでいい だが他の人々はどうか
この国のこの星の未来は

 この唐突な(私には、唐突に感じられる)二行は、どう読めばいいのか。私は、それに「書く」という動詞を補って読んでみる。

私はこれでいい だが他の人々はどう「書く」か
この国のこの星の未来は 「どう書かれるのか」

 ことばによって「未来」をととのえる。それを「未来を書く」という。
 谷川はことばを「書く」。ことばで自分の過去と未来と現実を「ととのえる」。そうやって、ととのえられ、書かれたものを、私たちは「谷川の詩」と呼んでいる。
 その谷川が「他の人々はどう書くか」と心配している。それはもちろん人に対する心配がいちばんなのかもしれないが、ことばに対する心配かもしれない。ことばは「どう書かれるのか」。ことばは、どうなるのか。
 四連目の「新しい家」は、谷川の夢見た二連目の家ではないかもしれない。他人がつくった新しい夢(ことばのととのえ方)かもしれない。そう「誤読」するとき、他人の詩の中でとまどう谷川の姿が見える。他人の書いたことば(詩/家の夢)なのだから、そこに谷川がいなくてあたりまえかもしれないが、それはたぶん間違っている。ことばは常にひとと共有されて動いているから、ことばのなかにはいつでも「あらゆる人間」がいるはずである。ことばは、それがつかわれてきた(書かれてきた)時間とともに生きている。ことばのなかに「私」がいない、というのは、何かおかしい。ことばが「断絶」してしまっているというのは、おかしい……。

 私の「誤読」は脱線しすぎているかもしれない。

 別なことも、私は考えた。
 四連目の「私はどこにもいない」はどういうことだろうか。「私がいない」を「私」はどうやって知ったのか。「家のなかに私がいない」なら、「私は家の外にいる」。一連目を思い出すとはっきりする。家を壊した。その壊すことによってできた「家がない(敷地)」を、私は「家があった場所の外(三連目の「道」)」から見つめている。
 「いない」人間が「いない」を認識することはない。(というのは「我思う、ゆえに我あり」の受け売り。私は、実は「二元論」を信じていない。「方便」で書いている。)
 「いない」はことばによってつくりだされた状況、現実のととのえ方なのだ。「ない」ものは「ない」はずなのに、人間はことばによって「ない」を「存在する/ない」と考え、そこからことばの動きをととのえるということもできる。
 そんな動きとも、詩はどこかでつながっている。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

コメント
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