詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(66)

2015-05-20 20:40:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(66)

113 空

 三連から構成されている。

どんな小さな窓からも空は見える
どんな大きな窓からも空は見える

 この書き出しは、視線を空へ引き寄せ、肉体を部屋のなかから解放する。しかし、嵯峨はこの空を「白い空」と書き、「一つの大きな心のように」わたしを閉じこめている、と二連目で書く。
 「空」ということばから私が連想することとはかなり違っているので、とまどってしまう。
 詩は、三連目で大きく変わる。

しかし わたしになにか気にいつたことがあると
青いいきいきとした小さな空が
わたしの心のなかの遠くに見える
その空はきつとわたしが生れた日の空だ
もしそうでなければ
その遠い空をながめていると
きゆうにこう眠くなるはずがない

 ここでも、私はかなりとまどう。
 「心のなかの遠くに見える」「小さな空」。それは「気にいつたことがある」と見えるというのだけれど、なぜ「遠く」なのだろう。なぜ「小さな」なのだろう。
 悲しいとき、つらいときにそれを思い出すようにしてみるというのなら、自然に読めるのだが、「気にいつた」と「小さな」「遠い」が私の感覚ではなじまない。「青いいきいきした」は「気にいつた」とこころよく結びつくけれど……。
 しかし、そのあとの、最後の四行は、読んでいて何かあたたかいものがある。「生まれた日の空」と思って、こころのなかの空をながめていると、急に眠くなる。安心して眠ることができるしあわせがある。
 しあわせというのは、生まれてくるということと、しっかり結びついているのだと実感できる。
 「心のなかの遠くに見える」空、「小さな窓」「大きな窓」から見える空。その違いに気をつけて読み直さなければならないのかもしれない。
 「窓から」見る空、というとき人は室内にいる。一連の詩は死がテーマになっている。「窓」は「病院の窓」なのかもしれない。空が「閉じこめている」のではなく、病院が、あるいは病気が「閉じこめている」のかもしれない。
 病院、病気がわたしを閉じこめている。わたしの「肉体(からだ)」を閉じ込めている。しかし、それは「心」の動きまでは閉じ込めることことはできない。「心」はいつでも、遠くに、青くいきいきとしたそらを思い描く。それはわたしを苦しめる「大きな」病気、病院とは違って「小さい」。けれど、「大小」を超えて、あたたかい。安心を誘う。
 そんなふうに読むと、この詩のなかの「わたし」は嵯峨自身ではなく、死んでゆく友人であり、嵯峨はその友人のこころを代弁しているように思える。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(21)

2015-05-20 12:26:31 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(21)(思潮社、2015年04月30日発行)



私を置き去りにする言葉

私が眠っているとき
言葉はうずくまっている
私のからだのどこかに
そして他の人々の言葉と
つるみ始めている
私に見えない夢の中で

言葉はペニスのように
硬くなり尖り
言葉は涎のように口元に垂れ
言葉はもう眠る私を置き去りにして
詩になろうと●きながら
愚かな人波に揉まれている
                   (谷内注=●は「足」偏に「宛」。もがく)

 この詩には「詩」ということばが一回だけ出てくる。この「詩」も「内容/意味」が説明されない。谷川が「詩」と思うもの、くらいの意味である。読者が、各自かってに「詩」と思い込んでいるものを、その「詩」に重ねて読むしかない。
 一方、「言葉」は何度も出てくる。繰り返されている。しかし、その「言葉」はみんな同じ「言葉」だろうか。
 たとえば二連目、

言葉はペニスのように
硬くなり尖り
言葉は涎のように口元に垂れ
言葉はもう眠る私を置き去りにして

 この「言葉」は「同じ」ものか。「ペニスのように/硬くなり尖り」と「涎のように口元に垂れ」は私には「同じ」には思えない。ペニスと口元では「肉体」の部分として離れすぎている。ペニスも涎のようなものを垂らしはするが、それはあくまで「垂らす」であり、「垂れる」ではない。似ているが、「動詞」の動いていく「方向」が違う。
 けれど、ペニスも涎も口も組み合わさって「一つ」の肉体を感じさせる。「一つの肉体」がペニスも涎も口ももっている。「肉体」でつながっている「別の器官」としての「言葉」。
 「言葉」を「私」と置き換えてみる。さらに「私の肉体」と言いなおしてみる。そうすると、その三つがまじりあって、つながって見えてくる。私のペニスは硬くなり、私は涎を垂らす。それは別々の「私の肉体」だけれど、すべて「私の(一つの)肉体」。「言葉」は「私の肉体」なのだ。
 その、つながって、まじりあって、全体としての言葉(の肉体)/肉体(としての言葉)が「眠る私を置き去りにする」。「私の肉体」が私を置き去りにする。--こういう感じなら、私(の肉体)は覚えているなあ。「私の肉体」を「私の本能/欲望」を言いなおすと、それがもっとはっきりする。「私の本能/欲望」は「私(の精神/理性)」を置き去りにして、夢のなかで淫乱に動いている。ペニスは勃起し、涎も垂らしている。そのペニスは「肉体」であり、「私」であり、「言葉」だ。そして「本能」であり「欲望」でもある。
 谷川の「言葉」という表現は「ひとつ」だが、「主語」としては微妙に違っていて、その微妙な違いによって「動詞」も違ってくる。違ってくるけれど、その違いがあるから「全体」として「一つ」になる。

 最初から読み直して「言葉」について考えてみる。
 最初の「私が眠っているとき」とは「私に意識がないとき」ということか。「意識がない」といっても完全な無意識ではない。意識が何かを積極的に制御することがない、というくらいの意味になるだろう。そして何を制御できないかといえば、「言葉(無意識の肉体/欲望/本能)」を制御できないのである。
 「私(精神/意識)」が眠っていて(機能していなくて)「言葉(肉体/本能/欲望)」を制御できないとき、「言葉」はうずくまっている。おとなしく、精神にあわせて眠ったふりをしているが、その「ふり」に隠れて動いている。人間が眠っているとき、その「外形」は動かないが「肉体」の内部では心臓が動いている。神経も動いている。同じように「言葉の肉体」も動いている。
 どんなふうに?

言葉はうずくまっている
私のからだのどこかに
そして他の人々の言葉と
つるみ始めている

 このことばの展開はとてもおもしろい。
 「私の言葉(無意識の肉体/欲望/本能)は私のからだのどこかにうずくまっている。ただし、じっとしているのではなく、私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている。」こんなふうに、文法上は(意味上は)、「私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている」ということになるのだろうけれど、私は「言葉」を「無意識の肉体/本能/欲望」と感じはじめているので、「私のからだ(のどこか)が他人の言葉とつるみ始めている」というように感じてしまう。さらに言いなおすと「私のからだ(本能/欲望)が他人のからだ(本能/欲望)とつるみ始めている」というように読んでしまう。
 このとき「他の人々の言葉」はどこにあるのだろう。「他の人々のからだ」のなかにあると考えるのがふつうだが、そうだとすると「他の人々のからだのなかにあ言葉」と「私のからだのなかにうずくまっている言葉」が「つるむ」というのは、少し無理がある? できない?
 「論理的」にはできないのだろうけれど……。
 私は、ふと、こんなことを思う。誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。何も話せない。見た瞬間、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。感じる。他人の肉体の痛みなどわかるはずがないのに、「わかる」。ことばをつかわず、「肉体」がかってに「肉体」と「肉体のことば」を交わしてしまうのだ。自分の肉体のなかにある「痛み」が他人の肉体の動きに誘われて甦ってきて「痛い」というのだ。その声を聞いてしまうのだ。そのとき、その声は自分の声であると同時に他人の声だ。
 そういうことが「現実」におきるならば、「夢の中で」、自分が覚えている「他人の言葉(肉体)」と「自分の言葉(肉体/本能)」が交流する(つるむ)としても別に不自然なことではない。
 一連目の最終行は、そう言っているように見える。
 そう「見える」けれど、谷川は「私に見えない夢の中で」と書いている。
 困ってしまう。「見えない」なら、なぜ、わかる?

 こんなふうにことばを動かしながら、私はさらに困ってしまう。

 「路上で倒れて腹を抱えてうめいている人を見た」ときの例と重なるかもしれないが……。
 「見えない(見ていない)」のに「わかる」ということは、日常ではたくさんある。子どもが隠れてオヤツを食べる。見ていない。けれど、「わかる」。あの人とこの人はセックスをしている。肉体関係がある。「見えない/見ていない(聞いていない)」のに、「わかる」。浮気している。「見えない/見ていない」のに「わかる」。
 それは「意識」が判断するのではなく、むしろ「肉体(からだ/無意識/本能/直観)」が感じ取るのだ。「感じる」を「わかる」と言い換えることがある。特に「からだ」が関係することには「からだ(肉体)」が反応してしまう。
 そういう「肉体」そのものとして、谷川は「言葉」を掴み取っている。「言葉は肉体」なのだ。「言葉の肉体」が、「私が眠っているとき(私が意識で制御できないとき)」にかってに動き回っている。つるみ始めている。快感のために? あるいは、あたらしいことばを生むために?
 どう説明すればいいのかわからないが、「からだ(肉体)」と「言葉」がセックスしている、「谷川の言葉」は「肉体」になってしまって、「他人の言葉」とセックスをする。谷川は「言葉は肉体である」と感じている--そう思ってしまう。

 これは「誤読」なのか、それとも私がいつも感じていることを谷川の詩を利用して、言いなおしているだけなのか。
 見極めるのが、とてもむずかしい。

 もう少し余分なことを書いてみる。
 二連目の、「詩」ということばが出てくる直前の、「言葉はもう眠る私を置き去りにして」。この「置き去りにして」を「離れて」と読み直すと、「もののあわれから遠く離れて」(「いない」)、「詩は体を離れ星々に紛れてゆく」(「詩の妖精1」)と重なり、その「離れた」先に詩があるということとも重なる。
 「言葉の肉体(からだ)」と「言葉の肉体」がセックスをして、人間がセックスをしたとき、その最高潮で「エクスタシー(私から脱出してしまう)」ように、言葉も言葉の肉体とセックスをしたとき、それぞれの言葉の肉体を離れて(同時に谷川の肉体からも離れて)、どこかへ行ってしまう、ということか。
 でも、「星々に紛れる」のではなく、この作品では「愚かな人波に揉まれている」。
 「詩の妖精」と「人間の肉体(からだ)」の違いが、ここに書かれているのか。
 そうだとして、最後の「愚かな」は、どういうことだろう。「意味」はどう読めばいいのだろう。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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