詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

グザビエ・ドラン監督「Mommy マミー」(★★★)

2015-05-17 22:40:59 | 映画
監督 グザビエ・ドラン 出演 アンヌ・ドルバル、スザンヌ・クレマン、アントワン=オリビエ・ピロン

 私は、カメラがあからさま演技をする映画は好きになれない。この映画ではほとんどのシーンが「正方形」のフレームで描かれる。横長のスクリーンを見なれた目にはとても窮屈である。そして、その窮屈がそのまま登場人物の窮屈を代弁している。
 手抜きじゃない?
 シネマスコープサイズであろうと、窮屈を感じさせなければ、それは映画として映像が不完全であるということ。
 最初にスクリーンのサイズが押し広げられるは、少年がスケートボードで走り、それを母親と向かいの家の母の女友達が追いかけるシーン。少年がスクリーンのわきを、ぐいと押し広げる。少年のこころが広がる様子がスクリーンの大きさに反映される。あまりにもばかばかしい。
 次に、少年を入院させるために母親が車を運転するシーン。運転士ながら、母親は少年が行動障害を克服し、大学へ進学し、結婚し……という夢(希望)を思い描く。もし、そうであったなら、彼女のこころはスクリーンのように広いのだ。こころののびやかさがそのままスクリーンに反映されるという点で、最初のシーンと同じ。心象を代弁している。これも、あまりにもばかばかしい。
 どうせなら、最後の最後。少年が脱走を試みるシーンをこそ拡大スクリーンで展開すべきなのだ。そうすれば、最初の少年のこころと、次の母親のこころが、最後にひとつになって「自由」を獲得するという、観客の「夢(希望)」と重なる。母親の「愛情よりも希望を選んだ」ということばも、最後の脱走シーンが正方形のままでは、自己弁護になってしまう。「ことば」にこめた思いを「映像」にして見せないことには「映画」とは言えない。
 「現実」はあまくない、ということなのだろうが、「架空の法案」をつくって「架空」の話にし、冒頭の施設の「水浸しの廊下」で「架空」を強調しているのだから、(それとも、この法案はほんもの? カナダの事情に詳しくないのでわからない)、これでは「映画」にする意味がない。
 「現実」を描くなら、最初からふつうのサイズのスクリーンで、その映像の内部を濃密にしないといけない。母と少年、それから言語障害に苦しむ教師という三人の変化を見せることに徹すればいい。アップの濃密さを正方形に閉じ込める必要はない。三人の力演が、正方形の画面と、それを一瞬だけ拡大して見せるという小賢しい技法のために死んでしまった。
 文句ばかり書きながら★3個なのは、主役三人の演技がすばらしかったから。少年がカラオケ歌うシーンなど、周囲の情報をしっかりとりこんでいて(情報量が多いのに、すべて有機的に表現されていて)、とてもすばらしい。これがふつうのスクリーンで展開されていたのなら★5個を超える大傑作。
                      (2015年05月16日、KBCシネマ2)






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谷川俊太郎『詩に就いて』(18)

2015-05-17 14:33:30 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(18)(思潮社、2015年04月30日発行)


いない

私はもういないだろう
その岬に
この部屋にも
けれど残っているだろう
着古した肌着は
本棚にカーマスートラは

私はもういない
この詩稿に
どんな地図にも
夜の不安を忘れ
もののあわれから遠く離れて
空の椅子に座っている

 死後のことを書いている。想像しているのか。
 一連目の「だろう」の繰り返しは推定である。
 「その岬」とどこの岬か。わからない。わからないけれど、広い海と、広い空を想像する。明るい光も。谷川の、思い出の岬か。理想の岬か。
 「この部屋」もわからないけれど、谷川が詩を書いている部屋を想像する。
 空想から「現実」にもどってきて、「いない」と「対」になっている「残っている(ある)」を推定している。「着古した肌着」の「肌着」の「現実感」が「岬」の「空想」と「対」なっている。書いてはいないのだが、「肌着」から谷川の「体温」がそこに残っていると想像してしまう。「体温」は「肉体」。だから、そのあとの「カーマスートラ」がとてもスムーズに浮かんでくる。「残っている(ある)」がよくわかる。
 二連目には「だろう」がない。「だろう」は一行目、私はもういない「だろう」、最終行、空の椅子に座っている「だろう」と補うことができる。でも、そうしないで、谷川は「断定」している。
 「推定」(想像)と「断定」(現実)はどう違うのだろう。
 「推定」を繰り返すと「確定」になる。ひとは何度も考える。同じことを考える。同じことを考えると、その同じことがだんだん整理されてきて、自分にとっての「確かな」ものになる。実感として「確定」。「実感」の「実」は「現実」の「実」である。
 二連目は、したがって、谷川が何度も何度も繰り返し考えた結果、たどりついた「実感」なのである。「実感」だから「断定」している。
 死んでしまえば、いま書いている「この詩稿」、つまり、ことばのなかにも私(谷川)は「いない」。「地図」や「不安」は「現実」のもの。「もののあわれ」も「現実」というものがあってはじめて成り立つ。「現実」には、「もういない」。そう「断定」している。
 この「いない」が、最終行で「座っている」と「いる」という動詞に変わっている。
 これは矛盾?
 どうして矛盾したのかな?
 「空の椅子」を「そらの椅子」と読むと、なんだか、天上の「神」になって座っている。「神」になった谷川を想像してしまうが、これは、違うなあ。死んだら「現実」にはいないが「神」になって空にいるというのでは、なんとなく傲慢。あきれてしまう。
 「いない」から「いる」に、どうして変わったのか、それをもう一度見てみる。
 「いない」を谷川は言いなおしていないだろうか。

もののあわれから遠く離れて

 「遠く離れて」が「いない」なのだ。「離れる」が「いない」なのである。「ここ」から「離れる」。それは「移動」であって、存在そのものがなくなるわけではない。
 どんなに「ここ」から離れても、人間は自分から離れることはできない。
 この詩でも、「私はいない」と考える私が「いる」。「ない」を思考する私が「いる」。
 ここから、さらに「ない」を考える思考が「ある」、という具合にことばを動かしていくとどうなるだろうか。谷川の詩から離れることになるかもしれないが、少し考える。「ない」を考える。そうすると「ない」が考えのなかに存在する(ある)。考えというのは、ことばで残すことができる。「考え」という「名詞」ではなく、「考える」という「動詞」もの、そのことばのなかに残すことができる。それは、いつもことばがあるかぎり「ある」。
 この、ことば、とは何か。
 いや、問いの立て方が間違っていたかな?
 「空の椅子」とは何か。私は見たことがない。
 「そらの椅子」なのか「くうの椅子」なのか。それもわからない。
 わかるのは、谷川が、ここに「空の椅子」と書いた「ことば」が「ある」ということだけである。
 それなら「空の椅子」を「ことば」と読み替えてみればいいのではないだろうか。
 「空の椅子」が「ことば」なら、それは「詩」ではないのか。なぜ、谷川は「詩」に座っている、と書かなかったのか。「私はもういない/この詩稿に」と書いたことと矛盾するから?
 私は、その矛盾を超えるために、こんなふうに考える。
 「この詩稿」は、あくまで「この」という限定された詩、ことば。
 けれど「空の椅子」という「ことば」は「限定」を受けない「ことばそのもののエネルギー/あるいは運動としての動詞」。限定された「ことば」になるのまえの「未生のことば」のようなものなのだ。そこから何にでも変化してゆける「ことばの力」。
 そういうものになっている。
 何度も何度も詩を書いてきた。繰り返すと、それはだんだん「空想」ではなく「現実」(確信)になる。それと同じように、何度も何度も繰り返し書いているうちに、ことばはだんだんことばは「本質」になっていく。「ことば=もの」という「対」ではなく、「ことば=運動(考える/感じる)」と「対」になって、エネルギーそのものになる。
 そうなれば、私(谷川)は「いない」でちっともかまわない。
 谷川がいなくても、「ことばの力」が「人間」を育てていく。ととのえていく。そういう「ことば」さえ「あれば」、それでいい。

空の椅子に座っている

 この「座っている」の「主語」は「私(谷川)」でもなければ、「谷川の書いた詩」でもない。「ことば」そのものなのだ。
 「ことば」そのものが「ことば」に座って「いる」。「ことば」そのものが「ことば」のなかに「いる」。「ことば」そのものが「ことば」に「なる」。そして「ことば」として「ある」。
 禅問答みたいな、同義反復のような。

 この作品は「詩に就いて」というよりも「ことばについて」書かれている。「ことば」という表現は出て来ないのだけれど。
 「ことば」ということばが出て来ないのは、私の考えでは、「ことば」こそが谷川のキーワードであり、谷川は人間と「ことば」の関係についていつも考えつづけているために、ついつい「ことば」と書くのを忘れてしまうのだ。省略してしまうのだ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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