詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(36)

2015-06-04 09:22:00 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(36)(思潮社、2015年04月30日発行)



おやおや

一日外で働いて帰ってきたら
詩がすっかり切れていた
ガソリンではないのだから
すぐ満タンという訳にはいかない
落ち着いて待っていれば
そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが
気がついて見ると私は詩が切れていても平気なのだった
おやおやと思った

 二行目「詩がすっかり切れていた」というときの「詩」とは何だろう。「詩情」か。その「情」が切れるとは、自分のなかで詩を感じるこころがなくなるということ、詩を感じなくなっているということか。詩を感じるこころがなくなると、詩がなくなる。
 もし「詩(作品)」がそこにあったとしても、それを読んでこころが動かない、反応しないということがあれば、それはやはり「詩が切れている」という状態なのだと思う。
 そうだとすると「詩」の存在は客観的なものではなく、詩を感じるこころがあるかないかにかかわってくる。
 「三つ目の章」にはひとと詩の関係が書かれている、と私は何回か書いた。「小景」「二人」「同人」などの作品では、女が「詩を感じる対象(ことば)」と男(谷川?)が「詩を感じることば/自分が詩だと思って書いたことば」のあいだに「ずれ」があった。それがたとえ詩であると認めることができたとしても、女はそれとは違う詩を欲していた、という状況が書かれていた。詩は、それを詩と感じるこころがあって、はじめて詩になるということは、そこでも語られていたことになる。
 詩と人間との関係を、谷川はそんなふうに「定義」して、それをさらに自分に当てはめている。他人ではなく、谷川自身と詩の関係を語っている。
 「詩が切れたとき」(詩を感じなくなったとき)、どうするか。何をするのか。谷川は積極的には何もしない。「待つ」ということをする。

落ち着いて待っていれば
そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが

 この「待っている」は「放課後」の「窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている」とおなじである。「詩」というよりも「言葉」を待っている。
 「言葉」を待っているといっても、ことばはいつでもどこにでもある。ことばそのものを待っているのではなく、ことばとこころが一緒になって動くのを待っているということになる。だからほんとうに「言葉」を待っているのか、こころが動くのを待っているのか、区別は難しい。考えても、わからない。
                      
 このあとのことばの展開が非常におもしろい。谷川は「待つ」ということをする、と私は書いたが、それだけではない。何もせずに待っている訳ではない。

そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが
気がついて見ると私は詩が切れていても平気なのだった
おやおやと思った

 「考えた」「思った」。二つの動詞が出てくる。「考える」と「思う」の違いはどこにあるか。
 「考える」とは自分でことばを動かすことだ。「待っていれば/そのうちまたどうにかなるだろう」とことばを動かす。これが「考える」。そして、ことばを動かすと、そのことばに刺戟されて別のことばが動きはじめる。「気がついてみると」とは、「考える」ことばに刺戟されて目覚めたことばが動き出し、「私は詩が切れていても平気なのだった」ということばになったということ。そこには何らかの「結論」のようなものがある。
 そういう「結論」の前に書かれている、「詩がすっかり切れていた」や「ガソリンではないのだから/すぐ満タンという訳にはいかない」というのも「考え」なのだ。つまり、「ガソリンではないのだから/すぐ満タンという訳にはいかない(と考えた)」と「考えた」という動詞が省略されていることになる。「論理」が動く。
 それにつづく「落ち着いて待っていれば/そのうちまたどうにかなるだろう」は「と考えた」ということばと一緒にあり、まさに「考え」そのものである。そして、それは「論理」である。
 だから、それは「詩」ではない。ここまでの行の展開に詩はない。「詩」は「論理」を超えるものだから、と唐突に書いてみる。
 では、詩は? 詩はどこにあるのか。
 もうひとつの「動詞」、「思う」とともにある。

おやおやと思った

 この「おやおや」とは何か。「おやおや」あるいは「おや」ということばは誰もが言う。あるいは、漏らすというべきか。これを「意味」として説明するのは難しい。「おやおや」を自分のことばで言い直すとどうなるか、と考えると、「肉体」がいらいらする。「肉体」ではわかりきっているので、ことばにならない(ことばにできない)ということが起きてしまう。
 広辞苑に頼ってみると「おやおや」は「おや」強めていう語。「おや」は「意外な事に出会った時などに発する語」と説明している。
 「意味」など、ない。ただの「声」である。「無意味」である。「無意味」だから、説明できない。
 言い直すと「考える」が中断してしまう瞬間が「思う」なのだ。「考え」は中断するが人間は生きているから「肉体」のなかの何かが反応して動いてしまう。「ことば」になるまえに、何かが動く。「肉体」のどこかで「未生のことば」が動いているのかもしれない。これが「思う」のはじまり。
 広辞苑の説明に、「意外な事」という表現があった。この「意外な事」は、谷川の今回の詩集では「思いがけない」という表現で何度か書かれている(「坦々麺」「あなたへ」「脱ぐ」が思い浮かぶが……)。谷川の書いている「思いがけない」が「意外」と言い換えられるとは限らないが、似通った意味あいを持っている。
 「考える」は「頭で考える」、「思う」は「こころで思う」。「頭」はあくまで「論理的」にことばを動かし、整理するが、「こころ」は論理以前、整理以前の、あいまいな領域をうろついて、それそこ「おやおや」のように、「声」を発するだけのこともある。「思いがけない」から、それにふさわしいことばが見つからない。「肉体」のなかでうごめく衝動に突き動かされて、ことばがことばにならずに「声」として出てしまう。未整理の、未生の本能。

 この詩は何も書いていないような印象を与えるけれど、そんなふうにして読むと、谷川が詩の本質を「思う」という動詞のなかにこめていることがわかる。ことばにならない「声」、衝動のように発せられた「声」のなかに、「未生のことば」の萌芽がある。「本質」がある。
 「論理」がふっと途切れて、その瞬間、それまで追いつづけてきた「論理」とは違うところから、「声」がふっと漏れる。その瞬間が詩。
 ここから、この詩を読み直すと、また気づくことがある。

一日外で働いて帰ってきたら
詩がすっかり切れていた

 この書き出しには「と思った(と思う)」ということばが省略されている。「詩がすっかり切れていた」と思ったのである。「働く」というのは「他人の論理」に自分をあわせて動かすということである。「論理」なのかを動いていると「詩」はなくなる。「論理」から離れたときに、それに気づき「詩がすっかり切れていた」と思った。「考える」前に、それが「実感」として「肉体」からあふれてきた。
 「思った」からはじまり「思った」で終わる。途中で「論理(考え)」が動くが、その「論理」を作品が終わる寸前で叩き壊して「思う」に還る。これは谷川の詩の「構造」に共通していることかもしれない。
 少しだけ詩集を振り返ってみる。
 巻頭の「台が要る」。

机が要る

 と書き出されている。その行には「と思った」を補うこともできるし、「と考えた」を補うこともできる。
 それからつづく行も「と思った」「と考えた」の両方をあてはめることができるが、「紙を載せるためのもの」の「……ための」というような表現を手がかりにするなら「考えた」の方がふさわしいだろう。「論理」が動いているのだから。
 けれど、詩の最後。

もしかすると空のテーブルには
始めから載っているのかもしれない
詩が
無文字の詩が
のほほんと

 ここには「考えた」よりも「思った」がふさわしい。「もしかすると」「かもしれない」というのは「論理」としてあいまいである。「論理」としては不完全である。けれど「思う」は不完全を苦にしない。むしろ「思いがけない」ことを思うのが「思う」の仕事である。
 最終行の「のほほんと」の「のほほん」も論理的に説明しようとすると、うまくできない。「のほほん」ということは、もう「肉体」でおぼえてしまっている感覚であり、それを別なことばで説明すると嘘になってしまう。
 「思う」は「思いがけない」ことを「思う」のだが、それはいつでも「ほんとう」を思うのであって、嘘を思わない。嘘は「考える」ものである。

 これは、しかし、これ以上は書かない。
 「論理」というのは、自分の都合のいいように、そこにあることを「整理」して動かしてしまうものだから、書こうとすればどこまでも「論理」にあわせて嘘をでっちあげることが可能だからである。
 私は、最後の詩を読み、谷川の詩はいつでも「思う」からはじまり、そのつづきを論理的に「考える」という形でことばを展開し、最後に「論理」を突き破って、「思う」にかえる詩の「定型」が多いと思った/考えた、のである。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(78)

2015-06-04 09:18:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(78)

125 公園

わたしの内部をすぎる闇いもののために
葡萄の一房は夕日をあつめているのかもしれない

 美しい書き出しだ。「闇いもの」と「夕日」が向き合って、葡萄の房の光を鮮烈にする。「すぎる」と「あつめる」という反対の動きをする動詞の「対」が、その鮮烈さをさらに強調している。
 この二行は、後半で別の「対」を浮かび上がらせる。

石だたみの白い広場で一日が終わる
そしてわたしはその静かな中心に立つている

 一日が終わる。闇がやってくる。その闇とは反対の「白い」広場。「広場」の広がりは「あつめる」(あつまる)ための広がりである。それは街の真ん中「内部」にある。あつまってきたひとが、ふたたび家に帰り、「内部」が漠然と広がる。その漠然とした広がりと「中心」に「立つ」私が「対」になる。ひとが家へ帰っていくという動詞は、中心の広場から周辺の家へ広がる(散らばる)という動きであり、それは「中心に立つ」(中心にとどまる)「わたし」の動きと「対」になることで、鮮烈になる。
 この集中と拡散という動きのあいだに、

ただその周囲をむなしくさまよいながら
やがてわたしの存在が固まるのを待つほかない

 という抽象的な姿の「わたし」が描かれる。「さまよう」は明確な方向をもたない。「固まるのを待つ」も明確な「核」をもたない。ともにぼんやりした動きである。「わたし」は自分では動いて行けない。「立つ」「待つ」という「静止」の状態にある。ただし、その「静止」は完全な静止ではなく、こころが「さまよう」という動きをともなっている。「静止」は「停滞」と言い換えた方がいい。
 そういう状態でも、しかし「中心」ということばが動く。
 これは青春の精神の特権である。「むなしさ」のなかにも「中心」がある。「わたし」を「中心」と考えることができる。






嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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