詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィレンツェとローマの旅(2)

2015-06-28 23:48:23 | その他(音楽、小説etc)
フィレンツェとローマの旅(2)

 ローマではシスティナ礼拝堂とボルゲーゼ美術館を訪ねるのが目的だった。20年前は修復中で「最後の審判」は見ることができなかった。
 システィナの絵については和辻がたくさん描いてあるのにごちゃごちゃした感じがしない。ローマの分割統治の感覚が生きているのだろう、というようなことを書いているが、その和辻のことばをそのまま実感した。「最後の審判」自体いくつかの群像に分かれている。群像と群像のあいだに青い空がある。それがごちゃごちゃした感じを消している。
 群像の重なり具合も、重なりながらも随所で何人かが浮き出ている。その浮き出ている人間が、その群像を統治している(代表している)感じがする。ただ群像が動いているというよりも、中心人物が群像の感情を濃密に凝縮して動いている。群像がひとりの人間の肉体全体だと仮定すると、浮き出ている人間は「顔」である。「顔」は「顔」だけでも表情があるが、背後に無意識に動く手足や胴といった肉体があるからこそ、表情が生きる。そういう緊密さで群像が統一されている。
 周辺の絵もそれぞれが礼拝堂の骨格がつくる区画のなかで完了している。区画の一つ一つが、その絵の登場人物によってしっかりと統治されている。天上の真ん中に、アダムの指に神が指で触れようとする、あの絵がある。その絵を見るとき、その絵のなかにしっかりと視線が閉じ込められる。周囲の絵が気にならない。これは不思議な体験だった。
 絵と絵を区切るアーチの骨格に絡み付くように描かれた絵も、それ自体として完了している。その場を離れない。これが「分割統治」と和辻が呼んだものか、とあらためて思った。
 これは写真や図録では、やはりわからない。礼拝堂のなかにはいり、回り全体を見まわし、それから「最後の審判」に向き合うとき、ひしひしと感じるものである。「最後の審判」を見ているときは、天上のアダムや周辺のいくつもの絵は見えない。見えないけれど、肉体がそれをおぼえていて、見えないのにその存在を感じる。そして、それがただ雑然と存在するというのではなく、区画後とに完了しながら整然と存在している。その整然は「孤立」ともまた違い、どこかでつながっている。その強い力を感じる。
 一連のフレスコ画をミケランジェロは13年かけて完成させたというのだが、あまりの濃密さに、よく13年間で完成させることができたものだと感動する。

 
 ブルゲーゼ美術館にはベルニーニの彫刻がある。「プロセルピナの略奪」はなんとしても見たいと思っていた。男が女を略奪し、連れ去ろうとする。女が抵抗する。そのときの葛藤が、女の肌に男の指が食い込む形で表現されている。大理石なのに、女の肌(肉体)のやわらかさがくっきりと表現されている。
 しかし、その印象は写真で見て感じていたものであって、実際に見てみると印象が違った。たしかに女の肉体のやわらかさはわかる。だが、奇妙だ。逃れようとするときの肉体の力が伝わってこない。男の手が女の肉体を引き寄せるのを受けいれている、という感じがする。なんとしてもそこから逃れようとする力、男からだけでなく、男にとらえられている女自身の肉体からも逃げようとする女の「真剣さ」(内部の感情/意思)を感じることができない。
 あまりにも滑らかすぎる。形は正確だが、感情は正確に表現されていない、と思ってしまう。技巧的すぎる、と思う。
 ここでまた思い出してしまうのが和辻のことばである。和辻はギリシャ彫刻を批評して、人間の内部の力をあらわしている、と書いている。肉体の内部からあふれてくる力のことである。「プロセルピナの略奪」にもどって言えば、そこには女の、略奪から逃れようとする力が欠けている。和辻のことばの正確さ、感覚の正直さを、あらためて思う。
 前回書き忘れたが、アカデミア美術館の「ダビデ像」。あの巨大な青年像は、写真で見るときよりも私には痩せて見えた。しかし、それは内部の力が外形を引き締めているというよりも、内部の力が外部に動き出していないからだと思う。皮膚を突き破って動いてくるものがない。

 ボルゲーゼにはラファエロやボッティチェリなどの有名な絵画も多いが、私はどうも嗜好が「ルネッサンス絵画」向きではない。見ていて、わくわくしない。色も形も、私の好みにあわない。短時間で多くの作品を見すぎたために感覚が麻痺しているのかもしれないが。
 ルネッサンスは「肉体の再発見」とも言われるが、私には、ルネッサンスの肉体は外形的には肉体だが、どうもピンとこない。肉体を刺戟してこない。これはある程度予測していたことではあったのだが、それを実感できたのはよかったと思う。好きではないものがある、と肉体でわかることは大切だ。私は美術評論家ではないから、自分の好き嫌いしか言わない。
 また、今回の旅の目的は美術作品に触れることよりも、和辻のことばを本の外へひっぱり出して味わってみることにあったのだから、和辻の指摘の正確さを実感できたのはとてもよかった。和辻がイタリアを訪問したのは90年前である。その時代に、自分の肉眼でことばを動かして対象に迫るその力にあらためて感動した。自分の肉眼を動かすことだけが重要なのだ。写真で想像していたものを実際の作品を見て、眼の記憶を修正する。「肉体」そのものを修正する。それは、やはり楽しい。記憶と肉体を、ことばでととのえなおす。これほど楽しいことはない。
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斉藤倫「カラダはそれを理解できない」

2015-06-28 09:42:21 | 詩(雑誌・同人誌)
斉藤倫「カラダはそれを理解できない」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 斉藤倫「カラダはそれを理解できない」は、途中までがとてもおもしろい。

心臓はいった
だれかのために働いている
それがだれかわからなくても
肝臓はいった
いざというとき勇気を出すこと
それがわたしの責任さ

 この書き出しは「内臓」の一般的に語られるありかたのように思える。
 「内臓」と「肉体」との関係。心臓は勝手に動いている。いや、意思では動かせない筋肉で動いていて、肉体を支えている。心臓のために働いているのではなく、ほかの内臓のために、あるいは肉体全体のために働いている、というようなことを思う。
 肝臓は、また異物が体内に入ってきたときそれを分解する。「いざというとき」がんばる。そんなことを思ったりする。

唇はいった
黙っているときに
わたしは現れる

 あ、これは美しいなあ。それまで「抽象的」だったものが、ここで突然「視覚的(感覚的)」になる。「意識」を通さないいと見えなかったものが、ここでは「意識」を突き破って、「肉体」に直接響いてくる。
 で、そのあとが傑作。

ふくらはぎはいった
ときどき蚊に刺されると
すねのほうにいってくれっておもうよ
足の裏はいった
雨の日に厚い靴の底で
タバコの吸い殻をふむと
すごくむにゅっとする

 笑ってしまう。肉体が動いて、現実とぶつかっている。心臓や肝臓がいっていることも現実には違いなのだろうけれど、どこか「頭」で理解していることであって、「ふーん」という感じがする。
 しかしふくらはぎと足の裏の言っていることは「頭」を経由しないで共感できる。「わかる、わかる」という感じ。
 ふくらはぎじゃなくてすねが蚊に刺されたら刺されたで、すねはふくらはぎの方を刺してくれよと思うかもしれないけれど、この「いいかげんさ」が肉体にぴったりだなあ。自己中心的。自己中心的といいながら、肉体には変なところがある。自分の肉体なのに、自分ではどうすることもできない。どうすることもできないけれど、どうしなくても、生きてしまっている。そういう「手触り」のようなものが、「あっちを刺せよ」という身勝手(?)な意識の噴出から、直接、つたわってくる。
 タバコの吸い殻を踏んだときの「すごくむにゅっとするな」の「むにゅっとする」となまなましいなあ。「むにゅっ」は何と言い換えていいのかわからない。「そうか、あれは『むにゅっ』なのか」と思い出すのである。「むにゅっ」が私の肉体のなかから、斉藤のことばにひっぱり出されて、もう一度肉体そのものになる感じ。
 そういえば、ふくらはぎが蚊に刺されてすねのほうを刺せよと思うときの感じも、私の肉体のなかにある何かがひっぱり出されているなあ。蚊に刺された記憶。ここじゃなくて、あっち、というより、自分じゃなくて隣のひとを刺せよと思ったときのこととか。
 ことばは、こんなふうに、肉体がおぼえていることをひっぱり出して、肉体そのものを新しくするとき、詩として感じられるものなのだろう。
 知っている、おぼえている。けれど自分ではことばにできなかった。それが他人のことば(斉藤のことば)に導かれて、知っていると思っていたこと、おぼえていたことが、実感できる。この実感は共感でもある。斉藤は斉藤の肉体のことを書いているのに、読んだ瞬間、それが斉藤の肉体の体験であることを忘れてしまって、まるで自分の体験として思い出してしまう。これが共感。
 私はこの共感をセックスとも呼ぶのだけれど。
 共感のなかで、自分の肉体と他人の肉体(斉藤の肉体)の区別がなくなり、自分自身の外へ出てしまう。エクスタシー。自分の肉体がおぼえていること(自分の肉体のなかにあること)を思い出すのに、その思い出したもの(肉体のなかにあるもの)は、自分を突き破って、新しく生まれた私となる。

 でも、私は、ここまでしか「共感」できない。
 詩はこのあと

カラダは自殺を理解できない

 という行を境にして、違ったものになってしまう。タイトルの「それ」は「自殺」と言い直され、理屈ぽくなる。
 きっと「理解」ということばも影響しているだろうなあ。
 「理解」というのは「頭」でするもの。「肉体(斉藤はカラダと書いているのだが……)」は「理解」なんかしない。「肉体」は「理解できない(わからない)」ままでもかまわないものなのだ。斉藤の書いている「心臓」は三行目で「わからなくても」ということばをつかっているが、「わからなくても」かまわない。そこに存在していることがすべてなのだから「理解する」必要はない。「頭」なんかの言い分は関係がない。
 「肉体」はただ「共感」するのものなのだと思う。

 こんな勝手な感想では、斉藤の詩を読んだことにならないのだろうけれど、私は斉藤を「理解」したいわけではない。「理解」なんかしたくない。「理解」したら、めんどうくさくなる。勝手に、ここが好き、ここがおもしろい。あとはわからない、という具合にすませてしまうのである。
さよなら、柩
斉藤 倫
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*

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嵯峨信之を読む(102)

2015-06-28 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(102)

153 蛆虫の唄

俺は大笊の中いつぱい蛆虫を飼いながら
そのしずかな唄に聞き惚れる
湯沸しから湯がもれるような
あるいは木の葉に蛾が卵を産みつけるようなあのふしぎな唄を聞く
この直情の唄だけが俺を少しも欺かない

 強烈な響きの詩である。蛆虫とこころを通わせている。「直情」を感じ取り、それを信頼している。
 この「直情」ということばにたどりつくまでに、嵯峨は「その」「あの」「この」ということばをつかっている。指示詞。その繰り返しは、嵯峨が、ながいあいだ蛆虫について考えていたことを感じさせる。ながいあいだ親しみ、ことばを動かしながら「直情」という表現にたどりついたのである。
 時間をかけず、インスピレーションのままにつかみとったことばも強いが、こんなふうに少しずつ何かを確かめるように動きながら手に入れたことばも強い。

俺はそつと笊の中へ手を入れる
すると蛆虫は手首から腕へ
腕から脇の下へ 脇の下から頸へぞろぞろと這い上つてくる
俺はその蠕動のやわらかなひろがりに全身を快く委ねる
俺は陶酔し 恍惚となり 深い深い眠りにはいつてしまう

 これは異様な光景だが、先に見た「その」「あの」「この」の繰り返しが、ここでは「手首から腕へ/腕から脇の下へ 脇の下から頸へ」という尻取りのようなことばの動き、前のことばを引き継ぎ、もう一度繰り返すという形であらわれている。それはさらに「快く」「陶酔」「恍惚」という変化にもみられる。意識を飛躍させるのではなく、先に書いたことばを引き継ぎ、連続させる。その「連続」の最後に「深い深い眠り」がやってくる。「深い深い」も単なる「深い」反復ではなく、ことばを引き継ぎ別な世界へ入っていくための「論理」である。動き方、運動の仕方である。
 だから「深い深い眠りにはいつてしまう」と書いても、それで終わりではない。最初の「深い」と二度目の「深い」では内容が違っている。そこからさらに状況は変わる。「恍惚」とは違った場面へと詩は動いていく。

しかし 俺はとつぜんその蠢く厚手のバスマットに強く緊めつけられて 愕然とする
俺は慌てて全身の力で蛆虫を振い落とそうとするが その時はもう遅い
このどこまでも吸いつく柔軟なバスマットの海老固めはますます烈しさを加える
俺はとどのつまりその場に昏倒して 息絶えてしまう

 これは「激変」というものだが、その激変はなぜかゆっくりしている。前半の、ひきずるようなことばの動きがそのままことばのなかを動いているからである。「烈しさ」ということばが出でくるが、「烈しさ」ということばがないと「烈しさ」を表現できないような、ゆっくりとした変化。ゆっくりしているが、けっして変更できない(引き返せない)強い変化である。
 その「意味」よりも、そういう動きに至ることばの連続感が詩そのものである。
 よく見ると、最初につかわれていた指示詞が復活してきている。「その」蠕動、「その」蠢く、「その」時、「この」どこまでも、という具合に。「昏倒」「息絶える」という意味の繰り返しもある。
 「蛆虫」は繰り返し繰り返し、人間にまとわりついてきて何かを連想させるものである。

嵯峨信之全詩集
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