フィレンツェとローマの旅(2)
ローマではシスティナ礼拝堂とボルゲーゼ美術館を訪ねるのが目的だった。20年前は修復中で「最後の審判」は見ることができなかった。
システィナの絵については和辻がたくさん描いてあるのにごちゃごちゃした感じがしない。ローマの分割統治の感覚が生きているのだろう、というようなことを書いているが、その和辻のことばをそのまま実感した。「最後の審判」自体いくつかの群像に分かれている。群像と群像のあいだに青い空がある。それがごちゃごちゃした感じを消している。
群像の重なり具合も、重なりながらも随所で何人かが浮き出ている。その浮き出ている人間が、その群像を統治している(代表している)感じがする。ただ群像が動いているというよりも、中心人物が群像の感情を濃密に凝縮して動いている。群像がひとりの人間の肉体全体だと仮定すると、浮き出ている人間は「顔」である。「顔」は「顔」だけでも表情があるが、背後に無意識に動く手足や胴といった肉体があるからこそ、表情が生きる。そういう緊密さで群像が統一されている。
周辺の絵もそれぞれが礼拝堂の骨格がつくる区画のなかで完了している。区画の一つ一つが、その絵の登場人物によってしっかりと統治されている。天上の真ん中に、アダムの指に神が指で触れようとする、あの絵がある。その絵を見るとき、その絵のなかにしっかりと視線が閉じ込められる。周囲の絵が気にならない。これは不思議な体験だった。
絵と絵を区切るアーチの骨格に絡み付くように描かれた絵も、それ自体として完了している。その場を離れない。これが「分割統治」と和辻が呼んだものか、とあらためて思った。
これは写真や図録では、やはりわからない。礼拝堂のなかにはいり、回り全体を見まわし、それから「最後の審判」に向き合うとき、ひしひしと感じるものである。「最後の審判」を見ているときは、天上のアダムや周辺のいくつもの絵は見えない。見えないけれど、肉体がそれをおぼえていて、見えないのにその存在を感じる。そして、それがただ雑然と存在するというのではなく、区画後とに完了しながら整然と存在している。その整然は「孤立」ともまた違い、どこかでつながっている。その強い力を感じる。
一連のフレスコ画をミケランジェロは13年かけて完成させたというのだが、あまりの濃密さに、よく13年間で完成させることができたものだと感動する。
ブルゲーゼ美術館にはベルニーニの彫刻がある。「プロセルピナの略奪」はなんとしても見たいと思っていた。男が女を略奪し、連れ去ろうとする。女が抵抗する。そのときの葛藤が、女の肌に男の指が食い込む形で表現されている。大理石なのに、女の肌(肉体)のやわらかさがくっきりと表現されている。
しかし、その印象は写真で見て感じていたものであって、実際に見てみると印象が違った。たしかに女の肉体のやわらかさはわかる。だが、奇妙だ。逃れようとするときの肉体の力が伝わってこない。男の手が女の肉体を引き寄せるのを受けいれている、という感じがする。なんとしてもそこから逃れようとする力、男からだけでなく、男にとらえられている女自身の肉体からも逃げようとする女の「真剣さ」(内部の感情/意思)を感じることができない。
あまりにも滑らかすぎる。形は正確だが、感情は正確に表現されていない、と思ってしまう。技巧的すぎる、と思う。
ここでまた思い出してしまうのが和辻のことばである。和辻はギリシャ彫刻を批評して、人間の内部の力をあらわしている、と書いている。肉体の内部からあふれてくる力のことである。「プロセルピナの略奪」にもどって言えば、そこには女の、略奪から逃れようとする力が欠けている。和辻のことばの正確さ、感覚の正直さを、あらためて思う。
前回書き忘れたが、アカデミア美術館の「ダビデ像」。あの巨大な青年像は、写真で見るときよりも私には痩せて見えた。しかし、それは内部の力が外形を引き締めているというよりも、内部の力が外部に動き出していないからだと思う。皮膚を突き破って動いてくるものがない。
ボルゲーゼにはラファエロやボッティチェリなどの有名な絵画も多いが、私はどうも嗜好が「ルネッサンス絵画」向きではない。見ていて、わくわくしない。色も形も、私の好みにあわない。短時間で多くの作品を見すぎたために感覚が麻痺しているのかもしれないが。
ルネッサンスは「肉体の再発見」とも言われるが、私には、ルネッサンスの肉体は外形的には肉体だが、どうもピンとこない。肉体を刺戟してこない。これはある程度予測していたことではあったのだが、それを実感できたのはよかったと思う。好きではないものがある、と肉体でわかることは大切だ。私は美術評論家ではないから、自分の好き嫌いしか言わない。
また、今回の旅の目的は美術作品に触れることよりも、和辻のことばを本の外へひっぱり出して味わってみることにあったのだから、和辻の指摘の正確さを実感できたのはとてもよかった。和辻がイタリアを訪問したのは90年前である。その時代に、自分の肉眼でことばを動かして対象に迫るその力にあらためて感動した。自分の肉眼を動かすことだけが重要なのだ。写真で想像していたものを実際の作品を見て、眼の記憶を修正する。「肉体」そのものを修正する。それは、やはり楽しい。記憶と肉体を、ことばでととのえなおす。これほど楽しいことはない。
ローマではシスティナ礼拝堂とボルゲーゼ美術館を訪ねるのが目的だった。20年前は修復中で「最後の審判」は見ることができなかった。
システィナの絵については和辻がたくさん描いてあるのにごちゃごちゃした感じがしない。ローマの分割統治の感覚が生きているのだろう、というようなことを書いているが、その和辻のことばをそのまま実感した。「最後の審判」自体いくつかの群像に分かれている。群像と群像のあいだに青い空がある。それがごちゃごちゃした感じを消している。
群像の重なり具合も、重なりながらも随所で何人かが浮き出ている。その浮き出ている人間が、その群像を統治している(代表している)感じがする。ただ群像が動いているというよりも、中心人物が群像の感情を濃密に凝縮して動いている。群像がひとりの人間の肉体全体だと仮定すると、浮き出ている人間は「顔」である。「顔」は「顔」だけでも表情があるが、背後に無意識に動く手足や胴といった肉体があるからこそ、表情が生きる。そういう緊密さで群像が統一されている。
周辺の絵もそれぞれが礼拝堂の骨格がつくる区画のなかで完了している。区画の一つ一つが、その絵の登場人物によってしっかりと統治されている。天上の真ん中に、アダムの指に神が指で触れようとする、あの絵がある。その絵を見るとき、その絵のなかにしっかりと視線が閉じ込められる。周囲の絵が気にならない。これは不思議な体験だった。
絵と絵を区切るアーチの骨格に絡み付くように描かれた絵も、それ自体として完了している。その場を離れない。これが「分割統治」と和辻が呼んだものか、とあらためて思った。
これは写真や図録では、やはりわからない。礼拝堂のなかにはいり、回り全体を見まわし、それから「最後の審判」に向き合うとき、ひしひしと感じるものである。「最後の審判」を見ているときは、天上のアダムや周辺のいくつもの絵は見えない。見えないけれど、肉体がそれをおぼえていて、見えないのにその存在を感じる。そして、それがただ雑然と存在するというのではなく、区画後とに完了しながら整然と存在している。その整然は「孤立」ともまた違い、どこかでつながっている。その強い力を感じる。
一連のフレスコ画をミケランジェロは13年かけて完成させたというのだが、あまりの濃密さに、よく13年間で完成させることができたものだと感動する。
ブルゲーゼ美術館にはベルニーニの彫刻がある。「プロセルピナの略奪」はなんとしても見たいと思っていた。男が女を略奪し、連れ去ろうとする。女が抵抗する。そのときの葛藤が、女の肌に男の指が食い込む形で表現されている。大理石なのに、女の肌(肉体)のやわらかさがくっきりと表現されている。
しかし、その印象は写真で見て感じていたものであって、実際に見てみると印象が違った。たしかに女の肉体のやわらかさはわかる。だが、奇妙だ。逃れようとするときの肉体の力が伝わってこない。男の手が女の肉体を引き寄せるのを受けいれている、という感じがする。なんとしてもそこから逃れようとする力、男からだけでなく、男にとらえられている女自身の肉体からも逃げようとする女の「真剣さ」(内部の感情/意思)を感じることができない。
あまりにも滑らかすぎる。形は正確だが、感情は正確に表現されていない、と思ってしまう。技巧的すぎる、と思う。
ここでまた思い出してしまうのが和辻のことばである。和辻はギリシャ彫刻を批評して、人間の内部の力をあらわしている、と書いている。肉体の内部からあふれてくる力のことである。「プロセルピナの略奪」にもどって言えば、そこには女の、略奪から逃れようとする力が欠けている。和辻のことばの正確さ、感覚の正直さを、あらためて思う。
前回書き忘れたが、アカデミア美術館の「ダビデ像」。あの巨大な青年像は、写真で見るときよりも私には痩せて見えた。しかし、それは内部の力が外形を引き締めているというよりも、内部の力が外部に動き出していないからだと思う。皮膚を突き破って動いてくるものがない。
ボルゲーゼにはラファエロやボッティチェリなどの有名な絵画も多いが、私はどうも嗜好が「ルネッサンス絵画」向きではない。見ていて、わくわくしない。色も形も、私の好みにあわない。短時間で多くの作品を見すぎたために感覚が麻痺しているのかもしれないが。
ルネッサンスは「肉体の再発見」とも言われるが、私には、ルネッサンスの肉体は外形的には肉体だが、どうもピンとこない。肉体を刺戟してこない。これはある程度予測していたことではあったのだが、それを実感できたのはよかったと思う。好きではないものがある、と肉体でわかることは大切だ。私は美術評論家ではないから、自分の好き嫌いしか言わない。
また、今回の旅の目的は美術作品に触れることよりも、和辻のことばを本の外へひっぱり出して味わってみることにあったのだから、和辻の指摘の正確さを実感できたのはとてもよかった。和辻がイタリアを訪問したのは90年前である。その時代に、自分の肉眼でことばを動かして対象に迫るその力にあらためて感動した。自分の肉眼を動かすことだけが重要なのだ。写真で想像していたものを実際の作品を見て、眼の記憶を修正する。「肉体」そのものを修正する。それは、やはり楽しい。記憶と肉体を、ことばでととのえなおす。これほど楽しいことはない。