松岡政則『アピアピ』(「現代詩手帖」2015年07月号)
松岡政則『アピアピ』は旅の詩なのだろう。「アピアピ」は地名だろう。
二行目の「知っている」は「おぼえている」ということだろうか。「からだ」そのもののなかにある「いのちの遺伝子(本能)」が「おぼえている」。「おぼえている」といっても自力では思い出せない。「アピアピ」に行ったら(そこで誰かに、あるいは何かに出会ったら)、それを契機に「おぼえている」ことが「思い出」となって動き出す。
そういうことを、松岡は、こんなふうに言い直す。
ことばは通じない。でも、わかる。たとえば人と人が出会えば、そしてそれが朝ならば、発することばは朝の挨拶。挨拶してしまうのが「いのちの働き」。それは、互いに「私は怪しいものではありません」と名乗るかわりにかわすことばなのだ。人は人と出会ったとき、そんなふうに挨拶することでつながってきた。
そして、こんなふうに人と出会った後、松岡は大きく変わっていく。そこがおもしろい。旅の醍醐味があふれてくる。
人と人が出会ったとき挨拶する。その遺伝子のなかで、一瞬、「自分」を忘れる。「自分」ではなくなる。「おはよう」と直観でわかって、「おはよう」ではなく「スラマッパギ」と言ってみる。そうすると「自分」ではなくなる。この瞬間は、とても楽しい。もう一度、「スラマッパギ」とことばがかえってくるだろう。そうやって受けいれられるのだ。交じり合い、「自分」をこえて「いのち(本能)」になる。
「いのち」になるからこそ、「西にむかって祈るおんな」にもなれば、「早耳のおとこ」になって「走る」こともする。「おなん」と「おとこ」とふたりの人間が書かれているように見えるが、これは「ふたり」とも松岡自身である。松岡は、もう「自分」ではなくなっている。
「分別」を捨てて、「物語」を超えて、「じぶんがだれだかわからなくなりたいんだ」という欲望(本能)そのものを実現している。
途中を省略して、最後の四行。
「物語」「分別」がなくなっているから「なんの続き」かはわからない。いや「いのち(本能)」のつづきであることは、わかっている。それで十分だから、そのほかの「分別/物語」はいらないのだ。
そのことを
この終わりの一行が美しい。ことば(聲)を出すかぎり、ひとは誰かに向かっている。でも、その「誰か」はわからない。その「誰か」はきっと、このことばの先に自然に生まれてくるのだ。知っている誰かではなく、知らない誰かに、誰であるかわからなくなった「じぶん(松岡)」が出会い、そこで松岡自身が生まれ変わる。
松岡政則『アピアピ』は旅の詩なのだろう。「アピアピ」は地名だろう。
行ったことはないのだけれど、
からだのどこかで知っている。
アピアピ。
北緯4度の純一。
二行目の「知っている」は「おぼえている」ということだろうか。「からだ」そのもののなかにある「いのちの遺伝子(本能)」が「おぼえている」。「おぼえている」といっても自力では思い出せない。「アピアピ」に行ったら(そこで誰かに、あるいは何かに出会ったら)、それを契機に「おぼえている」ことが「思い出」となって動き出す。
そういうことを、松岡は、こんなふうに言い直す。
ぢべたに坐ってアピアピ。
スラマッパギ(おはよう)アピアピ。
ことばは通じなくても、
たがいにわかり合えることがある。
いのちの働きなら知っている。
ことばは通じない。でも、わかる。たとえば人と人が出会えば、そしてそれが朝ならば、発することばは朝の挨拶。挨拶してしまうのが「いのちの働き」。それは、互いに「私は怪しいものではありません」と名乗るかわりにかわすことばなのだ。人は人と出会ったとき、そんなふうに挨拶することでつながってきた。
そして、こんなふうに人と出会った後、松岡は大きく変わっていく。そこがおもしろい。旅の醍醐味があふれてくる。
キナバル山を背に、
ルングス、ムルッ、ドゥスン。
潮焼けのまばゆい顔は海洋民族バジャワ。
ほんとうはみんな交じりたいんだ。
じぶんがだれだかわからなくなりたいんだ。
バティックシャツ着てアピアピ。
ひとをダメにする楽園アピアピ。
西にむかって祈るおんな。
早耳のおとこが走る。
物語はいらない分別はいらない。
人と人が出会ったとき挨拶する。その遺伝子のなかで、一瞬、「自分」を忘れる。「自分」ではなくなる。「おはよう」と直観でわかって、「おはよう」ではなく「スラマッパギ」と言ってみる。そうすると「自分」ではなくなる。この瞬間は、とても楽しい。もう一度、「スラマッパギ」とことばがかえってくるだろう。そうやって受けいれられるのだ。交じり合い、「自分」をこえて「いのち(本能)」になる。
「いのち」になるからこそ、「西にむかって祈るおんな」にもなれば、「早耳のおとこ」になって「走る」こともする。「おなん」と「おとこ」とふたりの人間が書かれているように見えるが、これは「ふたり」とも松岡自身である。松岡は、もう「自分」ではなくなっている。
「分別」を捨てて、「物語」を超えて、「じぶんがだれだかわからなくなりたいんだ」という欲望(本能)そのものを実現している。
途中を省略して、最後の四行。
淫靡なにおいのアピアピ。
まはだかな聲アピアピ。
なんの続きにいるのだったか。
だれに話したいのだったか。
「物語」「分別」がなくなっているから「なんの続き」かはわからない。いや「いのち(本能)」のつづきであることは、わかっている。それで十分だから、そのほかの「分別/物語」はいらないのだ。
そのことを
だれに話したいのだったか。
この終わりの一行が美しい。ことば(聲)を出すかぎり、ひとは誰かに向かっている。でも、その「誰か」はわからない。その「誰か」はきっと、このことばの先に自然に生まれてくるのだ。知っている誰かではなく、知らない誰かに、誰であるかわからなくなった「じぶん(松岡)」が出会い、そこで松岡自身が生まれ変わる。
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