詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『アピアピ』

2015-06-27 10:31:47 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則『アピアピ』(「現代詩手帖」2015年07月号)

 松岡政則『アピアピ』は旅の詩なのだろう。「アピアピ」は地名だろう。

行ったことはないのだけれど、
からだのどこかで知っている。
アピアピ。
北緯4度の純一。

 二行目の「知っている」は「おぼえている」ということだろうか。「からだ」そのもののなかにある「いのちの遺伝子(本能)」が「おぼえている」。「おぼえている」といっても自力では思い出せない。「アピアピ」に行ったら(そこで誰かに、あるいは何かに出会ったら)、それを契機に「おぼえている」ことが「思い出」となって動き出す。
 そういうことを、松岡は、こんなふうに言い直す。

ぢべたに坐ってアピアピ。
スラマッパギ(おはよう)アピアピ。
ことばは通じなくても、
たがいにわかり合えることがある。
いのちの働きなら知っている。

 ことばは通じない。でも、わかる。たとえば人と人が出会えば、そしてそれが朝ならば、発することばは朝の挨拶。挨拶してしまうのが「いのちの働き」。それは、互いに「私は怪しいものではありません」と名乗るかわりにかわすことばなのだ。人は人と出会ったとき、そんなふうに挨拶することでつながってきた。
 そして、こんなふうに人と出会った後、松岡は大きく変わっていく。そこがおもしろい。旅の醍醐味があふれてくる。

キナバル山を背に、
ルングス、ムルッ、ドゥスン。
潮焼けのまばゆい顔は海洋民族バジャワ。
ほんとうはみんな交じりたいんだ。
じぶんがだれだかわからなくなりたいんだ。
バティックシャツ着てアピアピ。
ひとをダメにする楽園アピアピ。
西にむかって祈るおんな。
早耳のおとこが走る。
物語はいらない分別はいらない。

 人と人が出会ったとき挨拶する。その遺伝子のなかで、一瞬、「自分」を忘れる。「自分」ではなくなる。「おはよう」と直観でわかって、「おはよう」ではなく「スラマッパギ」と言ってみる。そうすると「自分」ではなくなる。この瞬間は、とても楽しい。もう一度、「スラマッパギ」とことばがかえってくるだろう。そうやって受けいれられるのだ。交じり合い、「自分」をこえて「いのち(本能)」になる。
 「いのち」になるからこそ、「西にむかって祈るおんな」にもなれば、「早耳のおとこ」になって「走る」こともする。「おなん」と「おとこ」とふたりの人間が書かれているように見えるが、これは「ふたり」とも松岡自身である。松岡は、もう「自分」ではなくなっている。
 「分別」を捨てて、「物語」を超えて、「じぶんがだれだかわからなくなりたいんだ」という欲望(本能)そのものを実現している。
 途中を省略して、最後の四行。

淫靡なにおいのアピアピ。
まはだかな聲アピアピ。
なんの続きにいるのだったか。
だれに話したいのだったか。

 「物語」「分別」がなくなっているから「なんの続き」かはわからない。いや「いのち(本能)」のつづきであることは、わかっている。それで十分だから、そのほかの「分別/物語」はいらないのだ。
 そのことを

だれに話したいのだったか。

 この終わりの一行が美しい。ことば(聲)を出すかぎり、ひとは誰かに向かっている。でも、その「誰か」はわからない。その「誰か」はきっと、このことばの先に自然に生まれてくるのだ。知っている誰かではなく、知らない誰かに、誰であるかわからなくなった「じぶん(松岡)」が出会い、そこで松岡自身が生まれ変わる。
口福台灣食堂紀行
松岡 政則
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之を読む(101) 

2015-06-27 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(101) 

153 磔刑

 青春は不思議なものである。苦悩にさえあこがれる。

ぼくは物音のとだえた深い静けさのなかで
いままさに失いつつあるものをはつきりと見きわめる
この不在の遠い階段をぼくはのぼつてゆく
そして大地が一個の巨大な氷塊になつたとき
ぼくは燐光を放つ人柱となつて
垂れさがつた厚い空をしつかり支えるだろう

 「不在の遠い階段」は「不在の長い階段」。目的地が遠くにあるから「遠い」という形容詞が結びつく。「論理的」には奇妙なのだが、こういう「短縮形」が詩の秘密である。ことばを越えて、かけ離れたものを結びつけてしまう。
 しかし「不在の階段」をどうやってのぼるか。そこをのぼっていくのは「肉体」ではない。「精神」である。「精神」は最初から「架空」のものなのだ。「虚構」なのだ。だから、「不在」の階段をのぼることができる。
 「燐光を放つ人柱」もまた「精神」の比喩のひとつである。
 そうであるなら、凍った大地も、垂れさがった空もまた比喩であり、虚構である。
 虚構のなかで動き、苦悩する精神。それが青春というものかもしれない。この詩を書いたとき嵯峨は何歳だったか。それはふつうに言う「青春」の世代とは違うかもしれない。嵯峨の「精神」が「青春」だったということだ。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする