嵯峨信之を読む(98)
150 父よ 振り向け
詩はいつでも矛盾のなかにある。「父よ 振り向け」も不思議な矛盾で構成されている。
この前半は自分の「道」を見出せない嵯峨の苦悩を書いているように見える。「道」とは、和辻哲郎「古寺巡礼」に出てくる「道」だろう。和辻の父が和辻に「お前の道はどうなっているのか」と問うたときの「道」。それはいつでも自分でつくるものなのだけれど、それをどうつくっていいか嵯峨は見出せずにいる。
ただ、その書き方が、かなり変わっている。
太陽の強い光で目をやられてしまったら、明るいはずの砂漠が暗くなる。実際に日が落ちて暗くなるのではなく、まぶしさのために暗くなる。無限の可能性のために、迷い、道を見出せない、と苦悩している。
このあと、突然、父が出てくる。
自分の「道」を見出せないとき、嵯峨は「父の道」はどうだったのか、と思ったのか。その父は、いまは、いない。
父もまた何かに渇望して(「渇きよ 渇きよ」という行が「渇望」ということばを誘い出す)、「道」を見出せないまま、太陽に目を焼かれ(太陽の中に「黒い花(闇)」を見て)さまよったのか。
「道」はいつでも、さまようという動詞のなかにあるのかもしれない。そしてそれは、振り返ったときだけ見えるものなのかもしれない。「ぼくの前に道はない/ぼくの後に道はできる」ものなのか。
「たれも教えてくれない」と書いているが、嵯峨は父から「歩く/進む」ということを学んだと書いているようにも見える。太陽に向かって歩いていった父は、嵯峨からみると、「太陽の中にゆれる大きな花」そのものなのだろう。
150 父よ 振り向け
詩はいつでも矛盾のなかにある。「父よ 振り向け」も不思議な矛盾で構成されている。
ぼくの苦悩はただ一つの道をたれも教えてくれないことだ
ぼくのゆくてが
太陽の輝きで目ぶしく遮断されたら
遠くにひろがる砂漠の果まで
ただちに暗くなつてしまうだろう
この前半は自分の「道」を見出せない嵯峨の苦悩を書いているように見える。「道」とは、和辻哲郎「古寺巡礼」に出てくる「道」だろう。和辻の父が和辻に「お前の道はどうなっているのか」と問うたときの「道」。それはいつでも自分でつくるものなのだけれど、それをどうつくっていいか嵯峨は見出せずにいる。
ただ、その書き方が、かなり変わっている。
太陽の強い光で目をやられてしまったら、明るいはずの砂漠が暗くなる。実際に日が落ちて暗くなるのではなく、まぶしさのために暗くなる。無限の可能性のために、迷い、道を見出せない、と苦悩している。
このあと、突然、父が出てくる。
その道を遠く去り行く父よ
ひとりゆき暮れる父よ
自分の「道」を見出せないとき、嵯峨は「父の道」はどうだったのか、と思ったのか。その父は、いまは、いない。
埋もれた井戸はどこにあるか
渇きよ 渇きよ
死こそ
太陽の中にゆれる大きな黒い花
父よ
振り向け
父もまた何かに渇望して(「渇きよ 渇きよ」という行が「渇望」ということばを誘い出す)、「道」を見出せないまま、太陽に目を焼かれ(太陽の中に「黒い花(闇)」を見て)さまよったのか。
「道」はいつでも、さまようという動詞のなかにあるのかもしれない。そしてそれは、振り返ったときだけ見えるものなのかもしれない。「ぼくの前に道はない/ぼくの後に道はできる」ものなのか。
「たれも教えてくれない」と書いているが、嵯峨は父から「歩く/進む」ということを学んだと書いているようにも見える。太陽に向かって歩いていった父は、嵯峨からみると、「太陽の中にゆれる大きな花」そのものなのだろう。
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