詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(76)

2015-06-02 11:06:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(76)

123 魂祭

どこにあなたの星はあるのか
自由な会話がはじまるとあなたの心に星は大きくかがやきのぼり
それはいつのまにか遠くの寺の上に光つている

 不思議な書き出しである。「星」は、亡くなった「あなた」なのかもしれない。死んで星になった「あなた」。その「あなた」を思い出しながら夜空を見上げている。死んでいるから「寺」の上に輝くのだろう。死んでいると考えると「寺」ということばが「現実的」になる。

村々ではここもかしこも小庭で火を焚いている
穏やかな追憶の日がもう暮れかける

 これは迎え火で、盆の鎮魂のための「魂祭」なのだ。ひとは亡くなったひとを「追憶」している。
 この描写が、ここから少し変わる。

穏やかな追憶の日がもう暮れかける
少しもとどまらぬ実在よ
その幻に稔る尊さよ
水の流れが一日をこえて薄くひかつて闇の中へ消えていく

 突然「実在」という抽象的なことばが出てくる。永遠にとどまることのできない人間のことを指している、死んだ「あなた」のことを指しているのだろう。もう「実在」していない。「あなた」は「幻」。けれど、その「幻(追憶のなかにあらわれてくる存在)」は、さまざまな稔りであふれている。「あなた」から学んだ多くのことが「尊い」ものとなって残っている。
 そういうことを書いているのだ思う。
 そして、そのあと「川」が具体的に描かれる。その描写が、とても美しい。書き出しに「星」があったことを忘れてしまう。
 「一日をこえて」は「きょうという一日を終わって」という具合に読むこともできるが、「きょう一日」に限定せずに、永遠につづく「一日一日」をこえて、という具合に「抽象的」に読み直すこともできる。
 直前の「実在」ということばが、風景を形而上学的な「比喩」に変えてしまう。嵯峨の「比喩」のなかには「形而上学(精神の動き)」が存在している。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(34)

2015-06-02 08:18:26 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(34)(思潮社、2015年04月30日発行)


難問

揺り籠が揺れるのはいい
風に木々が揺れるのも
船が波に揺れるのも
風鈴が揺れるのも

だが地面が揺れるのを
どう受け容れればいいのか
と詩は問う

難問だ
ぶらんこに揺られて考えたが
答えがない

 この詩は、「揺れる」という動詞が出てくるためだろうか、谷川が東日本大震災の直後に書いた「シヴァ」を思い起こさせる。谷川は朝日新聞に「こころ」シリーズで詩を書いていたが、「シヴァ」二〇一一年四月の掲載は見送られ、二年後、二〇一四年三月に掲載された。
 実際どういう交渉があったのかわからないが、東日本大震災直後は、そのことばを被災者が受けいれられるかどうか、それを朝日新聞が心配したということだろう。その後、東日本大震災をテーマにしたさまざまな詩(ことば)が書かれた。苦悩、悲しみ、怒り。いくつもの感情がことばになって存在しはじめ、ようやく谷川のことばも受けいれられるものと判断されて、二年後の掲載になったのだろう。

 一連目の「揺れる」は静かに揺れる動き。「いい」と書かれているが、それは「揺れる」というよりも「静か」がいいのだろう。
 揺り籠も激しく揺れるとこわい。台風で木々が揺れるのも困る。船が大波に揺れるのもいいとは言えない。
 二連目に登場する「地面」は「静かに」揺れるということがない。たいていは激しく揺れて、それが地震と呼ばれる。「激しさ」が嫌われている。
 しかし問題が「静かさ」と「激しさ」なら、詩は「静かさ」だけを追い求めてきたわけではない。「静かな抒情」は人気のあるテーマだが、「激しい感情」が動き回る詩もたくさん書かれ、その過激さが歓迎されることもある。
 ことば(文学)の上では、「静けさ」「激しさ」は対等である。「いい」「悪い」の区別がない。詩は、そういうところで動いている。なぜ「激しく揺れる」地面、そこからはじまる事実(そこから浮かび上がる真実)を、そのまま書いてはいけないのか。犠牲者が多く出たからか。大地の発したその「激しさ」を詩はどう受けいれればいいのか。どう書けばいいのか。
 これは難しいなあ。「シヴァ」も、ずっと掲載されなかったわけではない。何かが起きて、それをひとが「事実」として受けいれることができるようになったとき、それについて書かれたことばも受けいれるようになる。ことばが受けいれられるようになるには時間がかかるということかもしれない。
 阪神大震災の後、季村敏夫が『日々の、すみか』という詩集を書いた。そのなかの「祝福」という詩に「出来事は遅れてあらわれる」という一行がある。実際には「阪神大震災という出来事」は遅れてあらわれたのではなく、ひとが何の心構えもできていないときに突然あらわれた。早すぎるときに起きた。そして、その起きたことが何であるか、ことばにしてわかるようになるのに時間がかかった。ことばにしてみて、初めて「出来事」が何であるかがわかるようになった。ことばのなかで、「出来事(大震災)は遅れてあらわれる」とはそういうことである。
 谷川の「シヴァ」のことばについても、そうした性質のことが起きたのだと思う。ひとは二年立って、やっと谷川の書いたことばのなかで起きている「出来事」を受けいれられるようになった。ことばがさまざまに「出来事」を書いたので、いろいろなことばの動き方(出来事のあらわし方がある)ということになじんできたのだ。

 そうした経緯は経緯としておいておいて……。
 私は、この「問い」を谷川は「詩は問う」と書いていることが、とてもおもしろかった。谷川は谷川の問題としてではなく、それを「詩の問題」と考えている。「詩」を人称化して考えている。詩の人称化は何回か、この詩集でも出てきた。谷川にとっては「肉体」になってしまっている思想かもしれない。
 「詩」の問題は、ことばの問題でもある。ことばは何をつかみとればいいのか。何を「出来事」としてつたえればいいのか。
 ここにはたぶん、「ことば」だけの問題ではなく、「ひと」の問題が関係してくる。ひととことばは、どういう関係にあるのか。おなじことばでも、あるひとは歓迎し、あるひとは拒絶する。
 そのことを考えると、「小景」「二人」「同人」という作品のことを思い出さずにはいられない。谷川は詩を書く。その詩をこばむ女がいる。詩は詩として書かれても、詩として存在しえないときがある。
 ひととことばの関係は、ことばの側からだけでは解決できない問題を含んでいる。

 そしてこの問題を考えながら「詩」と「詩人」のあいだで谷川は揺れている。二連目で「詩は問う」と書かれていたが、三連目で「ぶらんこに揺られて考えた」の主語は「詩」ではないだろう。「詩人(谷川)」が考えたのだろう。
 「詩」を人称化したあと、その比喩を「肉体」で実行し、ひと(詩人)になって詩の問題を、三連目で谷川は考えている。
 谷川にとって「詩」と「詩人(谷川自身)」の区別がない。それは「一体」になっていて、あるときは「詩」として姿をあらわし、あるときは「詩人」となって姿をあらわす。「詩」と「詩人」の区別は「方便」であって、区別はない。
 けれども、ほかのひとにとってはそうではない。「詩」と「詩人」も違えば、「ひと」のすべてが「詩人」ではないし、「詩人」のすべてが「ひと」でもない。この複雑な「あいだ」をどう谷川はわたってゆけるのか、わたってゆこうとしているのか。
 「答えがない」
 そうかもしれないなあ。

 谷川は、ほんとうに「孤独」なところにいるのかもしれない、とふっと、その「孤独」が見えたような感じがした。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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