村瀬和子「池のほとり」(「現代詩手帖」2015年06月号)
村瀬和子「池のほとり」は傑作だ。すばらしい。ほかにことばが思いつかない。
鯉を散歩に連れ出す、ということは、不可能である。だから、これは「寓話」である。しかし、水から上がって岸で身をくねらせている魚を見たことがあるので、少しなら陸の上でも魚は生きていられるので、ここに書かれていることが完全に不可能ではないこともわかる。--というような、うるさいことは、書く必要はないか……。
三連目の「いいかい」以下が、なんとも切ない。それは「鯉」に言い聞かせているのか、自分に言い聞かせているのかわからない。「帰りたくなくとも帰らねばならない場所がある」と、ひとは誰でも思うものである。そういう「矛盾」を生きなければならないのだと、ひとは誰でも思うときがある。
で、その「矛盾」を誰かがいっしょに生きる。
それが、この感情の「矛盾」に結晶する。そのとき「鯉はもっと哀しかっただろうよ」という他者への「理解」も忍び込む。
人間はなぜ、こういう「感情/論理」の矛盾を生きることができるのだろう。どうして、こういう「矛盾」に出会ったとき、それが「わかる」のだろう。「矛盾」が「肉体」に迫ってくるのだろう。
このとき、私は「わし」のことを思っているのかな。「鯉」のことを思っているのかなあ。「わし/鯉」を同時に思っている。区別をなくてし、ただ、そこに「起きていること」のなかにいる。
最後の短い三行もいいなあ。「話していない」。話さなくても「わかる」のだ、その「矛盾」のすべてが。「生きる」ということが。
私の書いた「ことば」はすべて余分。
でも、書いておこう。今年半年に読んだ詩の中では、この作品がいちばんおもしろい。傑作だ。
*
(追記)
こうした「寓話」風の作品は、「状況」の「主語」を意識せずに、「動詞(動き)」と「動いていること」を中心に読んでいくと、そこに書かれている「感情」が伝わってくる。
「誰か」を愛している。その人のために、その人にいちばんふさわしい場所へつれていく。そのひとに、その理想の場所をそのまま与えたい。けれど、そこにはいられない。帰らなければならない。
その人は帰りたくないという。そして、実際、そこにとどまる。そのひとに捨てられて、ひとりさびしくその人と別れて帰ってくる。そうすると、そのひとが遅れてあとからやってくる。そう気がついたとき、嬉しい。やっぱり自分のいうことを聞いてくれたのだ。けれど、さびしい。帰ることがその人にとっていちばんいいことではない。その人にふさわしいのは、あの場所なのだとわかるから。自分の欲望で、そのひとの理想を壊してしまった。そのことを思うとさびしい。
どうしてその人は「我」を押し通そうとしなかったのか。それを思うと、またさびしい。
二つの「我」があり、それがぶつかる。そのとき、どう折り合いをつけるか。どちらかが、どちらかを傷つける。自分の「我」が通るのは嬉しいが、相手の「我」を叶えてやれないのは、さびしい。「我」を殺したとき、哀しかっただろうなあ。
「理不尽」な状況であればあるほど、その「状況」を忘れて、そこに動いている「感情」が見えてくる。「寓話」の魅力だ。
村瀬和子「池のほとり」は傑作だ。すばらしい。ほかにことばが思いつかない。
三月のある日 わしは鯉を連れて散歩に出た
池の中で一番見事な金色の鯉を連れてな
あいつはあとになり先になり下萌えの山道をはね歩いた
ばしゃばしゃと音を立てるのは谷水に鱗をひたしているのだろう
山の湖で泳がせてやるのが前からの約束だった
きれいな湖だった
あいつは目をみはり 嬉しそうにとびこむと瞳だけ出して笑い
なかなか戻らなかった
山は暮れやすい
日が傾きはじめて手を叩くと
あいつは湖面に首をあげていやいやをするのだった
--いいかい 見せたくなくても見せてやらなければならないことがある
もう帰りたくなくとも帰らねばならない場所がある--
で なかったらどうしてお前をここへ連れてこよう
鯉は涙をいっぱい浮かべそのまま深くもぐりこんでしまった
あいつのちっぽけな池が今日ほどみすぼらしく思えたのはわしも初めてのことだ
山の冷気が身に迫り わしはきびすを返した
長い道のりに思えた
どれ程歩いたころか かすかな気配に振り向くと
あいつがひたひたと従っていたのさ
嬉しかったね そしてたまらなく淋しかった
鯉はもっと哀しかっただろうよ
もう谷水がなくても あいつはぐしょ濡れだったに違いない
池のほとりで別れた
あの日から
まだいちども話をしていない
鯉を散歩に連れ出す、ということは、不可能である。だから、これは「寓話」である。しかし、水から上がって岸で身をくねらせている魚を見たことがあるので、少しなら陸の上でも魚は生きていられるので、ここに書かれていることが完全に不可能ではないこともわかる。--というような、うるさいことは、書く必要はないか……。
三連目の「いいかい」以下が、なんとも切ない。それは「鯉」に言い聞かせているのか、自分に言い聞かせているのかわからない。「帰りたくなくとも帰らねばならない場所がある」と、ひとは誰でも思うものである。そういう「矛盾」を生きなければならないのだと、ひとは誰でも思うときがある。
で、その「矛盾」を誰かがいっしょに生きる。
嬉しかったね そしてたまらなく淋しかった
それが、この感情の「矛盾」に結晶する。そのとき「鯉はもっと哀しかっただろうよ」という他者への「理解」も忍び込む。
人間はなぜ、こういう「感情/論理」の矛盾を生きることができるのだろう。どうして、こういう「矛盾」に出会ったとき、それが「わかる」のだろう。「矛盾」が「肉体」に迫ってくるのだろう。
このとき、私は「わし」のことを思っているのかな。「鯉」のことを思っているのかなあ。「わし/鯉」を同時に思っている。区別をなくてし、ただ、そこに「起きていること」のなかにいる。
最後の短い三行もいいなあ。「話していない」。話さなくても「わかる」のだ、その「矛盾」のすべてが。「生きる」ということが。
私の書いた「ことば」はすべて余分。
でも、書いておこう。今年半年に読んだ詩の中では、この作品がいちばんおもしろい。傑作だ。
*
(追記)
こうした「寓話」風の作品は、「状況」の「主語」を意識せずに、「動詞(動き)」と「動いていること」を中心に読んでいくと、そこに書かれている「感情」が伝わってくる。
「誰か」を愛している。その人のために、その人にいちばんふさわしい場所へつれていく。そのひとに、その理想の場所をそのまま与えたい。けれど、そこにはいられない。帰らなければならない。
その人は帰りたくないという。そして、実際、そこにとどまる。そのひとに捨てられて、ひとりさびしくその人と別れて帰ってくる。そうすると、そのひとが遅れてあとからやってくる。そう気がついたとき、嬉しい。やっぱり自分のいうことを聞いてくれたのだ。けれど、さびしい。帰ることがその人にとっていちばんいいことではない。その人にふさわしいのは、あの場所なのだとわかるから。自分の欲望で、そのひとの理想を壊してしまった。そのことを思うとさびしい。
どうしてその人は「我」を押し通そうとしなかったのか。それを思うと、またさびしい。
二つの「我」があり、それがぶつかる。そのとき、どう折り合いをつけるか。どちらかが、どちらかを傷つける。自分の「我」が通るのは嬉しいが、相手の「我」を叶えてやれないのは、さびしい。「我」を殺したとき、哀しかっただろうなあ。
「理不尽」な状況であればあるほど、その「状況」を忘れて、そこに動いている「感情」が見えてくる。「寓話」の魅力だ。
花かんざし | |
村瀬 和子 | |
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