詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

村瀬和子「池のほとり」

2015-06-10 09:28:42 | 詩(雑誌・同人誌)
村瀬和子「池のほとり」(「現代詩手帖」2015年06月号)

 村瀬和子「池のほとり」は傑作だ。すばらしい。ほかにことばが思いつかない。

三月のある日 わしは鯉を連れて散歩に出た
池の中で一番見事な金色の鯉を連れてな
あいつはあとになり先になり下萌えの山道をはね歩いた
ばしゃばしゃと音を立てるのは谷水に鱗をひたしているのだろう
山の湖で泳がせてやるのが前からの約束だった

きれいな湖だった
あいつは目をみはり 嬉しそうにとびこむと瞳だけ出して笑い
なかなか戻らなかった
山は暮れやすい
日が傾きはじめて手を叩くと
あいつは湖面に首をあげていやいやをするのだった

--いいかい 見せたくなくても見せてやらなければならないことがある
もう帰りたくなくとも帰らねばならない場所がある--
で なかったらどうしてお前をここへ連れてこよう
鯉は涙をいっぱい浮かべそのまま深くもぐりこんでしまった
あいつのちっぽけな池が今日ほどみすぼらしく思えたのはわしも初めてのことだ

山の冷気が身に迫り わしはきびすを返した
長い道のりに思えた
どれ程歩いたころか かすかな気配に振り向くと
あいつがひたひたと従っていたのさ
嬉しかったね そしてたまらなく淋しかった
鯉はもっと哀しかっただろうよ
もう谷水がなくても あいつはぐしょ濡れだったに違いない

池のほとりで別れた
あの日から
まだいちども話をしていない

 鯉を散歩に連れ出す、ということは、不可能である。だから、これは「寓話」である。しかし、水から上がって岸で身をくねらせている魚を見たことがあるので、少しなら陸の上でも魚は生きていられるので、ここに書かれていることが完全に不可能ではないこともわかる。--というような、うるさいことは、書く必要はないか……。
 三連目の「いいかい」以下が、なんとも切ない。それは「鯉」に言い聞かせているのか、自分に言い聞かせているのかわからない。「帰りたくなくとも帰らねばならない場所がある」と、ひとは誰でも思うものである。そういう「矛盾」を生きなければならないのだと、ひとは誰でも思うときがある。
 で、その「矛盾」を誰かがいっしょに生きる。

嬉しかったね そしてたまらなく淋しかった

 それが、この感情の「矛盾」に結晶する。そのとき「鯉はもっと哀しかっただろうよ」という他者への「理解」も忍び込む。
 人間はなぜ、こういう「感情/論理」の矛盾を生きることができるのだろう。どうして、こういう「矛盾」に出会ったとき、それが「わかる」のだろう。「矛盾」が「肉体」に迫ってくるのだろう。
 このとき、私は「わし」のことを思っているのかな。「鯉」のことを思っているのかなあ。「わし/鯉」を同時に思っている。区別をなくてし、ただ、そこに「起きていること」のなかにいる。

 最後の短い三行もいいなあ。「話していない」。話さなくても「わかる」のだ、その「矛盾」のすべてが。「生きる」ということが。
 私の書いた「ことば」はすべて余分。
 でも、書いておこう。今年半年に読んだ詩の中では、この作品がいちばんおもしろい。傑作だ。



 (追記)

 こうした「寓話」風の作品は、「状況」の「主語」を意識せずに、「動詞(動き)」と「動いていること」を中心に読んでいくと、そこに書かれている「感情」が伝わってくる。
 「誰か」を愛している。その人のために、その人にいちばんふさわしい場所へつれていく。そのひとに、その理想の場所をそのまま与えたい。けれど、そこにはいられない。帰らなければならない。
 その人は帰りたくないという。そして、実際、そこにとどまる。そのひとに捨てられて、ひとりさびしくその人と別れて帰ってくる。そうすると、そのひとが遅れてあとからやってくる。そう気がついたとき、嬉しい。やっぱり自分のいうことを聞いてくれたのだ。けれど、さびしい。帰ることがその人にとっていちばんいいことではない。その人にふさわしいのは、あの場所なのだとわかるから。自分の欲望で、そのひとの理想を壊してしまった。そのことを思うとさびしい。
 どうしてその人は「我」を押し通そうとしなかったのか。それを思うと、またさびしい。
 二つの「我」があり、それがぶつかる。そのとき、どう折り合いをつけるか。どちらかが、どちらかを傷つける。自分の「我」が通るのは嬉しいが、相手の「我」を叶えてやれないのは、さびしい。「我」を殺したとき、哀しかっただろうなあ。
 「理不尽」な状況であればあるほど、その「状況」を忘れて、そこに動いている「感情」が見えてくる。「寓話」の魅力だ。

花かんざし
村瀬 和子
思潮社
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嵯峨信之を読む(84)

2015-06-10 09:26:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(84)

131 燕--あるいは愛

 嵯峨のことばは対象を描写しながら、それが嵯峨自身の心象になっていく。心象を、外にある存在をとおして語るとも言える。嵯峨の外部にあるものと、嵯峨の内部が交信してひとつの世界をつくる。

燕はその唯一の空をさがした
内空
フルートの音いろをききながら燕が幾羽も溺死した空

 「内空」の「内」が嵯峨の内部、精神と重なる。そのとき燕は、私たちが見る燕であると同時に、嵯峨の精神としての燕でもある。つまり「比喩」でもある。
 そして「内空」という「比喩」と燕の「比喩」が一緒に動くとき、マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、心象が実在の風景になり、実在の風景が心象になるという現象が起きる。
 「空」に「溺死」することはできない。「溺死」は水におぼれて死ぬこと。「空」に「溺死」するとは、「空」という「海」に落ちて、そこで死ぬことだろう。これは「マイナス」で書かれた「比喩」なのだ。
 だから、次の行に「墜ちる」ということばが出てくる。

夜が夜のなかへ墜ちていつた空
千の暁が青白くふるえながら花ひらく空

 一行目に「唯一の空」と書かれていたが、その「唯一」はこんなふうに次々に姿を変える。それでも「唯一の空」であるのは、それが「内空」、つまり嵯峨の「精神の空」だからである。すべての空は「精神の空」という意味のなかに統合されている。統合されながら、何度も言い直されている。そこを飛んでゆく燕がすべてを統一する。
 この言い直し、言い直すことで深まる「統一」が、詩である。
 言い直しのたびに、「心象」の見えなかったものが見える。それは一瞬のきらめきで、よく見ようとするとわからなくなるが、「よく見る」ではなく、ただ感じればいいのだ。衝撃を受ければいいのだ。あ、美しい、と。 

その唯一の空を燕は掠めさつた
ふたたび飛ぶことのない空をどこまでもどこまでも飛んでいつた

 そのとき「内空」、精神の空が読者のものになる。読者の精神のなかに「空」が残る。燕の軌跡といっしょに。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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