詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ミロスラブ・スラボシュピツキー監督「ザ・トライブ」(★)

2015-06-07 19:38:17 | 映画
ミロスラブ・スラボシュピツキー監督「ザ・トライブ」(★)

監督 ミロスラブ・スラボシュピツキー 出演 グリゴリー・フェセンコ、ヤナ・ノビコバ

 とても嫌な映画である。聾唖者の学校が舞台。出演者が聾唖者で、台詞は手話。字幕なし。それでも登場人物のこころの叫びが聞こえてくる--そういううたい文句の映画だった。手法が斬新、という評判だった。
 しかし見はじめてすぐ違和感をおぼえた。
 主人公がバスからおりて道を尋ねる。それを道路をはさんだ反対側から撮影している。行き交う車の音が聞こえる。その音を聞いているのは誰? 耳が聞こえる人である。主人公の聞こえない「音」を観客が聞きながら、主人公の「声にならない声」を聞く。これって、変だなあ。たとえば、もし私が聾唖者に道を聞かれたとしたら、そのとき私の耳に道路を走る車の音は聞こえてくるか。聾唖者でなくても、誰かに道を聞かれたとき、そのひとの声を聞くのに集中するから、耳は知らず知らずに騒音を除外している。人間の耳は器用にできていて、必要な音を選びながら聞いている。だから雑音のなかでも会話ができる。そういう耳の働きを無視して、聾唖者は声が出せない、ということだけを強調している。世界には音があふれているということを強調し、それによって少年の沈黙を描き、聾唖者であると表現している。
 冒頭のシーンに即していうと、少年とそれにこたえるおばさんの身振り手振りで「あっち側へ渡ってどうしたこうした」と言っていることがわかる。正確に何を言っているかはわからないが、道を聞かれて、それにこたえているということがわかる。そのとき、ふたりは車の音など聞いていない。少年には聞こえないが、おばさんだって聞いていない。少年がほんとうに理解したかどうか、そのことを気にかけているから車の音なんか聞こえない。それなのに、それを離れたところから見ている観客だけが車の音を聞いている。
 この「客観性」がうさんくさい。嘘っぽい。少年と「一体」になって世界を体験するという姿勢が最初から存在しない。少年が「みせもの」になっている。数少ない耳の聞こえる人との接触のシーンなのだから、そのとき耳の聞こえる人には「世界の音」がどうかわるかをていねいに撮ってほしかった。少年とおばさんが見える瞬間だけは「沈黙」にするとか。
 耳の聞こえない人にとって「騒音」とは何か。このことを考えさせられたのが、入学した少年が「洗礼のリンチ」を受けるシーン。みんなが見に来ている。手話でいろいろやりとりしている。一斉に手が動くので、ちらちらする。これは私から見ると「騒音」を視覚化したものに思える。予告編にもこのシーンはあって、私は、あ、これが手話の騒音かと思い、この映画を見たいと思ったきっかけなのだが、全編のなかでみると印象がまったく違った。このシーンでは、私は半分少年に感情移入してしまっている。少年の「耳」と「眼」で世界を見ようとしている。少年は観客が見るように、壁に群がった「手話」の「騒音」を見ないだろう。ひとつひとつの「声」を聞くために、視線が群がっているひとのあいだを動くだろう。「騒音」だから識別する必要はないかもしれないが、どれくらいの「騒音」なのかを知るために視線がすばやく全体を動き回るだろう。しかし少年は「声」にぜんぜん関心を示さない。少年の眼は「騒音」を見ない。「騒音」を見るのは観客だけである。このシーンは少年のこころの動きをあらわしているとは理解できない。少年のこころと完全に分離しているとしか思えない。これでは感情移入はできない。
 疑問に感じるシーンはほかにもある。少女が堕胎する。このとき、少女は痛みのためか、悲しみのためか、はげしく声を上げる。聾唖者が声をあげるのがおかしいというのではない。このシーンは自然で納得がゆく。そして、その「声」に納得すると、なぜほかのシーンでは「声」をあげないのかという「疑問」を呼び覚ますのである。激情した瞬間、正確な「ことば」にはならなくても「声」は自然に出るのではないのか。自然に「声」は出ているが、それが聞こえないということはあるのではないのか。他のシーンが「無音」すぎて、逆に芝居っぽい、演技っぽい。
 さらに少年が少女の部屋で少女とセックスするシーンと少女を殺し、仲間だった少年(ボス?)を殺すシーン。耳が聞こえないから、同室の少女、少年が気がつかない。それはふつうの人が「論理的」に考えるとそうなるのであって、聾唖者はほんとうに身近に起きる「異変」について何も感じないのか。耳が聞こえない分、震動などには敏感になっているのではないのか。ベッドが揺れる。その震動が床に伝わり、それがさらに隣のベッドに伝わる。箱を持ち上げ、それで頭をなぐる。そのときもやはりはげしい震動があるだろう。それ以前に、ドアを荒々しくあければ、やっぱり震動を感じるだろう。部屋に入ってくる光の変化に反応するだろう。眠っている(無防備)としても、いや、そういうときだからこそ、逆に敏感に反応するということもあるのではないのか。ある感覚が欠落すれば、それを補って他の感覚が敏感になる(たとえば盲目の人が音に敏感になるように)と私は信じている。
 どうにも登場人物の「肉体感覚」が伝わってこないのである。耳が聞こえない分、目でどう補っているのか。皮膚感覚(触覚、震動を受け止める感覚)で、どう補って、世界を掴み取っているのか、それがまったくわからない。聾唖者と私では「肉体」の条件がちがうから伝わってこなくてあたりまえという考えもあるかもしれないが、私は、そういうことは信じられない。おなじように生きているのだから、どこかで私の知らないような世界のつかみ方があるはずである。それを具体的に映像にしないまま、聾唖者の「こころの声」を聞きとれと言われても、無理だね。私の感覚をこえる敏感な「肉体」が表現されてこそ、私は登場人物の「肉体」に引きつけられ、そこで動く、私のこころをこえる「こころの声」を、「肉体」の内部に聞くということが起きる。
 「少年の純愛」というストーリー(テーマ)に感動するというのなら、わざわざ聾唖者を登場人物にしなくてもいい。聾唖者の肉体とその感覚でとらえた「映像」が展開されないかぎり、それは聾唖者を「みせもの」にしていることになる。
 ただし、一か所だけ共感できるシーンがあった。少年が工作の教師を殺し(殴って気絶させただけ?)、隠している金を探すシーン。部屋のなかのものを次々に壊す。大きな音が出るのに平気である。耳が聞こえないから。ではなく、ほんとうは、その音を聞きたいのだ。その「音」を眼で見るように、目の前のものを叩き壊す。「音」のあまりでない衣類も「音」を出せと叫ぶようにひっくりかえし、たたき落とす。破壊され、乱雑に飛び散る破片、乱れる秩序が少年にとっての「音」である。自分が起こしているときに発するはずの「音」というものを欲望している。世界を縛りつけている「沈黙」の音をこそ破りたいのだという絶望が少年を動かしているように見えた。こういうシーンがもっとあれば映画は違ってきただろうと思う。
                     (2015年06月07日、KBCシネマ2)




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嵯峨信之を読む(81)

2015-06-07 09:04:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(81)

128 白椿

咲きこぼれている白椿の花が
ひとひらひとひら夕日を受けている
このような神話をいまだれが話そうとしているのだろう

 一行目、二行目は風景の描写に見える。しかし嵯峨はこれを「神話」と呼んでいる。そして、さらに「誰が話そうとしているのだろう」と問いかけている。
 そう書きながら、嵯峨は、現実に見た風景から「神話」を話そうとしているのだ。

この浄らかな敷布の上にねて 夢のなかをどこまで帰つていくのだろう

 「敷布の上」は白椿の花びらからの「比喩」。そして「敷布」から「夢」という「比喩」が生まれ、散った花びらは「神話」へと帰っていく。
 椿は、椿自身を語る前に、「神話」の「全風景」を語る。その部分がとても美しい。椿ではないから美しいのかもしれない。それは嵯峨が嵯峨のことを語るのではなく、椿を語ることで自分を語るときの美しさに似ている。他者になる、自分を捨てる、ということのなかに美しさがひそんでいる。

空は青い色からしだいに紫になる
つつみきれない青色がはるかな地平をひとすじながれていて
その直下から遠く流れてきた川が
夜になると鈴のように鳴りひびく

 「しだいに紫になる」の「しだいに」は「夕日が試みる批評」に書かれていた「少しずつ」とおなじ。その「少しずつ」を見る力が「ひとすじ」を見る力にもなる。空の変化から、直下の川(大地)を、「はるかな地平」で結びつけ、「神話」の舞台が完成する。絵画的にはじまった描写が「鳴る」という動詞で音楽的にも膨らんでくる。
 この「神話の舞台」で白椿の、白椿自身の「神話」が語られる。その結論(?)よりも、そこに至る導入部分(「空は……」からはじまる四行)の方が、私にはとても「神話的」に感じられる。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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