小林弘明『F・ヨーゼフ』(書肆山田、2015年05月30日発行)
小林弘明『F・ヨーゼフ』は「非在」をいかに語るかをテーマとした詩集である。しかし、私は「非在」(「ない」が「ある」)ということには触れずに、この詩集について語ってみたい。
小林の文体には具象と抽象が交錯する。「転調」の書き出し。
冬の終わりの劇場が、小路に波立つ領域を隠すように滲ませている。小鳥も帰っていった、冷たい光に照らされた記憶、波立つ領域を縁取るにしても、それ自身上演される記号に紛れ込んでいく。小路の小さな明りに届いているだろうか。
季節は冬。小さな路に面して劇場がある。そういう「風景/具象」を描いているようにも見える。けれど「波立つ領域」はすでに「具象」ではない。「波立つ」という「比喩」が「場」をあらわす「領域」から「具象」を奪っている。「波立つ領域」ということばの結合は、そのまま「隠すように滲ませている」という動詞で言い直されている。反対の意味を同時に抱え込み動いている。
「冷たい光に照らされた」は「具象」であるが、それが「記憶」と結びつけられるとき、それは「比喩」になる。つまり半分「具象」ではなく「抽象」になる。くりかえされる「波立つ領域」とは、「冷たい光に照らされた記憶」が「波立つ領域」であると言うつもりなのだろうか。よくわからないが、少しずらされてくりかえす「具象」と「抽象」が「隠すように滲ませている」という状態を特徴づけ、「隠すように滲ませる」という「動詞」のあり方を印象づけるのだが、これに「記号」という「抽象」が加わり、「風景/具象」を一気に透明にする。「抽象」を「論理」そのものに転換しようとする。
言い換えると「隠すように滲ませている」という「動詞のあり方」(世界のあり方)を記号的に整理せよ、と「脳」に働きかけてくる。「具象」から「具体的なものを」を取り去り、記号であらわせる関係で「論理化」することを求めてくる。算数で言うと鉛筆5本と3本で計8本、5+3=8という「具象」をA+B=Cという形に言い換え、そこに加算という関係(論理)があるということだけを示すようなものだ。「記号」をつかうということは。(かなり強引な言い方になったが……)。
その一方で、突然、「小路の小さな明りに届いている」というような「具体的」と勘違いしそうなことばが、その要求を隠す。小林なら「隠すように滲ませている」というかもしれない。
この「隠すように滲ませている」という「世界のあり方」は、詩集のなかで何回かくりかえされる「劇中劇」ということばや、「二重性」という表現で言い換えることができる。「音信」28ページには、その両方が出てくる。「二重性」はもっと現代思想の「流行語(?)」っぽく「二重分節」と書かれることもある(「鵲」19ページ)。この「二重分節」が「隠すように滲ませている」にいちばん近いかもしれない。「二重分節」は「それとも」という表現(「渡る人」)、「奇妙なねじれ」という表現(「空耳」)で言い直されたりする。「折り重なる」という表現もどこかにあったような気がする。
「二重性」という表現が、いちばん「日常的」かもしれないが、その「二重性」の「見え隠れ(隠すように滲ませている状態)」を、小林は「翻訳体」を思わせる「文体」で書く。「翻訳」自体が「外国語」と「日本語」の「二重性」で出来上がっているのだが、それを作品に即して言い直すと……。
「F・ヨーゼフ」という登場人物が、まず「異様」である。彼が登場する場所も「異様」である。「外国」を感じさせる。それが「翻訳体」という印象を引き起こす一つである。そして、その彼のことを考える小林が「日本」にいる、あるいは「日本語」で考えているということが、すでに「二重性」をはらんでおり、それが「翻訳」に通じる「間接的」な印象を刺戟する。さらに、その叙述の仕方に、先に指摘したような「抽象」が強引に紛れ込んでくるところが、また「翻訳体」を思わせる。こんな言い方を日常的な日本語はしない、という印象が「翻訳体」を連想させる。私は「翻訳体」の書物をそんなに多く読んでいるわけではないが、「外国のことば」を翻訳した本には、「日本語ではこういう言い方をしないのでは?」と思わせるものがたくさんある(たくさんあったと、何となくおぼえている)。--これは私の「感覚の意見」であって、具体的に「例」をあげることはできないのだが。
この「翻訳体」のことを思いながら、私は日本語と外国語の違いについても考えた。「外国人」を登場させ、「外国」を舞台にことばを動かし、そこに「翻訳体」まで「隠すように滲ませている」のだが、そこに私は気がかりなものを感じ、つまずいたのである。
引用した部分の最後の文章。
小路の小さな明りに届いているだろうか。
この文の「主語」は何だろうか。「何が」小路の小さな明りに届いているだろうか。前の文章に「記号」か、「隠すように滲ませている」、あるいは「紛れこんでいく」という「動詞」のあり方だろうか。小鳥が帰っていったという「こと」だろうか。それとも書き出しの文章の「劇場」だろうか。このあと、詩は、
際限のない歩みの縁であり、再び上演されるべき人物を探しているのか?
と疑問形の文がつづく。つづけることで言い直されていると考え、「上演」ということばを手がかりにすれば「劇場」が「主語」としていちばんふさわしいもののように思えるが、よくわからない。
この「主語」を省略した文章というのは、「翻訳体」とはうらはらに、きわめて「日本語」的である。日本語では、昔から「主語」が省略される。「私」ということばはつかいすぎると「自己主張」が目立つせいか、特に省略される。
西欧の言語でも、スペイン語は人称の「主語」は頻繁に省略される。ただし、その場合、「述語(動詞)」の活用から主語を特定できる。(日本語の古文も似たような感じがある。動詞の変化によって主語が特定できる。)こうしたことは例外的であって、たいていは主語が明記される。
で、ここから私は、もし小林のこの作品を英語に翻訳するとしたら、どうなるのだろうと疑問に思ったのである。「主語」をどうすればいいのだろう。「主語」を明示したとき、小林の日本語は、日本語で書かれていたときの「文体(ことばの肉体の動き方)」を維持できるか。
きっと違ったものになってしまうだろうと思う。
ここから、私の考えは飛躍してしまうのだが……。
たとえばカフカを読む。そこには小林の書いているような、主語のあいまいさはない。どの文章にも主語がある。述語がある。文章のひとつひとつが主語を持っている。そして、主語を持っているということが、どんなときでも「具体」をそなえているということでもある。そのためことばの拮抗がはげしくなる。けっして結末にたどりつかないストーリーであっても、文章が動いているときは、それぞれが具体的である。具体が積みかさなって、抽象になっていく。どんなに抽象を書こうとしても具体になってしまう。その具体と抽象の拮抗がカフカの魅力なのだが、小林の文体の場合は違う。具体を装いながら主語を省略することで、抽象からはじめてしまうのだ。
日本語は文章のそれぞれの主語をときとして省略し、その省略する意識の中に、そのことばを統一しながら動いている個人(自我)を「隠すように滲ませている」ことがある。主語が省略されることで、「私」という主語が、世界をみつめる視点として、どこからともなく浮上してくるのである。
この主語の省略(省略する方法)を、「非在」と関係させていけば、小林の書いている世界がどういう構造になっているか、わかるかもしれない。しかし、私は、そういうふうに「論理」を展開したくない。「意味」になりすぎて、きっと嘘を書いてしまう。だから、主語を省略するという日本語の文体の特徴を生かしながら、「翻訳体」を偽装することで詩を演出するのが小林のことばの運動だとだけ指摘することで、きょうの感想を終わることにする。