詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダニエル・アルフレッドソン監督「ハイネ軒誘拐の代償」(★★)

2015-06-14 20:03:36 | 映画
監督 ダニエル・アルフレッドソン 出演 アンソニー・ホプキンス、ジム・スタージェス、サム・ワーシントン

 実際にあったハイネケン誘拐を映画化したもの。予告編で見たアンソニー・ホプキンスの演技に余裕があっておもしろかったので、見たのだが……。
 予告編で十分の映画だった。「大金と多くの友人を同時に手に入れることはできない。どちらかしか手にできない」というハイネケンのことば通りになるだけの映画。犯人がハイネケンを苦しめるというよりも、落ち着きはらったハイネケンによって、犯人側が動揺する。その変化を描いている。固い友情がだんだん乱れてくる。そのストーリーは手際よく処理されているが、肝心のハイネケンと犯人たちのかかわりが意外と少ない。
 見どころは一か所。
 誘拐されてもなお威厳を保っているハイネケン(アンソニー・ホプキンス)が生きている証拠の写真を撮る。ハイネケンは「髪が乱れている。櫛が必要だ」と要求する。で、犯人側のひとりが「落ち着きすぎている」と言う。ハイネケンが驚怖でおびえている顔でないと、誘拐の証拠の写真としては切実さがない。それを聞いた瞬間、もうひとりがハイネケンの髪を手でクシャクシャにする。ハイネケンが思わず手をはらいのける。その感情がむき出しになった瞬間を写真に撮る。「しまった」とハイネケンの顔がかわる。感情が出た顔をとられてしまった。犯人の思うつぼだ……。
 ここがなぜおもしろいかというと。
 やっぱり、役者はすごい。うまいなあ、とうならされるのである。実際にアンソニー・ホプキンスは突然髪をクシャクシャにされるわけではない。ストーリーではそうだが、アンソニー・ホプキンスは「脚本」を読んでいて、そうなることを知っている。で、「何をするんだ」と怒るだけではなく、怒った瞬間「しまった」と思う。この感情のはげしい変化を1秒もないうちにやってのける。役者の集中力のすごさを感じるなあ。
 このシーン、この演技に★1個を追加した。
                  (t-joy 博多スクリーン5、2015年06月14日)





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嵯峨信之を読む(88)

2015-06-14 09:40:49 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(88)

135 哀れな妻

妻はいない
妻はいる
妻はいつまでも木を揺すつている
木の中へ消えていつた自分をとりもどすために

 妻との行き違い。そして傷ついた妻。傷つけた自分。妻はいるけれど、いつもの妻ではない。
 それはわかるのだが、「木を揺すつている/木の中へ消えていつた自分をとりもどすために」という行が私にはわからない。「揺する」という動詞と、私の感覚ではつながらない。木は揺するものではない。木はただ手をあててみるのものだ、という思いがある。
 木を揺するのは、実った果実を振り落とすときくらい。
 わからないままだが、そのあとの二行は好きだ。

向う岸はいつもとおなじ岸だ
大きな鳥がななめに重く飛んでいつた

 「いつもとおなじ」が妻との行き違いを印象づける。妻の「いつまでも」が「いつもとおなじ」であるかのように見えてくる。何度も何度もそれを見ている。
 「大きな鳥」は妻の気持ちかもしれない。「ななめに重く」が、そんなことを感じさせる。その鳥は、「木」から飛び立ったのか。
 そうであるなら、なお、木を揺するがわからない。

136 背徳の日々

 「哀れな妻」とつづけて読むと、「哀れな妻」の「いない/いる」は嵯峨の「背徳」が原因という気もするが、よくわからない。あるいは妻が「背徳」しているのかもしれない。
 「哀れな妻」は嵯峨の「背徳」に対して「怒り」、悲しみにかえて木を揺さぶっていたのか。あるいは自分自身の「背徳」を妻は嘆いていたのか。「木」のなかには楽しい日々の妻がいるのか。「木」には何かの思い出があるのかもしれない。その木と大きな鳥を一緒にみた記憶があるのかもしれない。
 この詩では

ぼくは胡桃のように収縮した

 という行と、

振出しはいくつもいくつもあるが
結末はつねにたつた一つだ

 という行が印象に残る。「胡桃」は唐突な比喩だが、唐突だからこそ、嵯峨は胡桃というものになれ親しんでいるのだという感じが伝わってくる。自然を知っている、という感じがする。
 「振出し」の二行は、嵯峨の詩が「論理」を踏まえて動いていることを印象づける。「論理」があるから、比喩に流されていくということがない。
 また「論理」がことばを支配していると思うからこそ、「哀れな妻」の非論理的(?)な行動が気にかかる。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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