池井昌樹「頓と」(「臣福」101、2015年06月発行)
池井昌樹「頓と」。いままで読んできた池井の詩とどこが違うのか。よくわからない。全行引用する。
いつものように、何回か繰り返される行が出てくる。その行の特徴は「いつも」ということばが象徴するように「かわらない」ということである。「いつもみかけたあのおとこ/ちかごろとんとみかけない」は意味としては「いつもと違っている」だが、違っていることから何かが始まるのではなく「いつもはこうだった」を思い出すがゆえに「かわらない」になってしまう。「いつもかわらない」何かを池井は思い出しているのである。
そして、きっと「いつもとかわらない」まま「どこか」で「いつも」を繰り返しているに違いないと思うのである。そう思いながら、池井自身がその「いつもかわらない」になって「いま/ここ」で、それを繰り返している。
「いつものこしたさけのかお/いつもいごこちわるそうで/かたすぼませてうつむいて/ばすまっていたあのおとこ」は池井自身である。その男になって「こんなところでひとりきり/ひとりごちたりわらったり/だれにもであわなくていい/なんにもおもわなくていい」と思っている。あのときだって、「いつも」の「おとこ」はそう思っていたに違いない。
こんな変わりもしないことを書いて何になるのか。そういう批判があるかもしれない。あるとき、ある集いで何人かと話したとき「私は池井の詩がいちばん好き。池井がいるから詩を書いている」というようなことを言ったら、その何人かから口をそろえて「昔の池井の詩はよかったが、最近はマンネリだ」ということばが帰ってきた。
うーん、きっとこの詩も、そんなふうに言われるんだろうなあ。
でも、私は逆に考えているのである。何も変わらないのがいい。ほんとうのことは変わらない。いつまでも繰り返す。その繰り返すことのできるものだけを、ひたすら何度でも繰り返す。そうすることで「定型」になっていく。
池井は「定型」をつくってきたのだ。「定型」へ向けて「生きる」。「生きる」ことを「定型」にととのえてきたのである。
池井昌樹「頓と」。いままで読んできた池井の詩とどこが違うのか。よくわからない。全行引用する。
いつもみかけたあのおとこ
ちかごろとんとみかけない
いつものこしたさけのかお
いつもいごこちわるそうで
かたすぼませてうつむいて
ばすまっていたあのおとこ
どこかへよっていたのやら
なにをおもっていたのやら
しったことではないけれど
ちかごろとんとみかけない
いつもみかけたあのおとこ
こんなところでひとりきり
ひとりごちたりわらったり
だれにもであわなくていい
なんにもおもわなくていい
どこにもいないあのおとこ
いつものように、何回か繰り返される行が出てくる。その行の特徴は「いつも」ということばが象徴するように「かわらない」ということである。「いつもみかけたあのおとこ/ちかごろとんとみかけない」は意味としては「いつもと違っている」だが、違っていることから何かが始まるのではなく「いつもはこうだった」を思い出すがゆえに「かわらない」になってしまう。「いつもかわらない」何かを池井は思い出しているのである。
そして、きっと「いつもとかわらない」まま「どこか」で「いつも」を繰り返しているに違いないと思うのである。そう思いながら、池井自身がその「いつもかわらない」になって「いま/ここ」で、それを繰り返している。
「いつものこしたさけのかお/いつもいごこちわるそうで/かたすぼませてうつむいて/ばすまっていたあのおとこ」は池井自身である。その男になって「こんなところでひとりきり/ひとりごちたりわらったり/だれにもであわなくていい/なんにもおもわなくていい」と思っている。あのときだって、「いつも」の「おとこ」はそう思っていたに違いない。
こんな変わりもしないことを書いて何になるのか。そういう批判があるかもしれない。あるとき、ある集いで何人かと話したとき「私は池井の詩がいちばん好き。池井がいるから詩を書いている」というようなことを言ったら、その何人かから口をそろえて「昔の池井の詩はよかったが、最近はマンネリだ」ということばが帰ってきた。
うーん、きっとこの詩も、そんなふうに言われるんだろうなあ。
でも、私は逆に考えているのである。何も変わらないのがいい。ほんとうのことは変わらない。いつまでも繰り返す。その繰り返すことのできるものだけを、ひたすら何度でも繰り返す。そうすることで「定型」になっていく。
池井は「定型」をつくってきたのだ。「定型」へ向けて「生きる」。「生きる」ことを「定型」にととのえてきたのである。
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