詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬『水辺に透きとおっていく』

2015-06-06 11:06:52 | 詩集
望月遊馬『水辺に透きとおっていく』(思潮社、2015年05月20日発行)

 望月遊馬『水辺に透きとおっていく』を読み進めて行って、39ページで私は思わず傍線を引いた。

ここに始まりがあると

 どうして、この一行に? 自分でもわからない。だが、そうか望月遊馬の詩には「始まり」というものがあるのだ。何かしら明確な「印」のようなものがあって、そこから始めるのだと思った。そう思うと、望月の書いていることがわかる感じがした。

おりてくる冷たい景色にわたしは
冬の邂逅をかさねて歌い告げる
ここに始まりがあると    (「写真のなかでクレイシュの子どもたちが溢れて」)

 そして、その「印」というのはどうやってつけるかというと、「対象」に「私の意識」を「かさねる」ことで「印」にするのだ。
 「冷たい景色」では抽象的すぎるが、まあ、そういうものがある。それに「冬の邂逅」という「意識」(これも抽象的すぎるが)をかさねる。「冷たい景色」を「冬の邂逅」ということばで呼ぶ(歌い告げる)。「冷たい景色」が比喩なのか、それとも「冬の邂逅」が比喩なのか判然としないが、そうやってことばを「かさねる」(どちらかを、どちらかの比喩にする)。そして、それを「始まり」とする。
 「始まり」のあとは、どうなるか。

終わりにむかう                  (「溢れる感情のむこうで」)

 「始まり」があれば「終り」があるというのは、言われてみればあたりまえのことかもしれない。しかし、私はそんなふうに考えたことがないので、驚いたのだ。特に「終わり」という名詞が「むかう」という動詞といっしょになっていることにびっくりしてしまった。
 そうか、望月のことばは「始まり」から「終り」へ「むかう」のか。「むかう」という意識があるから「始まり」もあるのだな。
 私は、この文章を「ここに始まりがあると」という一行について思ったことから書きはじめたが、それを特に「始まり」とは意識していない。むしろ、そこで「立ち止まった」という感じの方が強い。だから、この文章も「終り」に「むかって」書いているわけではない。何が書けるかわからない。ただ考えるために書いているのであって、そこには「終わり」はない。「終わり」に「むかう」のではなく、「いま/ここ」に立ち止まっている。書くことが思いつかなくなったら(それ以上立ち止まっていることができなくなったら)、そこで「終わる」だけ。そして、そこを離れて、別の場所を探す。

 で、私をびっくりさせてくれた望月のことばの運動を、「始まり」「終わり」という名詞、「かさねる」「むかう」という動詞から追いかけてみる。
 「少年飛行機」という作品の「Ⅱ 少年の庭」の書き出し。

都会の闇とはいつも少女の子宮のうすい皮膜のようなひらひらであって、指先でそっとふれてゆくと、少女のうす明りの骨の白さやそのかがやきへ、つまり断面へ、と接近する。

 「都会の闇」は「少女の子宮」と「かさね」られ(比喩で語られ)、それはさらに「うすい皮膜」、さらに「ひらひら」と「かさね」られる。ここでは「比喩」を「かさね」ながら、ある種の「方向性」(むかうという動詞のあり方)が示されている。「かさね」は一回ではない。複数回「かさね」がおこなわれるということが望月のことばの動き(「むかう」)を特徴づけている。
 「始まり」をそうやって印づけた後、その「始まり」が抱え込んだ「方向性」を別の方法で「動詞」にする。「肉体」を動かす。それが「指先でそっとふれ」る。望月の場合は、ただ「ふれる」のではなく、「ふれてゆく」という具合に複合動詞になる。「ゆく」は「むかう」を言い直したものである。「ふれる」ことで、そこではないどこかへ「むかう(むかって/ゆく)」のである。
 そしてその「方向性」は、「始まり」が「闇」であったにもかかわらず「暗い」ではなく「うす明り/白さ/かがやき」という、いわば「闇」とは反対のものを指向している。「矛盾」だね。だが、これが「矛盾」だから詩になる。その動きが「真実」になる。
 どういうことか。言い直すと、「始まり」がそのまま予想された(準備された)「終わり」へ「むかう」のではなく、望月が独自に用意した「終わり」に「むかう」。望月が「むかう」という動きをとらないかぎりあらわれてこない「終わり」へ「むかう」。
 「始まり」が望月の「作り出した印」であるように「終わり」もまた望月が「作りがした終わり」(生み出した終わり)なのである。「始まり(かさねる)」-「むかう(かさねる)」-「終わり(かさねる)」という「変化」が独自のものとして、そこに姿をあらわす。「終わり」よりも、その「始まり」-「終わり」の「過程」そのもの(「かさなる」の変化)が、そのときに詩としてそこに存在することになる。
 「暗い」から「明り/かがやき」へと「むかう」奇妙な「矛盾」を、望月は

つまり断面へ、と接近する。

 と言い直している。ここが「詩」。「闇」に「ふれる」。「ふれる」というのは、一般的に「表面」に触れる。核心(中心部分/奥部)に触れる、というのは核心を表面にひっぱり出すということだろう。望月は「表面」でも「中心(奥部)」でもなく、その「断面」に「ふれる」。「表面」や「中心」と違って「断面」は、ふつうは存在しない。それを叩き割ったときにのみ初めて存在するものである。それが望月にとっての「終わり」というものである。
 そこへ「達する」のではなく、「接近する」というのも重要な「動き/動詞」である。「接近する」は「達する」ことを保留するということ。(だから、望月の「終わり」は「終わり/かさなる」ではなく「終わり/かさねる」なのである。)その保留の中に、「過程」がいくつも可能性として存在する。「達して」しまうと、「過程」の「可能性」が限定されてしまう。この「保留」を望月は「続ける」という「動詞」で言い直している。
 引用した二行のつづき。

わたしたちは双子のひきわけた景色の両端へとそれぞれの手をのばして水にひたる風景を遠景としてとらえなおし、遠ざかる視界のなか、かがやきが失われるまでの白い柩をみつめ続けていて。

 そこに「続ける」という動詞がある。ここでは「断面」は「双子のひきわけた景色の両端」と言い直され(再比喩化され/「かさね」られ)「ふれる」は「手をのばして」と言い直され、そこに別の「方向性」がつけくわえられている。その言語作業をくりかえすことが、望月の詩行為ということになるのだと思った。
水辺に透きとおっていく
望月遊馬
思潮社
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嵯峨信之を読む(80)

2015-06-06 09:36:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(80)

127 夕日が試みる批評

わたしのささやかな感情は
うつりゆく夕日につれて少しずつ位置をかえる

 タイトルそのものが抽象的だが、ここでは「批評」とはどういうものかが比喩をとおしてスケッチされている。「批評」は「詩」ではなく「散文」形式で書かれることが多い。「散文」の特徴は「少しずつ」である。「少しずつ」事実をつみあげながら、というより「事実」といわれるものを「少しずつ」つみあげながら「全体」をいままでとは違った形で統一してみせる。違った視点で「全体」を統一しなおし、そうすることで新しい「視点」のあり方を示す。
 「急激」な運動(過激な運動)でも可能かもしれないが、「少しずつ」が嵯峨の選択した「批評」の方法なのである。
 そしてその批評は抽象からはじまることもあれば、具象からはじまることもある。嵯峨は「ささやかな感情」と「抽象」からはじめている。「抽象」から「少しずつ」「具象」へと動いていく。「少しずつ位置をかえる」は次のように言い換えられる。

ある距離をおいて
わたしは椿の木の周りをまわる

 感情は「木の周りをまわる」という肉体の動きで言い直される。このとき「人間」が具体的になり、嵯峨の肉体の動きと読者(私)の肉体の動きが重なる。そして、自分が木の周りをまわったときのことが呼び覚まされる。嵯峨の「感情」ではなく、自分の「感情」を思い出す。
 ふいに嵯峨に近づいた感じになる。
 「ある距離」をおく、というのも、嵯峨の「批評」のスタイルなのだろう。これは「少しずつ」ではなく、「少し」距離をおいて、ということ。「対象」にべったりと密着しない。ちょうど「椿の木の周りをまわる」ように。この一行は「少しずつ」を補って「わたしは椿の木の周りを少しずつまわる」とすると、嵯峨の対象への向き合い方がわかる。
 「少しずつ」動き、周りをまわりながら動き、そのなかで接近し、一体化するのにふさわしい「対象」を見つけ出し、それと一体化し、代弁する。「わたし」が語るのではなく、「対象」に語らせる。

赤い花はじぶんの夕日かげに驚いて
葉の繁みにかくれようとする
そして下に落ちている一つ一つの魂に気づいて愕然とする

 この変化は「少しずつ」だからこそ説得力がある。「批評」が親身なものとなる。読者は(私は)、嵯峨の「ささやかな感情」が「椿の花の感情」と一体になっているのに誘われて、同じように「椿の花」になり、落下した花びらを「魂」なのだと感じ取る。
 でも、この感じは「批評」? 詩ではないのか。
 わからない。ただ、こうした動きを「少しずつ」書くことを嵯峨は試みている。「少しずつ」のなかに、嵯峨の生き方の「基本(思想)」のようなものを感じる。






嵯峨信之全詩集
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